前回の続きになります。
「蛤御門の変」後の政界の動きについてでした。
「蛤御門の変」において長州藩は御所内へ発砲した形となり、長州藩は朝廷の敵、「朝敵」として扱われることになってしまいました😓
尊王攘夷派の中核である長州藩にさらなる打撃を加えるべく、幕府は朝廷から長州征討の勅書を発令させ、幕府は諸藩に出兵を命じます。
長州征討軍は総督に前尾張藩主の徳川慶勝(よしかつ)、参謀には薩摩藩士西郷隆盛が任命されました。
また外国人殺傷を行うなど、貿易に著しい妨げとなっていた尊王攘夷派に打撃を与える機会をうかがっていた諸外国は、イギリス公使オールコックの主導により、前年の長州藩による外国船🚢砲撃事件の報復を実施します。
イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関を砲撃し、陸戦隊を上陸させて下関砲台などを占拠します。
この事件は、四国艦隊下関砲撃事件と称されています。
長州征討(実際に戦火を交えてはいない)と四国艦隊下関砲撃事件によって致命的な打撃を受けた長州藩は、保守の俗論(ぞくろん)派と攘夷の正義派に分かれて対立が深まっていきます。
俗論派といわれた上層部が藩の実権を掌握すると、禁門の変の責任者として福原越後(ふくはら えちご)・益田右衛門介(ますだ うえもんのすけ)・国司信濃(くにし しなの)の3人の家老に切腹を命じ、首を差し出すことで幕府に対して恭順(きょうじゅん:おとなしく命令に従うこと)・謝罪の態度を示しました。
こうして長州藩は、幕府との全面戦争を回避したのです。
この時点において、薩摩藩と長州藩は著しい敵対関係にあります。
しかし❢❢
薩摩藩は、藩論を大きく変える事件を経験することになります。
その契機となった事件が、生麦事件です。
1862(文久2)年、街道に出ることを控えることとした幕府の通告を知らず馬🐎で遠乗りに出かけた、上海在留商人リチャードソンら4人のイギリス人が、神奈川近郊の生麦村(現在の横浜市鶴見区)で「ある大名行列」に出会います。
この行列は、勅使大原重徳(しげとみ)を擁し幕政改革の朝廷命令を伝達して、京都へ帰る途中の島津久光の大名行列でした。
イギリス人は島津久光の行列に遭遇した際に馬🐎からおりることなく、行列を乱したとしてリチャードソンが殺害され、他の2人は負傷、もう1人は難を逃れます。
この事件により、横浜居留地に住む外国人は怒りをあらわにします😡
居留地とは、通商条約に基づき開港・開市場で居住営業権を得た締約国外国人の専住区域のことです。
居留地における外国人は領事裁判権とともに自治権を持ち、日本の行政・司法の管轄から自由な特権を獲得していました。
自国民を殺傷されたイギリスは、幕府と薩摩藩に謝罪と犯人の処罰、賠償金の支払いを要求します。
幕府はイギリスの要求通りに賠償金を支払い解決をみましたが、薩摩藩はリチャードソンらを殺傷した犯人を出すどころか、犯人をでっちあげて行方不明とし、鹿児島湾上に艦隊🚢を浮かべて迫るイギリス側との交渉に、何と❢イギリス人殺傷の犯人である奈良原喜左衛門(ならはら きざえもん)らをあたらせているのです😲
交渉を打ち切ったイギリスと薩摩藩は、ついに戦火を交えることになります。
薩英戦争の勃発です。
この戦争でイギリス・薩摩藩はともに大きな損害を被ります。
イギリスの砲撃により、薩摩藩の城下町は1割焼失したとされています。
薩摩藩はこの戦争を契機として、イギリス海軍の威力を強く認識することになります。
公武合体派の薩摩藩内にもあった攘夷の考え方はしだいに消え、以後薩摩藩とイギリスは急速に接近し、イギリス側は薩摩藩の軍艦購入のあっせんをしたり、薩摩藩のイギリス留学生派遣が実現するなど、薩英間は緊密化していったのです。
ここに尊王攘夷派の中心であった長州藩と、公武合体派の中心であった薩摩藩の共通点を見出すことが可能となります。
つまり、両藩ともに外国との戦争を通じて、藩論が大きく変化しているということです。
薩摩藩では、下級武士の西郷隆盛や大久保利通らが藩政を主導し、幕府を絶対視する考え方が改められるようになります。
薩摩藩は、尊王討幕を掲げるようになるのです。
長州藩でも、保守派である俗論派から、高杉晋作が下関で挙兵することで主導権を奪いました。
幕府に恭順するという姿勢を転換させ、軍制改革を行って軍事力の強化をはかるのです。
こうして、長州藩は幕府に従うという路線から、幕府に敵対する(=討幕派の形成)という姿勢を鮮明化していきます。
ここに敵対関係であった薩摩藩と長州藩との間に、提携の可能性がみえてくるのです。
こうした動きに対して、幕府はどのような行動に出るのでしょうか❓
この続きは、次回にしたいと思います😊