前回の続きになります。
尊王攘夷派の中心であった長州藩の「とんでもない行動」についてでした。
尊王攘夷派の中心となっていた長州藩も、はじめは公武合体運動を進めていたのですが、1862(文久2)年に中下級藩士の主張する尊王攘夷論を藩論とし、朝廷内の尊王攘夷派の公家と結び、攘夷の決行と鎖国への復帰を江戸幕府に迫ります。
幕府はやむなく1863(文久3)年5月10日を期して、攘夷を行うことを諸藩に通達するのです😲
そして長州藩はこれに応じ、1863(文久3)年5月10日、下関海峡を通過した外国船🚢に砲撃することで、ついに攘夷を実行に移したのです❢❢
幕末の政治の舞台は、「将軍」が居住する江戸ではなく、「天皇」が居住する京都でした。
この京都で活発に活動して政局の主導権を握った長州藩を、京都から追放する事件が起こります。
1863(文久3)年に起きた、八月十八日の政変です。
八月十八日の深夜、京都守護職であった松平容保や公武合体派の上層公家らが天皇の居所に参上し、会津藩・薩摩藩の兵が御所の警備につきます。
ここで決定されたのは、三条実美(さねとみ)ら尊王攘夷派の公家の排除、長州藩の京都からの排除、長州藩士の御所出入り禁止などでした。
これによって朝廷の実権は公武合体派に移り、三条実美や沢宣嘉(さわ のぶよし)ら7名の公家と長州藩兵1000余人は京都を退去し、再挙を期して長州へと向かいました。
これを七卿(しちきょう)落ちといいます。
難関大学入試レベルです😊
この後長州藩は、八月十八日の政変で失った勢力を回復する機会をじっと待つことになります。
そんな中、ある事件が発生します。
八月十八日の政変で尊王攘夷派勢力は京都を追われることになりましたが、翌1864(元治元)年には、尊王攘夷派の京都潜入が活発化してきます。
そして、三条小橋の旅宿池田屋に、長州藩士や諸国の脱藩武士がひんぱんに出入りして、何やら謀議(ぼうぎ:犯罪の計画・方法などを相談すること)をしているらしいという情報を新選組がつかみます。
「勝部真長 監修 幕末・維新 知れば知るほど 実業之日本社 1996年」
「田中彰 日本の歴史⑮『開国と討幕』集英社 1992年」
などを参考に、事件の概略をみてみます。
1864(元治元)年6月4日深夜、新選組は道具商人であった古高俊太郎(こだか しゅんたろう)を逮捕します。
古高の拷問を担当した新選組副局長の土方歳三は、天井の梁(はり)へ逆さ吊りにした古高の足の甲から裏へ五寸釘を突き通し、そこへ太いろうそくを立てて火🔥をともします😲
伝ってくる熱いろうに苦しんだ古高は、ついに驚くべき尊王攘夷派の計画を暴露するのです😨
古高俊太郎という人物は近江(現在の滋賀県)の出身で、枡屋喜右衛門(ますや きえもん)の偽名で道具商と化していた尊王攘夷派の志士でした。
これによって、公武合体派の公家や一橋慶喜、松平容保らを暗殺する蜂起計画があることが発覚します。
古高逮捕の情報は、ただちに長州藩邸に伝わります。
尊王攘夷派による決起に参加する志士たちは、今後の動きを話し合うべく池田屋に集合します。
この池田屋を襲撃したのが、近藤勇(こんどう いさみ)率いる新選組でした。
1864(元治元)年6月5日、午後10時のことでした。
池田屋の二階での1時間余りの死闘の末、新選組は暗殺計画の幹部7名を殺害し、多数を逮捕したのですが、この激闘から間一髪逃げることに成功した重要人物がいます。
のちに「維新の三傑」の1人に数えられることになる桂小五郎です。
後年の桂小五郎の自叙伝では、一度池田屋に行ったが、まだ同志が来ていなかったので対馬藩邸に寄ったら事件が起こった、ということになっています。
しかしこれは言い逃れの言葉ではないか、とされており、桂小五郎には「逃げの小五郎」のあだ名がつけられることになります😓
この池田屋事件は長州藩士を憤激させ、京都へ攻め上らせるのに十分な理由を与えることになりました❢❢
1864(元治元)年7月、長州藩は幕府側の薩摩藩・会津藩・桑名藩(くわなはん:現在の三重県)の藩兵と御所付近で激突します。
御所には様々な門がありますが、その1つ「蛤御門(はまぐりごもん)」の付近で戦闘が行われたことから、この戦争を「蛤御門の変」、あるいは「禁門の変」と称しています。
この戦闘で放たれた砲弾が御所内に落ち、幼かったのちの明治天皇が失神したという話はよく知られています😲
この戦争で長州藩は敗北し、尊王攘夷派の志士の多くは自刃もしくは戦死してしまいます。
この「蛤御門の変」後の政界はどのように展開していくのでしょうか❓
この続きは、次回にしたいと思います☻