みなさんは、「名誉革命」と呼ばれる革命を知っていますか❓
名誉革命は、17世紀末にイギリスで起こった革命です。
国王ジェームズ2世のカトリック復活政策と議会無視に反対した議会が、国王を国外に追放し、その長女メアリー2世と夫のオレンジ公ウィリアム3世を共同統治者にしました。
こののち、イギリスでは立憲君主制の基礎が確立され、議会が最重要な政治機関としての地位を獲得し、行政権を担当する内閣の存立は議会(とくに下院・衆議院)の信任に基づくという政治制度である「議院内閣制」が発達して各国に普及することになります☻
議院内閣制の特徴は、議会の多数派が内閣を組織し、政権の座につくことにより立法(議会)と行政(内閣)との間に協力関係が構築されることです。
国民から多くの支持を受けて当選した議員によって構成される議会と、その議会の中で多数派を占める政党によって運営される内閣との間に対立が起きた場合には、議会は内閣に対して不信任を議決し、逆に内閣は国民に信を問う(信任するかどうかをたずねること)ために議会を解散するなどの手段がとられます。
内閣が行う政治は、議会によって信任される必要があるため、議会と内閣の間には協力関係が不可欠です。
しかし、行政・立法それぞれによる恣意的(しいてき:自分勝手な様子)な考えによって事が進められないよう、相互に牽制(けんせい:相手に自由な行動をとらせないようにすること)し合っているのです。
この議院内閣制は、現行の日本国憲法には、例えば第66条「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う」などのようにしっかりと規定されています。
選挙という国民の意思がもっとも反映される場において、多くの支持を集めた政党の党首が内閣総理大臣に指名され、内閣を組織していきます。
これを「憲政の常道」と呼び、現在では至極当然のことのように思われる慣行ですが、戦前の日本では全く違った状況がみられました。
日本史の考え方61「なぜ戦前の内閣総理大臣に衆議院議員経験者が5人しかいないのか②」でも書きましたが、戦前は内閣が天皇によって任命された閣僚で構成されて、大臣は天皇を輔弼(ほひつ:天皇の政治を助けること)するだけの存在でした。
議会に対する責任が明確に定められていなかったことからわかるように、議院内閣制が十分に発達することはありませんでした😓
1924(大正13)年に発足した加藤高明(かとう たかあき:憲政会総裁)内閣から、1932(昭和7)年の犬養毅(いぬかい つよし:立憲政友会総裁)内閣の崩壊にいたる約8年間、衆議院に勢力を占める政党の党首が内閣を組織するという慣習である「憲政の常道」が行われましたが、これは決して制度的に保障されたものではなく、犬養毅が五・一五事件で射殺された後は、ついに政党内閣の誕生をみませんでした。
当時の政党内閣は、元老(げんろう:正式な官職名ではない。後継内閣首班の推薦・国家の重要内外政務について、天皇に対して意見を述べた)の推薦によって成立していたにすぎませんでしたので、その存在は極めて不安定なものでした。
これに対して戦後の内閣は、日本国憲法が議院内閣制を保証したためすべて政党内閣です。
さきほど戦前期における政党内閣について触れたのですが、実は戦前期において完全な政党内閣は存在しませんでした😲
例えば、陸軍大臣・海軍大臣などは必ず現役の大将・中将といった軍人が就任していたからです。
ではなぜ完全な政党内閣が存在しなかったのでしょうか❓
それは大日本帝国憲法が、軍部・官僚・政党の間の協調関係による政治運営を要求しており、議会に限らず1つの政治機構が政権を独占的に維持するには不都合な構造になっていたからだ、とされています。
「軍部・官僚機構・政党」という3つの機構の中で、時代にもっとも相応しいと考えられる機構を元老は見定めていたのだといえます。
その相応しい機構が「政党」である、と判断された時代に政党内閣が誕生したのです。
「憲政の常道」も、戦前と戦後とではかなりの違いがあることがわかります。
現在、国民主権下における「民意」というものが、どれほど重視されているか。
政治を志す人は、この点を肝に銘じておかなければなりませんね。
大日本帝国憲法下における「憲政の常道」の特徴を考えさせる入試問題を参考に、政党内閣について考えてみました。
みなさんは、どのような感想を持ちましたか❓