前回の続きになります。
聖武天皇の次の皇位継承をめぐって、大きな危機感を抱いた藤原氏が立案した「起死回生の戦略」について考える、ということでした。
藤原不比等の子である藤原四子【武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)】による計画は、長屋王が自殺したあとに実現することになります。
光明子が皇后に立ったのです😲
日本史の教科書や参考書などを見ると、皇后に関して次のような説明がなされています。
「皇后は律令では皇族であることが条件とされ、天皇亡き後、臨時に政務をみたり、自ら天皇として即位することもあり、また皇位継承への発言権を持てる立場であった。」
先ず、皇后の権限についてみてみたいと思います😊
前回のお話で、聖武天皇と県犬養広刀自という女性との間に、安積(あさか)親王という皇子が誕生したことについて触れました。
聖武天皇と光明子との間には、基王(もといおう)という男の子👦が誕生したのですが、早逝してしまい、新たな男児👦誕生が期待されていました。
聖武天皇と光明子は同い年です。
共に701(大宝元)年生まれ。
基王が死去した時は、聖武天皇と光明子ともにまだ27歳でした。
もし今後聖武天皇と光明子との間に男児👦が生まれた場合、安積(あさか)親王と皇位継承をめぐって激しく対立してしまう可能性があります😓
しかし!!
光明子が皇后となっていたのであれば、皇位継承に大きな発言権を持つことになります。
安積(あさか)親王ではなく、聖武天皇と光明子との間に生まれた男児👦を天皇に即位させる力を持つことになります。
こうなれば光明子の兄である藤原四子は、天皇の伯父として、政界において絶大なる権力を保持できるようになるのです。
ただ、ここで大きな問題が藤原四子を悩ませることになります。
それは、皇后は律令では皇族であることが条件とされていたことでした。
光明子は、その死後に「太政大臣:正一位」を追贈され、「全ての官職でトップかつ位階全30階の中でトップ」に立った藤原不比等の子ではありましたが、藤原不比等は皇族出身者ではありません。
藤原不比等の子である光明子も父親同様、皇族出身者ではないのです。
つまり、皇后に立つ条件がそろっていないのです!
藤原四子が、皇族ではない光明子を皇后に立てる、という前代未聞の策略を遂行しようとした時、大きな障害となる存在がいました。
それが、長屋王でした。
長屋王は、天武天皇の孫であり、同じく天武天皇の孫である吉備内親王を妻に持つ生粋の皇族でした。
皇族勢力を代表する左大臣の長屋王が、藤原四子の野望の前に立ちはだかったわけです。
藤原氏にとっては最強・最大の抵抗勢力である長屋王を取り除くことが最も重要でした。
そこで、長屋王が左道(さどう)を学び国家を傾けようとしていると密告させて、兵により邸宅を取り囲み、自刃するよう仕向けたわけです。
奈良時代の歴史の基本史料である『続日本紀(しょくにほんぎ)』では、密告を偽りとしていることから、この事件は藤原四子によって仕組まれた事件であったと考えられています。
この事件後、藤原四子は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立てることに成功し、藤原氏は大きな権威を獲得することになります。
しかし、大きな権威・権力を手中に収めたかに見えた藤原四子は、737(天平9)年に流行した天然痘によって相次いでこの世を去ります😓
長屋王の怨念でしょうか…
このあと、聖武天皇と光明子との間に、男児👦はついに誕生しませんでした。
聖武天皇の後に即位したのは、娘の孝謙(こうけん)天皇でした。
孝謙天皇は重祚(ちょうそ:一度退位した天皇が再び皇位につくこと)して称徳(しょうとく)天皇となり政治を行いますが、称徳天皇亡き後は、天智天皇の孫である光仁天皇が即位しています。
天武天皇系の天皇は称徳天皇で途絶え、光仁天皇の子である桓武天皇によって、天武天皇系の天皇の都であった平城京から新しい地へと都が移されたのでした。
歴史という人間の営みは、実に哀しみに満ちています。
しかし、未来へと向かって当時を必死に生きた過去の人々から、今を生きるヒントを学んでいきたいと強く思っています。