前回の「なぜ鎌倉武士は一騎打ち戦にこだわるのか」に関連しているのですが、本日は「永仁の徳政令」について理解を深めてみたいと思います。
「永仁の徳政令」とは、1297(永仁5)年に鎌倉幕府によって発令された、御家人所領の質入れ・売買についての法令です。
質入れ・売却された御家人所領の無償返却を内容としていたことから、我が国最初の徳政令して名高いものとなっています。
「永仁の徳政令」は、蒙古襲来後の御家人の窮乏を救うことを目的とした政策です。
蒙古襲来は、元軍の2度にわたる襲来という、未曽有の国難でした。
教科書などには、主として九州地方の武士がよく戦ったこともあり、元軍の襲来から日本を守ることに成功した、と書かれています。
戦後当然ですが、御家人は鎌倉幕府に対して、「奉公=軍役」に対する「御恩=恩賞(土地)」を強く求めることになります。
しかし元軍から新たな領地を獲得したわけではなかった鎌倉幕府は、御家人たちに多大な犠牲を払わせたのですが、十分な恩賞を与えることができず、御家人たちの信頼を失う結果となってしまいました😓
この時期の御家人が窮乏していた理由として、次の3つが考えられます。
①蒙古襲来で多大な犠牲を払ったにも拘らず、幕府からの恩賞が不十分
②分割相続の繰り返しによる所領の細分化
③貨幣経済の浸透による出費増
①に関する説明です😊
1221(承久元)年、後鳥羽上皇が倒幕を図って挙兵した事件、承久の乱が起こりました。
この戦いは幕府軍の圧倒的な勝利に終わり、幕府は仲恭(ちゅうきょう)天皇を廃位させ、後鳥羽上皇ら3上皇を配流するなど、皇位継承や朝廷の政治にも深く干渉するようになります。
上皇方についた貴族・武士の所領3000余ヵ所を没収し、戦功のあった御家人らをその地の地頭に任命することで、「奉公」に対する「御恩」を与えたのです。
承久の乱のように、幕府が新たな所領を獲得し、「御恩」として与えることができる土地を確保できたのであれば問題ないのですが、蒙古襲来のように外敵を撃退しただけで、「御恩」として与える土地を獲得していないとなれば、話は別です😨
御家人の「御恩」給与の要求に、幕府は成す術がありません😓
多大なる犠牲を払って戦ったにもかかわらず、「御恩」が与えられないのでは、御家人は窮乏していく他はありませんでした。
②に関する説明です😊
鎌倉武士は、「分割相続」を原則としていました。
親の財産を複数の子に譲与するというこの財産相続形態は、嫡子だけが遺産を受け継ぐ単独相続とは異なり、一族全てに財産分与があるために不満が生まれにくく、一族の結束を図る上で有効な相続形態であったと考えられます。
また鎌倉時代は、女性の地位が比較的高く、相続の際も男性と同じく財産の分配にあずかっていました。
しかし、世代を経るにしたがい所領が細分化し、その分、所領からの収益が減っていくことになります。
ですから、鎌倉時代末期には、女性に与えられる財産が少なくなり、女性の地位も低下する傾向があらわれるのです。
さらには分割相続の原則が崩壊し、嫡子が全ての所領を相続する単独相続が一般化し、財産をめぐる一族内の争いが激化していきます。
こうして鎌倉幕府は滅亡していくのです。
③に関する説明です😊
貨幣経済は、まさに現代の経済と同様です。
品物を購入するには、現金💸が必要とされるわけです。
現金の必要性に迫られた御家人は、自らが所有する所領を売却したり、または土地を担保に当時の金融業者(高利貸し)であった借上(かしあげ)からお金を借りるのです。
しかし、借りた額(元本)+利息の支払いが出来ない場合が多く、御家人は多くの所領を失うことになりました😢
こうした状況下にあった御家人を、幕府としては見捨てるわけにいきませんでした。
そこで、御家人救済を実行すべく「永仁の徳政令」を発令するのですが、日本史の教科書等には次のような説明がなされています。
『幕府は、御家人救済を目的に「永仁の徳政令」を発令したが、効果は一時的であった。』と。
なぜ、効果は一時的、だったのでしょうか❓❓
幕府の救済策の問題点はどこにあったのでしょうか❓
この続きは次回にしたいと思います。
皆さんも是非考えてみて下さい☻