現在の被災地をテレビ映像で見ると、家の土台だけが
残り、何も無くなった町が映る。でも2年前は、津波に
押し流された家屋の瓦礫と、塩分をたっぷり含んだ土砂と
人間や犬・猫・馬などの動物などの遺体、押し流された
松並木や植物に満ちていた。
2111年3月11日午後3時半頃、ラジオから仙台空港
の滑走路やターミナルビルが津波に呑まれ、航空機やヘリ
コプターが流されてゆく様子を伝えていた。
「信じられません」というレポーターの泣きそうな絶叫。
同じ頃、航空自衛隊松島基地のヘリや航空機も壊滅。
仙台市若林区の自衛隊霞の目飛行場は何とか無事だった。
むろん仙台港も甚大な被害。ガソリンや灯油を積んだ船舶、
救援物資や救援隊を乗せた航空機が使えなかった。
そんな窮地を救ってくれたのは、米軍航空母艦+海兵隊
などの「トモダチ作戦}だった。泥と瓦礫に埋まった仙台空港
は、2週間あまりで滑走路に輸送機が発着出来るまでに回復し、
1か月後には民間航空機が離発着出来るまでになった。驚く
べき迅速さだった。沖縄では兵員が何かと問題を起こして非難
されているようだが、私たちはあなたたちに恩義を感じている。
「ありがとう」
台湾をはじめ全世界から義捐金が寄せられた。南三陸町志津川
を訪れたのはイスラエル軍災害派遣の医療チームだった。3月
27日成田着。志津川のプレハブ小屋で4月10日まで医療
活動に従事して、医療器材は公立志津川病院に無償供与された。
公立志津川病院は汐見町という場所に建っていた。私は行った
ことはないが、4階建てで窓からは綺麗な海が見えていただろう。
潮風が心地よい静かで穏やかな病院だっただろう。しかし津波
は情け容赦なく4階までを呑みこんだ。屋上まで逃げ切れなかった
看護師4人と入院患者109名中67名が津波の犠牲になった。
入院中というのはたいがい、点滴をしたているかギプスをつけて
いて歩行が困難だ。避難するには看護師さんに点滴を外して
もらう必要がある。病院というのは冷暖房完備で、患者は常に
パジャマ1枚程度の薄着。移動はエレベーター。いかに迅速に
屋上までの避難行動に移ったとしても、30分程度の時間は
かかる。しかも動ける患者の場合に限られる。スタッフは動け
ない・歩けない患者を見捨てるわけにはいかないだろう。
日本の太平洋側には、こうした病院・老人福祉施設が数多い。
このへんの災害対策は今後の課題だろうね。
、
イスラエルの太、世界各国から救援隊が駆けつけてくれた。
そして日本各地から救援物資、義捐金が寄せられた。10万人
の自衛隊の皆さん、1か月で寸断されていたガス管を修復
してくれた4000名の全国ガス屋の皆さん、ありがとう・
ボランティアの人たちによって重機では手の届かない泥が取り
除かれ、流された家族写真が拾い集められ、どんぐり拾いから
苗を育て、防潮の森をつくろうプロジェクトもスタートした。
「みんな、本当にありがとう」