16世紀後半のヨーロッパには、宗教改革の嵐が吹き荒れていた。
カトリック対プロテスタントの血みどろの抗争。その頃の日本は、
戦国乱世のまっただ
中にあった。
スペイン生まれの宣教師・フランシスコ・ザビエルが鹿児島に
やって来たのは、1549(天文18)年の事だった。ザビエルは
島津氏の許可を得て、キリスト教の布教に着手した。好奇心旺盛な
九州の民衆は、こころよくザビエルに接した。カタコトのコミュニ
ケーションが成立した。南蛮人のバテレン(司祭)が説いた天帝如来
(天地創造神・デウス)の教えは、またたくまに民衆に広まっていった。
ザビエルは、最初の一年で三千人以上の洗礼を行ったと言われている。
南蛮宗の信者は、九州を支配していた大名にも広まった。有馬・
大村・松浦・小西・宗・黒田各氏が、妻子・一族ごとに洗礼を受けて
入信。領内に南蛮寺の建設が認められた。彼らキリシタン大名の中
でも特に熱心だったのは、豊後国(現・大分県)の領主・大伴義鎮
(よししげ)だった。
大友氏はもともと、相模国(現・神奈川県)足柄郡大友村の豪族で、
足利尊氏に味方して室町幕府を支え、東九州一帯の守護大名に成長
した家柄である。大友義鎮は、ザビエル来日当時19歳。新しい
思想に最も影響を受けやすい、多感な年頃だった。この義鎮こそ
1583(天正11)年にローマ教皇のもとに少年使節団を派遣した
大友宗麟その人である。
この豊後国に、ポルトガルの医師「ルイス・アルメイダ」がやって
来たのは、ザビエル来日から6年後の1555(弘治2)年の事だった。
豊後国では、コスメ・ド・トーレス神父を中心とするキリシタン
信徒が、布教と救護活動を続けていた。アルメイダは彼らが作った
「育児院」の拡張を最初の仕事にした。育児院の子供たちは、貧しさ
ゆえに両親に殺されかけた赤ん坊たちだった。避妊に関する知識や
技術がないために、子供は産むにまかせるが、食いぶちを減らす
為に「間引く」のである。
キリシタン信徒たちは、そうした子供たちを引き取って乳を与え、
育てようとしていたのである。ポルトガルの裕福な商人でもあった
アルメイダは、私財五千金を投じて「診療所」も建設。医療
ボランティア活動に着手した。30歳だった。
大友義鎮は、1559(永禄2)年に豊後港を外国船に開港する
ことを決定した。これによって豊後府内は、長崎・平戸と並ぶ
貿易港になってゆくのである。キリスト教布教の活動資金は、
毛織物輸入の仲買によって得ていた。この貿易のもたらす巨大
な利権をめぐって、豊臣秀吉とキリシタンは鋭く対立する事に
なるのだが、それは後の事。豊後国で信頼され、資金的バック
アップを得たアルメイダは、この年「診療所」の大増築を行った。
これが、日本初の西洋式病院だと言われている。
アルメイダは、外科手術を得意とした。採光の良いベランダ
に手術室をつくり、日本人医師の弟子たちに見学させながら、
1日に6~7人の手術を行うこともあったという。
病院には重症患者五~六十人が収容され、ターミナル・ケアを
含む医療が行われていた。外来患者は身分の上下を問わず、常に
百人ほどあり、アイレス・サンシエスを長とする看護スタッフが、
献身的に患者の世話にあたった。
アルメイダの病院には、別病棟が二ヶ所あった。ハンセン病患者
と天然痘患者を収容する施設である。彼らはここで、キリスト教の
「愛」に基づく手厚い介護をうけた。さらにアルメイダは、弟子
たちを医療スタッフとした「巡回診療チーム」を編成し、病院外
二十三里(約9キロメートル)に住む貧しい人々に、無料で医療
行為を行い、薬を投与した。豊後国に「南蛮医王如来」が出現
したという情報は、京都はもちろんの事、遠く関東地方にまで
伝えられたという。
アルメイダの病院運営が軌道に乗り始めた頃、本州では戦国
大名の勢力争いに大きな異変が生じていた。1560(永禄3)年
5月12日、東海地方の大名・今川義元は、2万5千人の兵を
率いて駿府(静岡市)より出陣。京都を目指した。足利将軍家を
補佐して、天下に号令するのが目的である。
今川家は、吉良家や細川家と並ぶ足利家の分家であり、大義
名分も実力も十分にあった。駿府と京都の中間地点に、尾張
(愛知県西部)という小国があった。領主は「たわけ殿」とうわさ
されていた織田信長・26歳。兵力は最大でも4000人程度。
今川軍では問題にもしていなかった。
5月19日午前11時半。織田信長家臣・梁田四郎左衛門政綱
が、重大な情報を信長に伝えた。
「今川義元、田楽狭間にて休息中。」
信長率いる三千の兵は、一丸となって今川本陣のある小さな丘を
目指した。正午から降り始めた滝のようなにわか雨が、織田軍の
動きと音をカモフラージュした。
「死生は天にあり。目指すは義元の首、ただ一つ。」
午後2時過ぎ、織田軍は田楽狭間に殺到した。予想もしない奇襲
攻撃に、今川本陣はあわてふためくばかり。毛利新助が義元の首を
あげ、3時には戦闘終了。天下に織田信長の名が轟く事になった。
この今川軍敗北によって、人質の身分から解放されたのが松平元康。
後の徳川家康である。
信長が足利義昭を奉じて京都に入ったのは、田楽狭間の戦いから
8年後の、1568(永禄11)年の事だった。京都の町は戦乱で荒れ
果て、難民が多数流入していた。ここで救護ボランティアの活動を
していたのは、ポルトガル人司祭・ルイス・フロイスを中心とした
キリシタン信徒たちだった。
フロイスは、キリシタン大名・高山右近らの仲介により、二条城
の工事現場で信長と会見する事が出来た。信長はフロイスに、京都
在住と布教を許可し、南蛮寺建設を援助した。またフロイスの願い
により、近江国(滋賀県)の伊吹山に、薬草園の為の土地が与えられた。
天帝宗の南蛮寺は、京都の医療救護活動の拠点として、たちまち
大評判となった。
「豊後国だけじゃなく、京にも菩薩が現れなさった。」
実際、街にあふれていた難民の大半は、生きる目的や希望を失って
いただけだった。彼らは南蛮寺で風呂を使い、衣服を支給され、粥
が与えられた。「どくだみ」や「げんのしょうこ」などの薬草茶を
飲んだ。皮膚疾患には、簡単な外科手術も行われた。
こうしてしばらく休養し、優しく接するキリシタン信徒たちから、
奇跡を起こす異国の天帝如来の話を聞かされた。彼らは、普通の
健康体に戻るのと同時に、人間性を回復した。
彼らにしてみれば、これだけでも奇跡的な出来事だった。眠って
いた魂が、熱く揺さぶられるような感動があった。やがて彼らが、
天帝宗布教の第一線で活躍する事になるのである。信長の庇護も
あって、キリシタン信者は20万人に達したと言われている。
1582(天正10)年6月2日午前5時。信長が宿泊していた、
京都・四条西洞院の本能寺が、家臣・明智光秀軍に取り囲まれた。
信長は、反乱軍と戦闘の後、寺に火を放って自害。
「光秀謀反。信長死す。」
悲報に接した羽柴秀吉は、備中(岡山県)から軍勢を大反転。一日
80キロとも言われる行軍スピードで、光秀を討つべく引き返して
きた。いわゆる「中国大返し」である。
6月13日午後4時。秀吉軍は、京都南西の山崎で光秀軍と激突。
日没前に光秀が戦場を離脱して勝敗が決した。秀吉はこの後、信長
の後継者として天下統一を成し遂げてゆく。
1586(天正14)年、太政大臣・豊臣秀吉は、北陸・四国平定
に続いて、九州平定を準備していた。この年、薩摩の島津義久は
豊後国の大友領内に侵入。城下をことごとく焼き払った。30年
間続いたルイス・アルメイダの医療・福祉事業は、一瞬のうちに
灰となった。南蛮医王如来・アルメイダは、この年の3年前、
平戸の教会で58歳で没していた。自らの病院が、戦乱の狂気の
火で焼かれる場面にだけは、遭遇せずにすんだわけである。
また、天帝宗・キリシタン信仰は秀吉によって禁止され、徳川
幕府もその政策を引き継いだ。日本は幕末まで、外国との交渉を
経つ「鎖国」の時代を迎えるに至った。