「えー、人として、若い時分には一度や二度はしくじる事が
ありまして、男としては、大抵は御婦人のためだそうでして・・・」
落語に「とう唐なすや茄子屋」という話がある。大家(たいけ)の
若旦那が吉原遊郭に入り浸って遊んだあげく、親から勘当されて
一文無しになる。金の切れ目が縁の切れ目。吉原でちやほやされて
いたはずが、誰からも相手にされなくなる。川に身を投げて死のう
としたところを、縁者の八百屋に助けられ心を入れ換えて真面目に
働く事を約束。天秤棒を肩に、唐茄子(かぼちゃ)を売り歩く、
という粗筋である。
江戸が東京と改まり、日清戦争もおさまった1897(明治30)
年。大家の若旦那が一人、浅草の街を歩きながら途方に暮れていた。
この若旦那、岡山県倉敷町の有力企業・倉敷紡績の跡取り息子で、
姓は大原、名は孫三郎。この年の1月18日に単身上京し、6月に
東京専門学校(後の早稲田大学)に籍だけは置いていた。
孫三郎、学校は嫌いだった。要するに、親元を離れて東京に出て
来る為の口実に、学校を利用したわけである。だからもっぱら、
浅草の寄席と吉原遊郭に通い続けた。
寄席と遊郭は若いうちに通え、などとは学校では教えない
だろうが、人間の「情」を練るにはいい道場になるだろう。落語
には、奥の深い人情話が山ほどある。色と欲に絡む人間模様や、
微妙な心遣いを味わえる。また、吉原は社会の矛盾の吹き溜まり
のような場所だ。貧しい親を養い、兄弟姉妹の薬代を稼ぐ女たち
がざらにいた。わがままなお坊ちゃま・孫三郎が世間を知るには
いい機会だったのかもしれない。
とは言え、孫三郎の遊びは「ケタはずれ」だった。そのあげく
作った借金が、元金と利息合わせて1万5千円。当時の芸者の玉代
が、2時間の平座敷で45銭。吉原で1円もあれば、けっこうな
遊びが出来た。当時の超エリートだった大学卒業の銀行員の初任給
が35円だから、ざっとその28年分にあたる。250円で小型
漁船が一隻買えた。時に孫三郎17歳。秋風が身にしみた。
孫三郎は、自分が資産家の家に生まれた事を嫌い、貧富の差の
激しい社会に怒りを抱いていた。おまけに任侠精神の厚い、親分肌
の性格ときている。吉原女郎衆の身の上話を聞き、身請けか、それに
相当する援助をしていたのかもしれない。ともあれ孫三郎は、倉敷に
連れ戻されて謹慎。借金は父・孝四郎がケリをつけた。この時孫三郎
は、自分が何を成すべきなのか、わからずにいた。
ここで少し、大原家の事に触れておこう。倉敷に隣接する岡山市
は、江戸時代、備前・池田藩31万5千石の城下町として栄えたが、
倉敷は徳川幕府の天領、すなわち直轄地として代官所が置かれていた。
備前・備中(岡山県)・讃岐(香川県)などの天領から、倉敷に米や綿
が集められ、大阪や江戸に運ばれた。蔵の町は、こうして出来
上がった。
江戸時代の大原家も、農家から綿などを買い集める綿問屋として
財を成していった。やがて明治政府の「富国強兵・殖産興業」の
号令のもと、紡績業は国の基幹産業となる。倉敷紡績は、1888
(明治21)年3月4日に設立され、大原孝四郎が社長に就任。
この年、孫三郎は2歳だった。3年後には倉敷銀行が設立し、
孝四郎が頭取を兼務した。
孫三郎は謹慎中、たまたま友人から贈られた冨田高慶著作の
「報徳記」を熱心に読んでいた。江戸時代後期、農村を主体と
する社会改革事業を成した二宮(金次郎)尊徳の一代記である。
彼は「唯心所現」を思想の中核にして、それを実践した。つまり
自己の意識変革を第一に置き、その現れとして外側の社会変革
が実現するという思想である。
「俺の天職とは何か?」
孫三郎は、焼けた砂の上でのたうちまわるような、迷いの中に
あった。
孫三郎19歳の1899(明治32)年7月。一人の男との出会いが、
孫三郎の迷いの霧を晴らす事になった。石井十次(じゅうじ)32歳。
この時石井は岡山孤児院院長の職にあった。
石井は幕末の1866(慶応2)年に、宮崎県で生まれた。石井は
明治維新の余熱がおさまらない環境に生まれ育って、少年の頃から
政治に熱中。「岩倉具視を暗殺すべし」と放言して、50日の牢獄
生活を体験している。獄中、西郷隆盛から教えをうけた人と同室に
なり、「敬天人愛」に深く共鳴。生涯の座右の銘となった。17歳
の時、岡山医学校に入学。キリスト教を知って洗礼を受けた。
血の気の多い青春時代を過ごした石井の話に、孫三郎はすっかり
魅了された。石井が21歳の時、四国遍路へ向かう途中の女巡礼に
出会った。病気の夫と末の子供を小豆島で失い、上の二人の子供を
連れて途方に暮れている状況だった。16歳で結婚していた石井
だったが、女巡礼の様子を見るに見かねて、何のあてもないまま、
上の子を引き取って養育する事を決めてしまう。
これがきっかけとなり、石井は医学の道から孤児救済の道へと
方向を変えてゆく。救済というよりは、むしろ教育への情熱が
優先していたのかもしれない。岡山孤児院はこのようにして
生まれた。
孫三郎はスポンジが水を吸い取るように、石井の思想を吸収して
いった。聖書を何度も読み、石井と聖書について語り合った。また
孤児を生み出す背景にある社会について、深く洞察していった。
一人の人間が「善」に目覚めると、他の多くの者の光明になると
言ったのは誰だっただろうか。ともかく孫三郎は、石井によって
開眼した。
「1902(明治35)年1月1日
この5年間の事を顧みれば、実に恥ずかしく感ぜざるをえない。
しかるに昨年は20世紀の第1年において、余の心霊上におおい
なる改良を加えさせ賜うた。この20世紀は、余にとって改革の
世紀であると思う。つつしんで神の御心にそって、余の一心を
改革に捧げんと思う。この5年間、父母が毎年の元旦を迎え
られる所感は如何であったであろうか。余の乱行時代と、妻を与えられ
てから迎ふる今日の元旦とは如何。」
結婚して、心身ともに生まれ変わった、孫三郎22歳の時の日記
である。そしてさらに続く。
「3月15日。余がこの資産を与えられたのは、余の為にあらず。
世界の為である。余はその世界に、与えられた金を以って、神の
御心により働く者である。」
石井から「教育」の重要性を説かれた孫三郎は、最初の事業と
して「日曜講演」を企画した。当時の各界著名人を倉敷に呼んで
講演を依頼し、その速記録を印刷・配布したのである。この「倉敷
日曜講演」には、新渡戸稲造・大隈重信など、政界・財界・学界・
ジャーナリスト・文化人多数が招かれ、大正14年まで24年間
続く事になる。聴衆の中には、当時岡山一中に在学していた岸信介
の姿もあった。
1906(明治39)年、26歳の孫三郎は、父・孝四郎の引退
にともなって、倉敷紡績の社長および倉敷銀行の頭取に就任した。
孫三郎は社内人事を刷新して、若手・中堅社員を登用。工員の
福利施設の大改革に着手した。
当時の紡績工場は24時間のフル操業で、「女工哀史」と呼ば
れた労働環境にあった。倉敷紡績の千人をこえる女子工員は、
寄宿生活で十二時間交代制だった。寄宿舎の内部は万年床の大部屋
で、衛生状態の悪さが腸チフスや結核などの伝染病を発生させる
原因ともなっていた。
孫三郎は疾病災害保険制度を導入し、工場内に保育所を建てた。
さらに8年がかりで、広大な敷地に寄宿舎と診療所を新設した。
孫三郎は寄宿舎新設にあたり、次のように述べている。
「この寄宿舎を建てるのに、最初は衛生を主にしていたのですが、
さらに考えを進めて計画を改めました。それは、今までのように
多人数が一つの部屋におっては、何事も自分の家におった時と
様子がちがって、居心地も悪く種々様々な苦情も自然に起こり
やすい。したがって早く家へ帰りたいと思うようでは、会社の
利益はともかく、皆さんの不利益だと思いまして、一つの部屋に
多くの人を居れぬう、なるべく自分の家と変わらぬよう設備して、
少人数の者が居心地よく、むつまじく、家族的に寝起きすること
のできるようにしたいという考えを持って、この寄宿舎を建てた
のでございます。
新寄宿舎には、裁縫室も建ててあります。学校もこの中に
建てるつもりであります。また、各部屋の間の庭には花壇を設け、
四季の花を植え、いつでも花を見て楽しむことが出来るようにし、
食堂も立派なものに建て替え、お休みなどには皆集まって楽しく
芝居やお話をして遊べるように、舞台も備え付ける計画であります。
要するに会社は、皆さんの居心地をよくし、病人もなくし、無駄
な金は使わせないで、皆さんの父兄に送金も多くでき、貯金も
できるだけ沢山できるようにしたいと思っていますから、皆さん
は仕事や勉強に精を出して、幸福な寄宿生活を過ごしていただき
たいと思います。」
この頃孫三郎は側近に、「社会の為に大原家の財産を潰そうと
いうのが、私の理想なのだ」と語っていたという。
この当時、大原家に限らず資産のある商家はみな田畑を持ち、
多くの小作人をかかえていた。孫三郎は「報徳記」で読んだ二宮
尊徳の農村復興事業に、自らの天職を重ねていった。
1906(明治39)年、大原家小作米品評会という形でスタート
した、孫三郎の農業問題に対する取り組みは、やがて大原農業研究所
に発展してゆく。ここで成された研究成果は、現在でも脈々と流れて
いる。たとえば園芸部では、マスカットやコールマンなどの温室栽培
を研究し、「温室ブドウ岡山」の基礎をつくってゆく。大久保重五郎
は水蜜桃の新種・いわゆる「大久保水蜜」をつくり、岡山の特産品
となる。
病理部では、シイタケ・ヒラタケの人工栽培の基礎を確立し、
昆虫部では、果樹や稲などの害虫駆除に対し、数多い研究成果を
残した。戦後、大原農業研究所は岡山大学の付属研究所として生まれ
変わり、現在に至っている。
一方、石井十次の岡山孤児院は、1200人を収容する世界有数
の大孤児院になっていた。1905(明治38)年秋、関東・東北地方
は大凶作となった。農村では夜逃げ、行き倒れ、親子心中、娘の
身売りが続発。何とか切り抜けている人々も、木の芽や松の皮で
飢えを凌ぐような惨状となった。石井は、こうした状況が改善
されるまで、子供たちを無制限で一時収容するという声明を発表
した。孫三郎はもちろんの事、皇室や日米キリスト教団体がこれを
支援した。
その後石井は、故郷・宮崎の地に、土地を開墾しながら「自然
教育」を行う分院を開設。後半生はこの地にあって、理想の教育を
目指した。1914(大正3)年1月30日、石井十次は48歳の
若さで急死した。死の前日、石井は機嫌良くお気に入りの
「都々逸(どどいつ)」の文句を口ずさんでいたという。
「鮎は瀬にすむ 鳥ゃ木にとまる 人はなさけの下にすむ」
孫三郎は、石井の精神と事業を継承した。石井は大阪市浪速区
日本橋日東町に、孤児たちの保育所と夜間学校を開いていた。
ここは当時、大阪の有名な貧民街だった所である。孫三郎はこれを、
財団法人・石井記念愛染園として、孤児救済と教育事業の拠点と
した。
さらに孫三郎は、孤児を生み出す社会問題に目を向け、大原
社会問題研究所を、大阪市天王寺区伶人町に設立した。この
土地はかつて、聖徳太子が「施薬院」を設けて、難民の医療救済
にあたった場所の跡地であった。孫三郎はこの場所がいかなる
土地かを知っていて、意図的に求めたのだった。
また、孤児たちの親の多くが梅毒で死亡している事実に注目。
この点から、公衆衛生教育と予防の研究がなされ、医学・農学・
労働学・科学などの専門書約5万冊の収集が行われた。研究所の
総工費が15万円であるのに対して、ヨ―ロッパで買い求めた
書籍代は4万円である。
孫三郎は、基礎的な研究を充実させる事と、具代的な実践を車の
両輪のように考えていた。医療・公衆衛生・予防の研究はやがて、
病院の建設という形に発展してゆく事になった。
孫三郎が工場内の診療所を、一般市民に開放する総合病院に
することを決めたのは、1918(大正7)年11月の事だった。
病院の設計と、1万2千坪の用地買収には3年をかけた。孫三郎は
荒木寅三京都帝国大学総長らに相談して、東洋一の病院にする事を
決めて、自ら設計の総指揮にあたった。
このような経緯を経て出来上がった倉敷中央病院は、滋賀県
近江八幡の結核診療所、アメリカのロックフェラー病院、ドイツ
のハンブルグ熱帯病院など、当時のすぐれた病院の長所をすべて
取り入れた設計になった。
ブーゲンビリアやフェニックス、バナナなどを植えた熱帯植物園
を2ケ所につくった。トイレは水洗。スチームの暖房。二階建ての
場所にはエレベーター。窓枠・天井・壁などは、すべて丸みを
持たせて直角がなく、冷たい感じをなくした。壁などの色彩にも
万全の配慮が成された。病気で不安と心細さをかかえている患者の、
心の癒しにまで気を配った設計であった。
1923(大正12)年6月2日、内科・外科・産婦人科・眼科・
耳鼻咽喉科・放射線科から成る総合病院として、倉敷中央病院は
スタートした。同時に、看護婦養成所が開設された。現在の倉敷
中央看護専門学校である。設立に際し来賓の後藤新平は、「天地皆春」
と大書して病院に贈った。
「本院は平等主義にて治療本位とす。すなわち、完全なる診療と
懇切なる看護とにより、進歩せる医術に浴せしむることを院是とす。
ゆえに営利を目的とせず、研究に主眼を置かず、また慈善救済に
偏せず、これがため入院料に等級を付せず、看護設備を充実し、
弊害多き職人的付き添い人を置かざることを原則とし、従業員に
対する心付贈物などの厳禁を励行せり。」
現在この倉敷中央病院の廊下には、大原美術館所有の作品の複製
が多数展示されている。患者と家族たちは、熱帯植物園と共にこれら
の作品を楽しむ事が出来る。むろん散歩の出来る体力さえあれば、
近くに本物を見に行ける。
孫三郎は石井十次の女婿で画家の児島虎次郎に、美術品の購入を
依頼した。児島は、孫三郎が最も信頼していた友人の一人だった。
彼はヨーロッパを巡り、モネ、マチス、エル・グレコ、ゴーギャン、
ロートレック、ルノアール、モジリアニ、ピサロ、ロダンなどの
作品を精力的に買い求めた。これらの作品は、1930(昭和5)年
に設立された「大原美術館」で公開された。
孫三郎は社会福祉の事業家として、企業の経営者として、あるいは
文化人として、多角的に考え、かつ実行した。彼は柳宗悦(むねよし)
が提唱した民芸運動にも深い理解を示し、河井寛次郎、浜田庄司、
バーナード・リーチらとの交友を深めた。それはやがて、東京都
目黒区駒場に、「日本民藝館」設立という形で実を結んでゆく。
1936(昭和11)年の事である。
孫三郎は、太平洋戦争が激しさを増した1943(昭和18)年
1月18日、狭心症の発作に倒れ、息を引きとった。この日は
奇しくも、46年前に単身東京に旅立ち、吉原御乱行に至る記念日に
あたっていた。孫三郎62年の生涯だった。
彼は生前、長男の総一郎に対し、手紙の中でさまざまな教訓を
語っている。
「人間そのものが、その人すべての財産である。その他のものは、
幸いするものではなくて、かえって禍するものである。いわゆる修養
すること、生きる意義があるよう、各自の自覚を要することである。」
「万物皆師の心得が必要である。自己を信ずる個性の拡張や訂正も
大切であるが、積極的にぶつかってこそ発見・発明があるので、苦難・
苦労の内より幸福が生まれ、光明が与えられるものである。いわゆる
安全の道は、進歩も工夫もないのである。」