八甲田山 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

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冬は寒い。北国は雪に埋まり、息をひそめる。今から約100年前の1902(明治35)年1月25日、青森歩兵第五連隊210名中199名が、青森県八甲田山中で凍死するという事件が起こった。新田次郎の小説「八甲田山」で有名になった、「死の雪中行軍」である。ロシアとの戦争を想定した、耐寒演習だった。 1月20日、福島大尉率いる弘前連隊第一大隊第二中隊の38名が、雪の降る弘前を出発。3日後、山口少佐率いる青森連隊第二大隊210名が、雪の青森を出発した。 弘前連隊の福島大尉は、大吹雪に迷い込んだならば凍死か窒息死が当然とされる白魔の八甲田山を行軍するにあたり、微に入り細にわたり、徹底した用意周到さで事にのぞんでいる。 一・軍靴は堅牢にして寛裕なるを用うべし。決して水の 漏入する物を用う べからず。(3日目からわら靴・かんじきを使用) 二・足はよく洗い、爪を切り、清潔にし、油脂を塗るを 可とす。かねて 凍傷の恐れある者は、凍傷膏を医官に請求してこれを 塗るべし。三・靴下はなるべく新品を用い、常に乾燥させるを可とす。 毛製の靴下なれ ばなおよろしい。(実際には靴下を重ねてはき、唐辛子をまぶし、油紙で 足もとを包んだ) 四・手足が冷えて知覚を失ったときは、布でよく摩擦した  のち、徐々に暖めること。決して急速に暖めては ならない。五・河川を渡るときは裸足で渡り、渡り終えてから水分を よく拭き取り、靴下をはくこと。濡れた足のまま靴を はいてはならない。小便は風に向かってする事はさけ、 最後の一滴まで十分しぼる事として、「股こすり」 「チン振り」と名づけた。六・シャツが濡れたときは、予備のものに着替えること。 腹巻は必ず着用すべし。七・水筒には一度沸騰させ温湯を容れるように心掛ける こと。汗をかいて喉がかわいた時でも、急に多量の 水を飲んではいけない。 (水筒の水を七分目にして、少量のブランデーを加えて 凍るのを防いだ) 八・空腹のため疲労したときは、小隊長の許可を受けた うえで、予備の餅を食べること。行軍中は飲酒を 厳禁する。凍って寒さの厳しいおり、雪中で 睡眠すると凍死のおそれがある。それで小休止のおりの 睡眠を禁止する。 (握り飯や餅は油紙にくるみ、腹巻に巻きつけて凍るの を防いだ) 九・日光が雪に反射するとき、眼病にかかることがある。 予防のため眼簾、 または有色眼鏡を使用すること。十・多量の雪を食べたり、氷を噛んで胃を冷やしては ならない。十一・危険や困難に直面したおりは、沈着のうえにも 沈着に行動すること。 行軍中に疲労した者あるときは、互いに助け合うこと。  一方、青森連隊の山口隊は、薪60貫(220㎏)・木炭15貫(54kg)・缶詰肉35貫(130㎏)・精米13斗・漬物6貫(22㎏)・釜・炊事用具・スコップなどを積んだ15台のそりを、60名の兵卒が曳いての行軍だった。だが、上り坂や吹雪の為、前進が困難になってそりを放棄。荷は兵卒が背負った。そりを曳いてふんばった時、わら靴や手袋がびしょ濡れとなり、手足の凍傷者が続出した。 この時日本列島を包んでいた強烈な寒気団は、北海道上川で零下41度を記録するほどの強力なもので、青森は大雪。八甲田山中は青森湾からの海風と、竜飛岬を通過する北西風が山腹で互いに衝突して、猛吹雪になっていた。気温は風速1メートルにつき1度下がると言われているので、少なくとも零下20度が現地の気温だっただろう。 かくして山口隊は、ホワイトアウトの状態に陥り、力尽きて凍死者続出となったのである。6月になって発見された死体の大半は、つまご(わら靴)や手袋をつけておらず、無帽だった。手足から凍傷にかかった為、ズボンのボタンをはずせず、ズボンの中に放尿したため、凍傷が激化したのだった。 山口隊の生存救出者は17名。山口少佐ら5名は青森の病院で凍傷の為死亡。神田大尉は責任をとり。現地の雪中で拳銃自殺。五体満足なのは、伊藤中尉・倉石大尉・長谷川特務曹長の3名だけであった。 だが彼ら3名も、1905(明治38)年3月4日、日露戦争の乃木第三攻撃隊として出陣し、二零山の夜戦において全員戦死した。また、38名無事生還を果たした弘前連隊の福島中尉も、黒溝台の会戦において戦死した。命の重さ・尊さを誰よりもよく知っているはずの彼らも、戦場では二束三文のその他大勢にすぎなかった。