桜 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

 毎年の事ながら、桜前線北上のニュースが流れる今頃
になると、妙に心がざわめく。これが、古代より連綿と
して桜を愛でてきた、日本人の民族魂というものだろう
かと、誇大に思う事もある。
 桜の名所は全国に数々ある。私が見た中で圧巻だった
のは、やはり皇居千鳥が淵あたりの夜景だろうか。
視界一面、染井吉野の桜・桜・桜・・・
現実とも夢幻ともつかぬ、淡桃色の眩暈の中に身を置いた
感覚だけになれる場所の一つだと思う。
 現在目にする桜の多くは、染井吉野という品種で
ある。パッと咲いてハラハラと散る姿が、はかなくも
美しい。だがこの品種の背景に、政治と洗脳の悪臭を
感じると、単に美しいとばかりは言っていられなくなる。
 染井吉野は、明治政府が国策として全国の城跡などに
植林したもので、遠く平安から江戸期にかけて歌に
詠まれた桜は「山桜」だった。歌人たちは、咲き匂う
生命の輝きを詠んだのである。「散る桜」の美学の
背景には、日本国民を戦争に駆り立てた政治家や軍人
たちの思惑が反映されているのである。

 山桜の名所といえば、奈良県吉野熊野国立公園の
一部である「吉野山」だった。修験道の開祖とされる
役小角(えんのおずぬ・637~701)が、桜の木に
蔵王権現の像を彫り、大峰山を開いた事から、桜の
木を御神木として愛護したのがそもそもの始まりだと
言われている。全山の桜は10万本とも言われている。
「吉野山 花の盛りは限りなく 青葉の奥も 
なおさかりにて」と、平安末の歌人・西行は、
吉野の桜の輝きに圧倒されている。その様子
が今に伝わってくる。

 西行は生涯に2度、奥州・平泉(岩手県平泉町)の
藤原秀衡のもとに旅をしている。当時の平泉は、
人口約15万人。京・鎌倉と並ぶ北の都だった。
中尊寺の金色堂に象徴される黄金文化が、満開の桜の
ように咲き誇っていた。
 平泉から北上川を渡った所に、牛の背にも似た標高
596メートルの、束稲山(たばしねやま)という山が
ある。全山に1万本以上の山桜が植林されていた。
「ききもせず 束稲山のさくら花 吉野の外に 
かかるべしとは」
西行は、吉野山以外にもこのような桜の名所があった
事に、感嘆した歌を残している。
 西行はもともと、佐藤義清という名の武士だった。
平清盛とほぼ同期である。清盛は保元の乱・平治の乱を
勝ち抜いて頭角を現し、自らは太政大臣に昇りつめ、
平家一門も隆盛を極める。だが、風前のともし火だった
源氏が次々に挙兵し、清盛死して4年後、平家一門は
壇ノ浦の海中へ没したのである。
 さらに源頼朝は、奥州へ出兵して平泉の藤原王国を
滅ぼし、鎌倉幕府を成立させる。西行はその全てを
見届けた。まさに諸行無常・諸業流転の、変転に次ぐ
変転の時代だった。

「願はくは 花のしたにて春死なん そのきさらぎの
望月の頃」
西行はその歌の通り、満月の夜、満開の桜のもとで
73歳の生涯を閉じたと伝えられている。
 
 明治政府は、西行が愛した吉野の桜3万本の伐採を
命じた。吉野桜は封建制度の象徴であり、仏教的御神木
などとはけしからんというのが理由だったらしい。
むろん、平泉・束稲山の山桜も伐採された。
 桜を愛でる心無き「薩長の馬鹿ども」は、軍備を
増強し、朝鮮半島や台湾への侵略やら、日清戦争に
血まなこになる。日本美術院を創設した岡倉天心は、
著書「茶の本」の中で、昔文芸を楽しんでいた時の
日本は野蛮な国と呼ばれ、侵略戦争を始めてからは
近代国家と呼ばれていると、皮肉を込めて語っている。
その「近代国家」は、自己肥大したあげく、大東亜戦争
で自滅してゆくのである。

 いつまでも、桜花を愛で、風雅を味わう日本人であって
ほしいものだ。
それと、美酒を少々・・・西行に乾杯。
ペタしてね