北畠顕家 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

¥500
Amazon.co.jp

1333(元弘3)年5月22日午前3時。新田義貞軍が稲村ガ崎から鎌倉府内に突入し、諸方に火を放った。幕府執権・北条高時ら283人が、東勝寺において切腹。870余人が焼死して鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による親政が始まった。 10月、正四位参議右近衛中将北畠顕家は陸奥守に任じられ、6歳ののりよし義良親王を奉じて奥州に下向する事になった。時に顕家16歳。若いながら聡明な、弓の名手であった。 11月末、陸奥国府の多賀城(宮城県多賀城市)着。国政の中核である式評定衆は、親族の冷泉源少将家房、学者の藤原式部少輔英房、内蔵権頭入道元覚という、京から顕家に従ってきた者の他、奥州の豪族、結城上野入道宗広・親朝親子と、伊達左近蔵人行朝、旧鎌倉幕府で民政に通じた二階堂行朝などで固められた。 1335(建武2)年7月、北条高時の遺児・時行が、信州の諏訪頼重の助力を得て鎌倉に侵攻。時行軍は小笠原貞宗を破り、足利直義を追放して鎌倉を奪還したが、尊氏軍の反撃により20日あまりで逃走する事となった。反乱の余波は奥州・津軽や白河方面の北条勢力へも波及。顕家は南部師行や伊達行朝の軍を派遣して、乱の鎮圧にあたらせた。 乱後足利尊氏は、斯波郡(岩手県)を本貫とする斯波家長と石搭義房を奥州管領に任じて、顕家と対峙させた。尊氏自身は征夷大将軍を自称し、後醍醐親政との対決姿勢を鮮明にしていった。11月、帝は新田義貞に尊氏追討を命令。勅命の綸旨(りんじ)は顕家にも下された。 12月22日、北畠顕家は義良親王を奉じ、伊達行朝、結城宗広・親朝、南部師行、相馬胤平、葛西宗清・清貞ら奥州の猛兵を率いて多賀城より出陣した。しかし亘理郡の武石胤顕、信夫郡の佐藤一族、岩城郡の伊賀光貞らが足利方の斯波家長軍へ参加。相馬氏は一族内で分裂し、追討軍は朝廷方と足利方の2つに割れた。要は鎌倉幕府無き今、自らの所領を安堵してくれるのは朝廷なのか、源氏の頭領たる足利尊氏なのかという点にあった。 新田義貞軍は尊良親王を奉じて、足利直義軍を三河国矢作(やはぎ・愛知県岡崎市)の戦いで撃破。箱根竹下 (静岡県駿東郡小山町)で尊氏軍と対峙した。12月11~12日の戦いで、大友左近将監ただとし貞戴や佐々木塩治判官高貞らが尊氏方に寝返り、新田軍は敗走に転じた。しかしその尊氏軍も、顕家率いる奥州軍に押されて京都方面に敗走。1336(延元元)年正月13日、顕家軍は近江(滋賀県)園城寺で新田軍と合流。尊氏は播磨(兵庫県)から船で九州まで逃走するに至る。 顕家は戦功により従二位鎮守府大将軍に、義良親王は陸奥太守に任じられ、3月末に多賀城へ帰任した。この間にも奥州では、相馬光胤対朝廷方の中村広重・広橋経泰・しねは標葉一族との合戦が続けられていた。 そして戦局は再び大反転する。九州の足利方が軍勢を立て直し、大挙して攻め上って来たのである。5月25日には楠木正成軍を摂津湊川(神戸市)で撃ち破り入京。光厳天皇の弟・光明天皇をせんそ践祚して北朝を成立させた。後醍醐天皇は足利方に幽閉されたような形で、一旦は和睦に応ずるが、12月に吉野へ脱出。南朝が成立して、世に言う南北朝時代へ突入するのである。 顕家軍の動きも活発だった。4月に斯波家長軍を相模国(神奈川県)片瀬川で破り、鎌倉を制圧。5月24日には相馬郡で、相馬氏の本拠・小高城を陥落させた。しかしもう一方の奥州管領・石搭義房軍に多賀城を占拠され、顕家は伊達行宗領である霊山城 (福島県伊達郡霊山町)に移って、ここを新国府とした。 1336(延元元)年12月、吉野の後醍醐天皇は江戸重忠を勅使として霊山の顕家のもとへ下向させ、北朝追討の綸旨を下した。時に顕家20歳、義良親王は11歳だった。 翌年の8月11日、伊達行朝、結城宗広、懸田定隆、葛西清貞、南部師行、武石高広、津軽の工藤一族、岩手の下山一族などの精兵3万は霊山を発した。白河の関を越す頃には、その数は10万に達していた。 顕家軍は宇都宮の結城宗広領で装備を整え、小山の桃井貞直軍と13昼夜にわたって激闘を繰り広げ、城将・小山朝郷を捕縛。しかしその後の進撃は利根川に阻まれた。顕家に鎌倉を追われた守将の斯波家長軍が鉄壁の布陣を敷き、渡河する奥州兵に向けて雨あられと矢を浴びせかけた。 対陣ひと月半の後、ようやく堅陣を突破した顕家軍は、鎌倉街道を一気に南下して鎌倉府内に突入。斯波家長は杉本城で切腹。足利よしあきら義詮と上杉憲顕・高重茂(こうのしげもち)・細川和氏らは三浦半島方面に敗走した。 1338(延元3)年正月3日鎌倉を発した顕家軍は、28日青野原(岐阜県垂井町・関が原)で、高師冬・吉川常久、佐々木道誉・秀綱、土岐頼遠、細川頼春らの北朝軍と対峙した。この時顕家軍の背後には、上杉憲顕率いる関東軍が迫っていた。 顕家軍は前面の土岐頼遠、桃井直常勢をさんざんに打ち負かした後、兵を南下させて挟撃を交わし、伊勢から伊賀山中に入り、奈良を目指した。途上には、後醍醐天皇が反北条の火蓋を切った笠置山もあった。 2月28日からは奈良市中の東大寺付近、法華寺付近、般若坂などで、高師直軍と市街戦を展開。3月8日には細川顕氏軍を天王寺付近で撃破し、顕家の弟・顕信は男山八幡宮まで進出した。 高師直(こうのもろなお)・師冬軍は、武田・島津・吉川・田口・岡本諸隊を率いて天王寺口へ集結。顕家軍と一進一退の激烈な戦闘を続ける。顕家が戦死したのは、天王寺の南・阿倍野辺りと言われている。修羅の中を駆け抜けた21年の短い生涯だった。南部師行・武石高広ら奥州の将も個々討ち死にしていった。 吉野朝はこの後、顕家の弟・顕信を陸奥鎮守府将軍に補し、結城宗広を後見として奥州へ向かわせた。1339(延元4)年3月、義良親王は後村上天皇として13歳で即位。8月16日深夜、後醍醐天皇崩御。しかし南北朝の混沌とした戦乱は、この後も止む事なく続くのである。

ペタしてね