北畠顕信 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

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1338(暦応3)年7月。5年前に鎌倉幕府を倒した
南朝方の主将・新田義貞が、越前国藤島の灯明寺畷
(福井市)という泥田の中で、流れ矢に射抜かれて
戦死した。同じ頃、男山八幡(京都市八幡市・岩清水
八幡)の山岳要塞に立て篭もり、戦上手と言われた北朝方
の高師直軍と対峙する事数ヶ月。ついに食料尽きて
河内に撤退したのは、2ヶ月前に戦死した北畠顕家の
弟・顕信だった。
 吉野の後醍醐天皇は、京都奪還の策を捨て、東国を
固めて再起をはかる事にした。北畠顕信は兄の後任と
して、従三位近衛中将陸奥介鎮守府将軍に任ぜられ、
老臣・結城宗広が脇を固めた。この時顕信は、20歳
前後だった。
 吉野朝の主力は、北畠氏の本拠地・伊勢国田丸城
(三重県玉城町)を経て、伊勢大湊から船団を組み、
9月に東国を目指して出航した。だが遠州灘で暴風雨に
遭い、船団は散りじりになった。
 顕家・顕信兄弟の父にして吉野朝の重臣・北畠親房と
伊達行朝船は、無事常陸国(茨城県)Iたどり着き、
霞ヶ浦南岸にある小田治久の神宮寺城に入った。
宗良親王の船は駿河湾に漂着し、遠州の井伊城に入った。
 義良親王と顕信・結城宗広の船は、知多半島沖の篠島
に押し戻された。いったん引き返した伊勢の田丸城で、
義良親王から「結城のじい」と慕われていた70歳の
老臣・結城宗広が病没した。翌年3月吉野に戻った
義良親王は、後村上天皇として13歳で即位した。
それを見届けた後醍醐天皇は、8月16日深夜に崩御。
「魂魄は常にほっけつ北闕の天を望まん」と、死して
後も北朝と戦い続けるとの綸旨を残し、波乱に満ちた
52年の生涯を終えたのである。
 この頃関東では、北畠親房を迎え入れた常陸の小田・
関氏が、北朝方の佐竹氏や下総の結城・上総(千葉県)
の千葉氏と。下野(栃木県)の小山・上野(群馬県)の
新田氏は、北朝方の宇都宮氏と戦い続けていた。
親房の神宮寺城は、佐竹に攻められて落城。
阿波崎城(東村)から小田城(つくば市)へと居場所を
変えていた。
 福島方面の南朝方、伊達・田村・石川氏は、相馬・
伊賀(いわき市)・葦名氏(会津)と。山形方面は村上郡
の大江・田川郡の武藤・最上郡のやんべ山家・鶴岡の
葉室(はむろ)氏が、置賜郡(米沢)の長井・村上郡の
中条氏と。青森・岩手方面は、南部・葛西氏が津軽の
曾我・安東・浅利氏や岩手の和賀氏と戦い、一族内で
南朝方と北朝方に分裂して戦う事も珍しくはなかった。
 こうした蜂の巣を突付いたような混乱の中、北畠顕信
は側近の五辻清顕らと共に1340(興国元)年夏、
再度東国へ下向した。この時親房は小田城に在って、
高師冬軍に囲まれ苦戦していた。顕信は「奥州を平定
して関東を攻めるべし」という葛西清貞の策を入れ、
海路牡鹿郡の葛西城(宮城県石巻市日和山)に入った。
 顕信の意を受けた南部政長は、興国2年3月、
稗貫郡と和賀郡(岩手県)の北朝方を討ちつつ南下。
葛西軍と合流して、9月に奥州管領・石塔義房軍と
栗原郡三迫(宮城県栗原市)との戦闘が開始された。
 栗原の戦線は南朝方有利の情勢だったが、関東では
小田治久が北朝に寝返り、親房は関宗祐の関城
(茨城県筑西市)に逃走。結城宗広の子・親朝は出兵に
消極的で、南朝にとってかなり不利な状況となっていた。
 1342(興国3)年9月、顕信は再度栗原三迫に
出兵し、石塔軍と対した。激闘7日を経て石塔義房は
栗駒鳥矢崎の里屋城を陥落させた。さらに激闘9日後、
八幡城を落して南朝方最後の拠点・津久毛橋城
(つくもばし)(栗原市)へと迫った。10月28日、
北朝の和賀軍が顕信軍の背後を衝き、2ヶ月余の
激闘の末、南朝敗北で決着がついた。顕信は河村六郎の
居城・岩手郡の滴石城で再起の時を待った。
 だが翌年6月、結城親朝が北朝へ降り、葛西清貞が
死ぬと一族は北朝に降った。11月には関城が陥落
して関宗祐が戦死。親房は下妻氏の大宝城(茨城県筑西市)
を頼るが、ここも落城。親房は5年に及ぶ関東転戦の
末、吉野に帰らざるをえなかったのである。
 1346(正平元・貞和2)年正月、足利尊氏は
奥州管領・石塔義房の後任として、吉良貞家と畠山高国
を任命した。両者は翌年7月、南朝最大の拠点である
伊達の霊山城(福島県伊達郡霊山町)と、田村の宇津峯城
(福島県須賀川市)に総攻撃をかけ、8月末に霊山城が
落城した。
 1348(正平3・貞和4)年5月9日、北畠顕家と
共に戦い続けた伊達宮内大輔行朝(行宗)が58歳で
死去。2年後には八戸城(青森県八戸市)で南部政長も
死去し、南朝方圧倒的不利の状況下で、顕信は出羽に
潜伏していた。
 南北朝動乱がややこしいのは、北朝と南朝の対立に、
室町幕府の足利尊氏派と、弟の直義(ただよし)派の
内部抗争が加わる事にある。吉良・畠山両奥州探題も
2派に割れた。尊氏派の畠山高国は、留守・余目・
宮城氏などの地元豪族を味方にして、留守氏の
本拠・岩切城(仙台市岩切)に立て篭もった。一方直義派
の吉良貞家は、宮城郡千代城の国分氏と共に岩切城に
迫った。
 1351(正平6・観応2)年2月12日、吉良軍は
対陣ひと月の後、和賀基義・白河顕朝らの参着を得て
総攻撃を開始した。難攻不落と言われた標高825mの
霊山城でさえ陥落させた吉良軍である。標高106m
程の山城では吉良軍の猛攻を防ぐ事は出来なかった。
畠山高国・国氏親子は切腹、一族郎党100余名はこと
ごとく討ち死にして戦いが終わった。
 尊氏と直義の内紛に乗じて息を吹き返した南朝方は
攻勢に転じた。1352(正平7・観応3)年10月、
伊達行朝の子・飛騨前司宗遠は、後醍醐天皇の孫・
守永王(宇津峯宮)を奉じて、多賀城奪還を目指して
進軍を開始。吉良貞家は相馬親胤・岡田胤家らを先陣
として出兵させた。両軍は10月22日に刈田郡
倉本川(宮城県・白石川)において激突した。吉良軍は
大敗し、本営を多賀城から名取郡高舘(宮城県名取市)
に移した。
 11月22日、両軍は再度広瀬川(仙台市)で激突。
宮城郡山村(泉区根白石)の大河戸一族が吉良軍の
背後を衝き、南朝方が大勝。吉良貞家は菊田庄
(福島県いわき市)まで逃れた。15年ぶりに多賀城の
国府を奪還して、出羽から顕信を迎えるに至るので
ある。
 翌年閏2月、顕信は上野・越後・信州方面から鎌倉
奪還を目指した新田軍に呼応して多賀城を発した。
途中の白河で吉良貞家・白河顕朝軍に敗れ、宇津峯城
に退いた。吉良軍は3月に多賀城を奪還し、大河戸氏の
市名坂城(泉区市名坂)などを落して宮城郡を平定した。
 1353(正平8・文和2)年5月4日、吉良貞家は
顕信の立て篭もる宇津峯城(宇津峯山・676m)を
総攻撃し、激闘20日の後に陥落させた。顕信は再び
出羽へ逃れた。この後の顕信の動静はわからないが、
奥州南北朝はここに終結したのである。
 だが1人だけ例外がある。伊達宗遠である。彼は
1380(天授6・康暦2)年に出羽国置賜郡
(山形県米沢市)に侵入して、北朝方の長井道広を追い
この地を領有。翌年亘理郡(宮城県)の武石行胤や大崎氏
と戦い、亘理・刈田・柴田・伊具(宮城県)と
信夫郡(福島市)を領有するのである。中央で南北朝が
統一されるのは、さらにこの後11年後の1392
(元中9・明徳3)年の事である。