さて軍事産業の名門・ヴィッカース社がイギリスの技術力をふんだんに盛り込んで完成した次世代の軍艦である巡洋戦艦金剛が完成したわけですが…むろん、日本側としてはいくら当時は最強クラスの軍艦ではあっても一隻だけでは済ますわけもなく、そして契約により金剛建造の際にヴィッカース社から教えてもらった建造技術を生かするべく1911年一月に横須賀海軍工廠において金剛級巡洋戦艦の二番艦、先代の金剛の妹と同じ名前を比叡の建造が始まります。

ちなみにこの比叡という名前は(事前に決められたとはいえ)大正天皇より直接授かった初の軍艦という誉れ高き船でもあります。




……とはいえ、当時の日本の技術力では習っただけではまだまだ経験不足なのと国際情勢的にドイツの台頭とそれを支えていた鉄血宰相ビスマルク辞任後、ヴィルヘルム2世の「日の当る所へ」という植民地主義への方針転換によりイギリスやフランスと対立が激化。これにより欧州情勢がきな臭くなってきたことにより最新鋭軍艦の建造が急務でした。



ちなみに日本は日英同盟で当然、イギリス側ですがフランスとは日清戦争の折り行われた三国干渉により不仲とはなりますが日露戦争終結時に負債の肩代わりなどしてもらった関係でフランスとの外交関係も改善したため(そもそも三国干渉にしてもロシアにドイツの背後を突いたいためロシア支持しただけでそもそも日本に含むところはない)いわゆる英仏露(ロシアとも日露戦争後は英仏の仲介もあり、革命が起こるまでは仲が良かった)の三国協商側であり、山東半島にはドイツ海軍の大規模な基地がありました。



ということで建造を急いだ日本軍は建造に必要な部品をヴィッカース社より購入し、それを交渉で組み立てる…というノックダウン(余所の会社や国からから部品をもってきて自分のところで組み立てる)方式に近い形式をとることとなります。


というわけで国産と言えば国産なのですが何か微妙に違う巡洋戦艦比叡は19148月に完成するわけですが…そういう微妙な経緯からか金剛四姉妹の中では微妙な立ち位置余生を送ることとなります。


というのも彼女ら四姉妹はのちに戦艦として改造されるわけですが…ロンドン軍縮条約のより戦艦の保有量制限がかかり、たまたま改装が遅れていた比叡はクビに。(もっともこの条約がなければ艦暦20年以上ということもあり姉の金剛もろとも廃艦の予定だったのだが)



ただし解体とか標的とかにされたわけではなく武装などの大幅な解除などにより練習艦となることになります。で、のちにロンドン軍宿条約が失効し、戦艦として復帰することになるのですが書類上はなぜかそのまま「練習艦」名義で結局彼女がソロモンで自沈するまで続きました…つまり、書類上は金剛四姉妹ならぬ三姉妹だったりします。



なお、この練習館に改装された比叡を見た関係者は「お年寄り」とか「生き残ろうために身をやつした状態」など散々な言われようでした。



ただし、練習艦となったことで一般の勤務寄りはスケージュル的には余裕ができた比叡は御召艦としての改装されその栄誉を賜ることになります。


ということで御召艦比叡は天皇陛下がかかわる観艦式や地方遊説、外国使節団の出迎えなど国内や外交の場で活躍することとなります。

そのため、御召艦比叡を目にした後の直木賞作家豊田穣氏曰く、「まるで生まれながらの貴婦人が舞踏会に招かれたようだった」とか「(何度も御召艦を経験しているので)艦隊一同の敬礼を受けるのが当然のような貴族的な雰囲気を身につけていたという」とのことです。


また日本屈指のクーデター事件である226事件の際には身内ごとであるため何かとグデグデやっている陸軍(の中枢のみ。地方軍は鎮圧のためか連絡を取り合っていた)とは違いはじめ方クーデターを潰す気満々で戦艦長門や陸戦隊まで動員していた海軍はいざという時には昭和天皇に比叡に避難してもらうという…という段取りまで行っていた…という「陛下に軍艦」的な立場にありました。


まぁ、御召艦ということで下手なことはできるわけもなくその任が下ると天皇陛下が来る前には2週間上陸なしで総出で掃除したりとか外国の要人が調子に乗って無礼を働いて頭を抱えたりとかしており、御召艦の任を外された際には乗組員一同安堵したとか。



貴婦人とはいえどもそれそれなりの苦労があるというお話で。


ちなみにこの比叡、戦艦に復帰…というか改造されたのが他の姉妹よりもしたのが一番遅かったということで、改装時の問題の洗い直しがされたことと大和型の技術的テストベッドになったこともあり、「改造の最後艦にして最も理想化された艦」として戦列に復帰し太平洋戦争を迎えることとなります。


それでは続きは次の席で。