久貝正典は生年がはっきりしないが、

巣鴨にある菩提寺白泉寺の過去帳に慶応乙丑元年6月11日、行年59歳、

とあり、文化4(1804)年であるという。

 

母親は、なんと堀田摂津守正敦の娘である。大身の旗本であれば、

大名家の姫との縁組もあり、正典自身の妻も

越前丸岡藩5万石の有馬家の娘だった。

母方の祖父の堀田摂津守正敦とは、以前書いた高橋由一の佐野藩のお殿様

の先代である!

松平定信の文化グループに居て、若年寄に在位43年、

寛政の改革を推進し、学究肌で博学の「鳥のお殿様」と異名をとったお方。

歌人として「水月詠藻」という歌集を残す。

元は仙台伊達家に生まれの正敦は佐野藩堀田家を継いだが

生家の伊達家を継いだ兄重村も

同母兄の土井利徳も皆歌に秀でていた。

正敦のDNAは娘、そして孫にあたる正典にも引き継がれたものらしい。

 

 

キャリアとしては、文政10年(1827)寄合から火事場見回りの

初役を皮切りに、小普請組支配、小姓組頭、書院番頭と進み、

ここで従五位下、因幡守に叙任。天保12年(1841)大番頭となった。

 

    ↑

『日本肖像大観』(明治41年刊)に肖像画が載っていた!

 

歌人小林歌城(おばやしうたぎ)に師事して

いつしか歌を詠むのが生活の一部となっていった。

残されている歌に、その人の心情が立ち上がってくるように

思われて興味深い。

 

天保14年(1843)、あの「怖い絵」完成の年は

正典は大御番組頭としての初の上洛、

二条城在番を果たした年に当たる。

4月出発したので例の絵の完成した秋は屋敷に不在のはず。

絵をオーダーして上洛したのであろう正典は翌年帰府後に

初めて目にしたのかもしれない。

 

ここまで書くと、いいとこの坊ちゃんで、順風満帆に出世し、

豪勢にあんなスゴイ絵を3つも発注して、

というところだが、じつは悲嘆に暮れる日々があった。

 

まだ手ならはぬ身ながらも ふでとりてかくすくなもじ

                  ゆがみもじにはあらなくに

 

とは長男忠三郎が天保3年(1832)5歳という年で亡くなって

その「三めぐりの忌」、3回忌の歌、である。

家を継ぐ大事な長男が5歳で亡くなってしまった。

 

天保11年(1840)には新たな子供の誕生を迎えたが、

その命は一夜にして奪われた。

 

  生まれたりける子の俄かにみまかりけるを歎きて

 

契りおきて又も親子となるべきを生まれこむよに面かはりすな

 

女の子であったらしい。

そしてその翌日、妻が死ぬ。お産が命取りになる時代よね えーん

 

      夏夜 

 

  苔ならぬ夏の衣もただひとへ

           こよひは涼し いざふたりねむ 

 

こんな歌を詠んでいた正典である。

仲の良い夫婦であったであろうに…

 

 

 

一度に妻子が失われる悲しみはいつの世にもあるが、傍でそれを見る

人の悼む思いもまた古今変わらない。

 

久貝因幡守正典主の北方のみまかりける時、として

歌の師匠小林歌城が詠む。

 

   寄夢無常といふことを人々とともに

 

たれもいう言いくさながら 此度ぞげに世は夢と思ひしりぬる

 

これも『日本肖像大観』

 

妻を失った翌年の秋は一層孤独が浮かぶ。

   

  庭のなしの実を枝ながら折り手むくとて

 

ひとり寝の閨のひさしの妻なしに

       のこるこのよいかになれとか

 

悲しみに暮れてばかりではいけない、それでは奥方も浮かばれまい、

ということだったのだろう、3回忌の終わったところで、新たに妻を迎えたが、

これは亡き妻の妹で、当時まだ15歳。

のち添えが妻の姉妹というのは

昔はままあることで、愛する人を失ったという悲しみを

共有しやすく支えあえるのかもしれない。

ようやく立ち直ろうとする翌年が天保14年である。

容斎の得意とする史画を描かせようということだが、

何でもよいから3点、といったのかドラマチックな情景をお題として出したのか。

いずれにせよ、見る者をオッと思わせる題材で、正典の気を取り直そうとする姿勢と見えなくもない。

初上洛の二条城在番中、八月朔日、正典は将軍家からの

太刀・馬献上の御使者として宮中参内を果たす。

緊張が見えるような歌がこれ。

 

  …御使いに参りて御車よせの渡りゆくあひだ 

       このさま見むとて殿上人の立つどひければ

 

かかるとき何かはづべきもののふのゐ中びたりとよしいはるとも

 

化粧に描眉、鉄漿をつけたお公家さんたちが

こそこそ笑い合い、扇子越しに様子を窺う。

その視線を背に受けて歩を進める正典の心のつぶやき、であろう。

 

大任を無事果たした初の京在勤を終え帰府は1年後の天保15年。

この歳は改元で弘化元年(1844)である。再婚して1年足らずで

家に残した初々しい15歳の妻との日々が再開した。

徐々に大人の美しさを増してゆく妻との日々に

先妻と子供を失った悲しみは癒えただろうか。

しかし、その幸せも長くは続かない。

弘化3年、19歳になった妻は死去するのだった。

 

大御番組は1年交代で京二条城、大阪城警護の勤番があり、

帰府後2年で、今度は大阪城警護の任が回って来る。

大阪城在番の為江戸を出立するのは涙も枯れぬ妻の死から僅か2カ月後である。

 

大阪で迎えた妻の一周忌に、詠んでいる。

 

忘れめやいまはになでし黒髪の長きわかれと言ひし一言

 

大阪城詰めの御勤めで患い病臥の時には一層身に応えたのだろう、

 

 梅の花かざしし人のかげもなしあはれ三年は春のよの夢、と詠んだ。

 

そう、指折り数えれば僅か3年の幸せだったのだ。

 

哀傷歌ばかりを挙げてしまったが無論、四季折々の景勝地や

心に浮かぶ雑感を数多く歌にした。

だがそこはあくまでお勤め第一である。

知行地が先祖代々河内の国にもあるから

京阪にいる時は現地に赴き査察し、

友好関係を保つために心砕き、大金の支出もすることになる。

単身赴任が2,3年おきにあって、

現地在留1年のローテーションを繰り返す生活はその後も続き

嘉永3年の在京番を終えて帰府する途中、岡崎の法蔵寺に立ち寄る。

おお、近藤サンの首塚の寺ね!

神君家康公幼少頃学問に通い、松平家廟のある寺で

幕臣にとっては神聖な場所である。

 

 

大前におろがむ我は遠つ祖つぎて七代の臣正典

君ましし世にし生まれば射る征矢の乱るる中にたたましものを

 

バリバリの幕臣としての矜持がそこに見える。

もとは今川義元に仕えていた初代久貝正勝が

今川没落後、徳川家康の将本多忠勝に仕えて三方ヶ原の戦いで首級2、

息子2代正俊は大阪の冬の陣で首級3を挙げたと伝わるご先祖である。

そんなご先祖様の血がザワザワとここで体中を駆け巡ったのかもしれない。

 

その駆け巡る血を繋げたのは、実に井伊大老の先祖、井伊直政だった。

 

  続きは次回 (江翠)

               

     転載 『日本肖像大観第1巻』

     引用・参考文献 

      『養翠歌集草稿第4部』簗瀬一雄翻刻・編著札埜耕三

      「久貝正典の歌と人 伊藤嘉男」『跡見学園国語科紀要』1957

                                 ほか