先回の記事を書いてから、「ぜひ書き続けてください」という

有難いコメントを頂戴しておりました。

高名な新選組研究家の方からで、

続けて、たぶん書いている私たちが誰それだと思う、というので

アルファベットを組み合わせたイニシャルで複数候補を挙げておられた。

昔々の忘れられた存在である私たちに興味を持っていただけて

有難いですが…今更でございます(笑)

分かる人には分かる、色々想像されるイニシャルが多数あるので、

コメント欄にはアップいたしませんでした。申し訳ありませんあせる

私?多分Sでしょう、性格的には。Mじゃないですね~。

サイズは…自粛致します(笑)

お気持ちはお受けいたしました。 有難うございます照れ

 

 

さて。先回アップした絵を再度掲載させて頂く。

 

 

これは静嘉堂文庫所蔵の『呂后斬戚夫人図』という。

中国の風景画か、女人が中央に立っていて、…とそのうち

恐ろしい光景であることに気が付く。

 

タイトルをもう一度。

呂后斬戚夫人図、である。

呂后、とは前漢を立てた劉邦・高祖の妻呂雉(りょち)で、

目の前で四肢を斬られているのが

夫の側室だった戚夫人である。

 

夫亡き後皇太后として実権を握った正妻呂雉は

夫の寵愛を奪い、わが子の皇太子の座を脅かした

戚夫人とその息子を許さず、息子を毒殺し、戚夫人を

なぶり殺しにする。

 

 

一枚の画面に時間経過が描かれるのは絵巻物と同様ね。

図録にある説明文をここで引用させて頂く。

 

『第一は画面左上の宮殿内で戚夫人が髪を切られる場面。

その左側、米をつく刑が科されるが第2の場面。

第3は画面中央で四肢を切り落とされる場面。

第4は画面下部で吊り下げられる場面。

余りの残虐さに政務を投げ出した孝敬帝が乗る輦(れん)

が画面下にある』

 

女の執念の深さ、残虐さは、コワいねえ。

清王朝末期を支えた西太后も、やっぱり憎らしい女を

四肢を切り落として、生きたまま甕に入れたとか便所に

放置したというのは、呂皇太后に倣ったのかしらん。

 

かの国ではおぞましく恐ろしい事が刑としておこなわれていた。

 

さて、この絵を描いたのは菊池溶斎である。

昨秋に開催された展覧会で実物を観たのだが、

デカい!縦215・9㎝×横166・5㎝という大きさなのだ。

こんな題材を大画面で見せるかあ、とそれも驚いた。

この絵と他合わせて3点、オーダーを受けての作画で、

発注したのは旗本久貝正典という。

ん、ん、ん~?

 

講武所開業時の総裁だった久貝因幡守正典ではないか。

それよりも世に言う安政の大獄(安政5~6)の時に、

大目付の地位にあり、国家の重大事件、高位の身分の人物を裁く

臨時の裁判部署としての「五手掛」となったお方。

実際に罪人と直に対面で裁きをするというよりは、下部から上がってくる

調書に目を通して量刑の軽重の妥当性を検討する、というお役目と思われる。

当初寺社奉行・板倉勝静、勘定奉行・佐々木顕発らは事件の事が事だけに、

「寛典」を訴えたけれども井伊大老は彼らを罷免し、首をすげかえて

意に沿うメンバーで五手掛にしたらしい。

正典はすげ替え組ではない。

安政6年の8月27日、10月の7日と27日と3回に分けて

刑宣告の申し渡しが行われる。

 

 

その久貝正典がこの「呂后斬戚夫人図」のオーダー主である、

と思うと、私はなんだか、この画面が安政の大獄の処刑のシーンが

ダブって見えてくるのだった…

 

呂后→井伊大老、後ろに侍る宮女たち→五手掛や幕閣メンバー、

戚婦人→処断される志士、輦中の孝敬帝→将軍家定、もしくは家茂サン?

 

呂后の立ち姿の背中には、

「私こそが、正統、法、正義」と書いてありそう。

国家を統べているのは私、という自信が伺える。

幕府こそが正義、反逆の徒は許さぬ、という姿勢がどこかオーバーラップ

してしまう。

 

久貝家はさすが5500石の旗本であるのでお屋敷も随分と広く大きい。

これだけの大きな絵を掛けて楽しめる部屋なぞいくつもあるであろう。

おや、お屋敷は天然理心流道場の近くじゃないか…

 

 

大目付として延べ100人と言われる人々の調書を読み込み、罪科に応じて

刑を確定するというストレスのかかる仕事を連日こなし帰宅後、

当時の薄暗い当明の下で

正典は時にこの大画面の絵を眺めていただろうか…?

 

1人酒飲んでこの絵を見ている久貝正典を想像すると、これもコワい。

その情景もまた絵になりそう。

 

ところで、この絵は

安政の大獄よりずっと前の天保14年の作なのだった。

 

 

菊池溶斎(天明8・1788~明治11・1877)は、

下谷の生まれで西丸御徒で18歳から狩野派の絵を学んだ。

上古から南北朝期の偉人500数十名の肖像画に略伝付きの『前賢故実』は

以後長く歴史画の手本とされる大著として有名である。

 

軽格の薄給の身で、画業を志し5年で師匠に死なれた後は独学であったので、

画風の研究のため画書収集の費用を惜しまず、生活は困窮を極めた。

17才で昌平黌の素読吟味で白銀2枚を賜った秀才であるので、

もう画業を諦め医術の道に転向すべきかと思い始めた。

彼の絵を評価していた久貝正典は自宅に呼び、そんな

容斎の「小ささ」を叱り、パトロンとなったという経緯がある。

 

ついでに言うとこの「容斎」という名は自ら名付けた号で、

真面目が過ぎて頑固で狭量、自分に厳しいが他人にも厳しい。

それを友から批判されて思い至り自らを戒めるつもりで選んだそうな。

 

 

話がそれたが、正典は『呂后斬戚夫人図』と別にあと2点『安房宮焼討図』『馮昭儀当熊図』の3点をオーダーした。どれもドラマチックな場面である。

『呂后斬戚夫人図』は天保14年秋、完成した。

 

 

 

 この項続く  (江翠)      転載 「激動の時代 幕末明治の絵師たち」

                  (サントリー美術館)より

                   『呂后斬戚夫人図』菊池溶斎画

                  引用文献  同上解説文・内田洸