【9月第1週号】


夏休みが終わって、

今年も後半戦突入、です~。

頑張りましょう。



さて、先月のお話の続きです。

覚えてます?

いや、別に覚えてなくても

いいんだけど…(^▽^;)





萩原家のお話の続きです。


「萩原家」と聞いて、新選組ファンが

ピピピ、と来るのは

島崎勇改め近藤勇が

天然理心流4代目宗家の襲名で

文久元年8月に府中宿・六所宮で挙行した

襲名披露の野試合、です。




文久元年8月 襲名披露野試合の案内状 部分

「近藤周輔」 御門弟衆中、とある。



紅白試合を行ってその際紅軍大将を

務めたのが萩原糺、でした。

この人は周斎先生の実家である

町田の小山村島崎家のすぐ近くに

居住する同村の名主。


さらには、神奈川は戸塚の平戸村で

旗本杉浦家の代官を任じ、

直心影流道場を開く

「萩原連之助」がいる。

こっちは安政5年に

近藤勇が他流試合に訪れたものの、

13代目将軍家定薨去の不例によって

叶わなくなった、というお話。


何やら萩原家は近藤家に縁が深い…?。

場所柄、甲州武田遺臣の

萩原一党が八王子や町田一帯に

いたせいなのでしょうか。


しかし私がぎょえ~!とオドロイタ

「萩原」サンというのは、

上州小保方村(!)に居住した

一族、でした。


周斎先生の奥さんが「萩原家」の出身、

上州萩原家に伝わっている

のって、どう考えればいいの?



周斎先生の奥方ということでは

芸者上りで、勇先生と折り合いが

悪いという話があるけど、

「萩原家」の出身だ、というのは

この本で読むまで知らなかった。


そういえば、勇の生家の祖母が

「萩原家」の出身である、

という話があるらしい。


また~?汗

萩原姓だよ、これも。




甲州にルーツを持つ萩原一統が山を越えて、

遠く上州に流れて、

実は同族だと?うーん…微妙。



上州の出身萩原家が江戸に出て御家人になり、

その5代目萩原家当主の弟が

どこかの「近藤家」に養子に行ったものか、

近藤惣右衛門雅隅と名乗る。


そして彼の実家である

著者の家の(萩原)の過去帳に

近藤惣右衛門の名の傍らに近藤周斎先生の

名が書き込まれている、という驚くような

記述があった、というのは…?



ここで新選組研究にお詳しい

某資料館学芸員Y先生のコメント。



「御世話になった恩人や

尊敬する師の名を

過去帳に書きこむのは

昔は特に変わったことではなく

ザラともいえる行為、なのですよ」


え、そうなの?



すると、近藤惣右衛門サンが近藤周斎先生と

身内でなく親しい関係だった、とも考えられる。

ではその親しかった周斎先生のことを

惣右衛門実家の

萩原家で過去帳に書き込む、ということは

よくよく懇意だったんじゃ、ないの?




…て、ことは、周斎先生の奥さんの事も

知っていた可能性はある!


仮に、奥さんが

八王子辺の「萩原」家の

出身だったそうだよ、と

偶然同じ名字で強く記憶に残れば、


年月が過ぎて代変わりするうち
「萩原」の出身だよ、

と、「八王子の」とか、

「どこそこの」が脱落、

誤って伝えられちゃった??

てことも、ありうるか…。



150年余の歳月の間に話が

変わっちゃって、

後年おばさんの私が今

それに踊らされている、かあ?


いや、周斎先生の奥さんの出自が不明である、

ということは

上州小保方村に根を張っていた

別の一統である「萩原」の家所縁の女性が

江戸で芸妓になっていて、

周斎先生の9人目の妻に収まっていた、

というように額面通り素直に

考えるべきなのか…


まあ、よいでしょう。

歴史は、ヒストリイ、→HISTORY、

物語り、です。


「歴史家の商売は夢とウソを追うことだ」

とは色川大吉先生のお言葉。


歴史の専門家ではない

歴史好きなおばさんが踊っても

無理はない、と思し召せ。





さて、

天然理心流初代の近藤内蔵助という方も

遠江出身というだけでハッキリした事は

判っておりません。


「近藤」という姓も、チョット調べるだけで

奥が深い。

遠祖は近江の掾に任じられた藤原秀郷、で

近藤、ね。


(よくいうでしょ、伊藤、とか佐藤、遠藤とか、藤原姓で…)


そこから鎌倉:室町と経て

三河や駿河に居住したとか。


別の一統は伊豆で頼朝に従い、

戦国期には武田の臣下になり、

甲州に根を張った…というお話。

徳川以前の時代は「近藤」姓に限らず

諸勢力の一族一統は

遠方へ移動を繰り返し、

枝分かれしてゆくもんね…。


初代内蔵助は遠江出身というからには

きっと駿河の近藤と同族か、分かれの

近藤家の名を名乗ったのでしょう。


俗に五近藤、といって主だったのは

五家あるそうな。

そのどれ、なんて、もはやパス(^▽^;)




天然理心流剱術免許 部分



武田の遺臣には萩原、近藤両方あって、

信濃の百瀬陣屋という所は一時萩原氏、

近藤氏が交代で詰めたという。

そしてややこしくも、武田遺臣というので

萩原家も旗本として家康に抱えられた、

という…。


そして身分は違っても地縁、血縁で

地下では繋がるような枝葉の同族が

所縁の地や移転先に土着して点在しているはず。


私達が今考えるよりは戦国の記憶も

一族一党の結束も強かったと思われる時代、

何処かで上州、多摩地方の萩原姓とか、

萩原と近藤姓が引き合っていたかも、ね。


とこれはもう、苦しくもそう思わないと

繋がらんじゃないか?という妄想でしか

ありませんワ。


ちなみに、

中島登の描いた近藤勇の絵姿、

アレを見てああ、と思うのが、

「近藤」姓の勇先生を

シンボリックに見せているバックの

陣幕の柄。


ほら、鹿の角を背負ってるみたいに

陣幕には破線で描かれている…






「鹿角紋」ですね。

大身5500石取りの旗本

近藤登助のところと同じ。

ここは家康の祖父清康に仕えながら、

その死後、やむなく駿河の今川義元

の配下となり、人質だった家康を

盛りたて…という三河以来の家柄。


強力でならした御先祖が清康の前で

狩りの獲物の鹿の角を裂いて見せた、

というので感服した清康が

「今後鹿角を紋とせよ」という言葉を

賜った、に由来するという。





 鹿角(かづの)紋



そういう三河以来の歴とした近藤家

のシンボルを勇先生のバックに背負わせて

中島登は絵姿にしたのね。


上州と八王子近郊の萩原の関係も

近藤惣右衛門の事も、

何か確定的な事が

見つからない以上

ギョエ~!と驚きの勢いで

書くには書いた今回の事も

単なる「噺」と見るしかない。


とりとめもないオチで

まとまらず、申し訳ありませぬ(_ _。)



周斎先生と何らかの関係があったと思われる

惣右衛門の息子の一人が「一橋付き」

明治2年死、という文言が

随分と気になってきます。


気になるけど

よく分からない…。


そういう事が多すぎる(T_T)


でも、滅多にないけど、

何年かして

突如繋がって、エ~!、ビックリ、

て事もある。


歴史は、長い時間をかけて

モノを調べたり考えたり、

時に「妄想」したりする楽しみが

醍醐味、と思うの。


「判らないけど取りあえず」ファイルに

今回の件も「保存」しておきましょう。


でもこのファイルは頭の中、だからね(笑)


きっと、

積み重なって下部の

情報は寄る年波で「自然消去」

の憂き目にあってるわね…あせる

            

            

              ※ 「天然理心流襲名披露案内状」 

                    「天然理心流剱術免許」   

                    「中島登画・戦友繪姿」は

                     図録「新選組!」展(2004年)より転載


 

             

                             


     (江翠)