【平成26年1月第2週号】


新年が明けてはや2週間です。

諸事情あって盟主様と入れ替わり、本年初の

記事アップとなりました江翠です。

改めまして本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


今年の大河ドラマは戦国モノ、「軍師官兵衛」

大河ドラマでシンセングミは未来永劫無いんだ!

と語っていた仲間内で次には

何故黒田官兵衛をやらんかなあ、という風に話が

展開していたのを思い出します。

ようやく出番が回ってきたね、官兵衛。


ナレーションに何だかワクワクします。

オドロオドロシイと不評とも聞いているけど、

私は今のところ好感を持っています。


ニュース原稿を読むような

耳に障らないナレーションでは物語は

薄っぺらになっちゃう。

戦国時代、合戦前に吉兆を占ったり、

呪術も使った時代です。

面白いフレーズだ、と言葉のセンスが

ビジネスになる現代とまったく異なる

語る言葉の力というものがあったように思います。


藤村志保さんのナレーションを聞いて、

何故だか、フト斎藤一を演じた

今は亡き左右田一平さんの独特な

あの「燃えよ剣」のナレーションや、

昔「大奥」のナレーションをした女優

岸田今日子さんなども思い出しました。

…重要よね、ナレーションって。

      

      馬   馬   馬       


さて、本題。

今回は「旗山」と参りましょう。

ここ暫く連続で名を挙げている

「波除神社」、向かって右方向、

南進してすぐの海幸橋を渡ると

築地市場本場、場内市場です。

近年は個人や外国人観光客も立ち入って

買い物が出来るようになったので

我々シロウトも大きな顔で

歩けるようになりました。

しかし、ひっきりなしに行き交う

市場独特の乗り物タ―レーや

トラックの出入りが激しいこと。

扱う品が生鮮品なので、足元は

常に水や氷でベチャベチャ、

風が強い日は発泡スチールの箱が

飛んできたりする。

観光気取りでパンプスなんかで入ってはいけません。

足元ばかり気をしてウロウロしていると

どやされます。

「あぶねえっての。

ぼやぼやしてるとハネちゃうぞ!」

若かった頃私も一回やられたことがある。

以来、ここにはスニーカーかブーツ、

ジーパンスタイルでしか入らない。


威勢のいいお兄ちゃんや、 

渋いオヤジたちがきびきびと働く姿は

ホントにカッコよく、気持が良いものです。

で、その方たちに「旗山」の碑の所在を訊ねても

通じない。

「何だい、そりゃ、んなもんあったけか?」

で、神社、というと

「あ。水神様ね、あっち」

と指さしてくれる。





そうなんです。

「旗山」の記念碑は海幸橋を渡った場内右手

奥の「水神社」の祠のある一画、

前庭に窮屈そうに収まっております。

水神様は、江戸時代日本橋にあった

魚河岸の関東大震災後に築地移転に

伴って一緒にやってきた神様、だけど

今回はパスね。








日々喧騒に包まれている市場、その西半分が

江戸時代高名な庭園でした。


白河少将楽嵡公、又の名を「たそがれの少将(!)」

隠棲の地「浴恩園」です。

誰、それ?

寛政の改革を行った筆頭老中、松平定信、といえば

ああ、と何となく教科書のページを思い出せるはずですネ。


その地は元は寛永年間に稲葉正則が屋敷として

築造した地で、のち一橋家の御鷹場となった場所。

そして後年寛政の改革で多年の功ありとして

幕府jから下賜された、という場所。

定信公からすると、幕府からの賜る「恩恵に浴す」から

「浴恩園」である、というわけね。

ふ~ん、つまりは「庭園」なんだね、と頭に浮かぶのは

お隣の「浜離宮」だったりするけど、そんなものでは無かった。


イングリッシュガーデン造りにハマるマダムが

一つ一つ丹精した御自慢のバラや

ラベンダーの茂みを嬉々として披露するのにも似た、

凄いエネルギーを楽嵡公はこの庭園に費やしていた、と知りました。


この殿様は政治の手腕だけではなく、

文化面においても優れた方でした。

インテリ殿様仲間の間で

植物や鳥類の精緻な図譜を

貸し借りして楽しみつつ、

西欧の銅板技術に関心を寄せ、

オランダの植物図鑑を造るために技

術者を召抱えて研究させたり…。

それが亜欧堂田善であり、

その技術研究は幕末の開成所へと繋がってゆく…。


そういう、凝り性な面のある楽嵡公が

荒れ放題のままに下賜された庭園を

コツコツ改修し、どれだけの想いを込めていたか

はご本人が「浴恩園記」として書いておられる。


庭園の景勝ポイントを51を選んで自ら和名を付け、

それに当てる漢語名を儒者に考えさせ、

名家の詩歌を景勝ごとの石柱の四方に刻ませて

配置を為す等素晴らしい庭園であった、という

楽嵡公の自著の内容を

小沢圭二郎なる人物が紹介しております。

中央区立図書館の郷土資料室発行の

リーフレットにこの人の書いたという

浴恩園に関しての貴重な記事がありました。


それによると…、

ちょっと。

今回は海軍じゃないの?

はい。しばしお待ちくださいまし。

つまり、「旗山」はその昔「賜もの山」と

楽嵡が愛した名園の築山だった、というわけ。


あの場内の石碑の前に立っていても、

ピンとこないわけですよ。

余りセンスも感じられないドタンとした石碑だけじゃあねえ…

失われた情景を探し、想像してこそ

の旗山じゃないの、と思った次第。





『楽嵡公自薦浴恩の記』は造園の記録であり

古の庭にまつわる伝承や自らが手入れして

美しくなってゆく造園の密かな喜びまで

感じられて、その文章自体が雅やか。

あたかもハイビジョンで庭園の観賞番組のナレーションを

聞いているようで、

失われた幻の庭園を逍遥する気分を味わえます。


「賜もの山」とはどうやら浴恩園の春風の池、秋風の池

という二つの池の間にある複数の築山を指していたらしい。


で、その「賜もの山」に該当する文章を拾ってみると、

 

  此の山(注・かざしの山という別の山を指す)の下に小池あり。

   茲は汐入らざれば、賜りし蓮を植えしにより 

  賜もの池と名づく。

  さるを省きたまもといふはあやまりなれど

  池に玉藻もつれづれしと呼来たりしとぞ。

  左右かずかずの山をも賜もの山といふは、

  池より写し来たりしなりけり。





オレンジ色に塗った記号ヤ、が賜もの山、記号クが賜もの池。

「郷土室たより」第25号より転載


判ります?よく見かける「賜山」の由来は、

賜った山となっていますが本来池に賜った「蓮」を植えた、

連想からなのでした。

ま、似たようなもんだけど、本来はチト違っていたわけよ。

「写し来たりしなりけり」と書く楽嵡公自身の書き方にも

強調する気分が感じられません?

楽嵡公の愛した「浴恩園」

なんと文化12年2月火災で失われます。

そして失意のうちに4月楽嵡公も亡くなりました。

広大な敷地の庭園の山水は残り修復がなされ、景観の美しさを

取り戻し、幕末に至った、のでしたが。


維新後。

この一帯は御存じのように兵部省の所管、

のち海軍用地となります。

明治4年、すでにこの庭園は

「尽ク毀撤シ去テ、唯彎然タル大地の残痕ト

突乎タル秀峯の剰形ヲ存セルノミ」

と前述した小沢圭二郎が書いております。




地図の上方蝶の羽を広げたようにように見えるのが旧浴恩園の秋風の池(右)、

春風の池(左) 賜もの山はこの中間の朱色で囲まれる複数の

楕円形部分をさすらしい。(明治17年陸軍迅速地図より転載)


念のため書き添えると、

田安家生まれの定信公は奥州白河藩へ

養子に出され、白河藩主になったのち、

息子の代で桑名へ転封、桑名藩父となっております。

であるので、同地は幕末期、桑名藩下屋敷です。


小沢圭二郎は旧桑名藩医の子供で、

天保13年浴恩園(桑名藩下屋敷内)の役宅で生まれ、

この庭園を遊び場として育ち、

美しい山水を良く記憶していたのでした。

長じて長崎遊学、大坂他で学問を修め

維新後明治4年から一年だけ海軍兵学寮へ

教官として出仕し、

懐かしい生家のあった周辺を歩いてみれば、

上記のような有様だった、と愕然とするのです。


「突乎タル秀峯ノ剰形」

これが秋風の池近くにあった賜もの山の

なれの果て。


そしてここに

縦一丈、横一丈五尺の「海軍卿旗」が

翻った、はずです。


明治4年太政官布告全書の中で見つけると、こんなのよ。





イマイチ不鮮明でゴメンナサイ

あら?三つ山形?!

きゃ~、何だか胸が騒ぐんですけど?

似てるからね?!



名称は海軍旗ですが、後年の海軍大臣旗も

同じデザイン、で明治4年の布告の意匠なので、

「海軍卿旗」もこれだったんじゃないかな。


兵部省が海・陸各省へ分離した

明治5年当時海軍卿は空席で、

翌6年に勝海舟サンが大輔へ昇進するのを待って

初代海軍卿へ就任した由。

我らがエノカマ、榎本武揚は明治13年に就任してます。


風雅な賜もの山から海軍のシンボル海軍卿旗の

翻る旗山へ…。


小沢圭二郎は、その後東京師範学校教師になるも、

幼い時親しんだ浴恩園への憧憬が捨て難い。

凄まじい勢いで西洋化してゆく中で失われて行く

古の美しい文化としての庭園の研究、造園の道へと

転向、突き進んでゆくのでした。

むむむ、三つ子の魂何とやら。


小沢が愕然と、昔日を思ってこの旗山を見上げたのとは

全く異なった思いで見上げる男がおりました。


おっ。ちょうどいい。使えるじゃないか!

心でそう呟いたであろうその男とは…


彼ですよ、彼。


この項続く。  (江翠)

 

                参考・引用文献 

                明治4年布告全書11
                中央区立図書館「郷土室たより」第25号

                「築地」と「いちば」 森清杜 都政新報社 他