カブト小谷城落城後の家臣達

続きになります。

前回はこちら


浅井長政が

今なお人々に愛される戦国武将である理由。


義に厚かったと言われるものの。

浅倉家への恩義を取ったとは言いますが、

義兄である信長を裏切り

背後から突こうとしたわけで。


しかし、

家臣や地域の民に

慕われていたのは事実のようです。

調略、寝返りが当たり前の戦乱の世で、

もちろん織田方に投降するものもいましたが、

落城の際、忠義の家臣700人が長政に従い、

最後まで闘い亡くなったと言われています。


私が気になった生き残った家臣達。

小谷城落城後、

どうなったのか調べてみました。


まず、京極丸に敵を招き入れた

長政を最後に裏切ったとも言える

浅井七郎井規、三田村左衛門尉、

大野木茂俊の3人。

信長は、褒美を取らせるどころか、

主君長政への裏切りを許さず

臣下への見せしめとして、

3人とも斬首したそう。


調略しておいて…。怖っガーン


しかしながら、

残された忠臣やお市など家族から取れば、

感情的に許せるものではなかったでしょう。

浅井の残党の心情の矛先を

そちらに向けるという意味でも

3人は殺されてしまったのかなと思います。


そして、長政自刃の場所となった

赤尾屋敷の赤尾清綱は

生け捕られてしまいます。

信長の前に引き出された際、

清綱はただ死を望んだそうですが、

息子の虎千代が

「父の介錯は我が手で。

 その後自分の刑をして欲しい」

と願い出たそう。

清綱は殺されてしまいますが、

感心した信長は虎千代を救い、

孫助として京極高次に仕え

その後武功を立てたそうです。


そして、前回も書きましたが、

長政は最後に打って出る前に、

自分の忠臣達にお礼の手紙を書いています。

落城前日に書かれ、

現存する謝状の最後の相手が、

片桐孫右衛門です。


この孫右衛門は、片桐且元の父です。

且元は後に秀吉の小姓として仕え、

賤ヶ岳の戦いでは七本槍の1人として

活躍する人ですが、小谷城落城の際18歳。


小谷山の横にある、

須賀谷温泉の近くにひっそりと

孫右衛門のお墓がありました。

向かいには立派な

片桐且元公頌徳(しょうとく)碑が。

父孫右衛門は70歳まで生き、

片桐且元はこの後、

豊臣家が滅亡する大阪の陣直前まで

豊臣系も家老として徳川家との橋渡しに

奔走します。

そして大阪夏の陣での滅亡を

徳川方として見届けた後、

わずか20日後に亡くなったそうです。

(享年60歳)


ちなみに、

同じ七本槍の脇坂安治の父も浅井の家臣で、

落城時安治は19歳。

その後明智光秀の与力として仕え、

さらに本人が直接望み秀吉の家臣となります。

そして関ヶ原では

西軍石田三成方につきながら

最後裏切り、徳川方に


その後の家臣達の栄衰も興味深いです。


そして最後は須賀谷温泉へ。

小谷城の麓にひっそりと涌く秘湯は、浅井長政も湯治に通ったという歴史の湯なのだそう。

営業時間は11:00-15:00(2023.11現在)

(時間変更があるようで要ホームページ確認)

須賀谷温泉


何度か訪れていますが、

しっとりとしたお湯で、

お気に入りの温泉です。

男性トイレ長政の湯

女性トイレお市の湯

小谷城跡登山の後はぜひぜひ!


以上、長々書きましたが、

小谷城跡巡りははここまでです照れ

読んでいただきありがとうございましたキラキラ