カブト前編 浅井家三代の繁栄

訪れる前に、

小谷城の歴史を振り返りたいと思います。

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車滋賀県長浜市の北にある小谷城跡

室町時代後期。
つまりは戦国時代、浅井亮政によって
築城(1525年頃)された山城です。

小谷城はその後浅井三代の亮政(すけまさ)久政(ひさまさ)長政(ながさま)の居城となりますが、織田信長に攻められ浅井家は滅亡(1573年)。

この戦でも武功を挙げた木下(のちの豊臣)秀吉が城主となりますが、秀吉は山城であることを嫌い、琵琶湖に面した長浜に新たに長浜城を築城したため、小谷城は廃城となりました(1575年)。

お城としての寿命、50年。
ここを訪ねるに当たり、
浅井三代の栄華と滅亡までの歴史を知りたい
…と思いました。

今回、参考に読んだ本はこの2冊です。

①浅井長政のすべて


(以下、引用させていただいています)

鉛筆元々、この近江国。
浅井氏が台頭して来る前は、
鎌倉時代に守護として置かれた
佐々木氏が治めていました。

その後佐々木氏は、
北近江地域は京極氏
南近江地域は六角氏
名乗るようになりましたが、
元々は佐々木家由来の分家だそうです。

ところが、応仁の乱辺りから。
京極氏と六角氏は、
それぞれの家督相続なども
複雑に絡みながら戦うことに。
先ほどご紹介した2冊を読みましたが、
本当複雑でしたガーン
手を結んだり、決別したりアセアセ
 
そのような中、
長政の祖父である浅井亮政
京極氏の家臣として台頭します。

特に小谷城築城後は、
主君である京極氏を城に招き入れることで、
事実上の北近江の最高実力者としての
権威を誇示するまでの力をつけます。

しかし、それで安定できないのが戦国時代。
築城後も順風満帆ではなく。

六角氏との繰り返される戦い、
また主君であった京極氏も
亮政と対立するようになり、
まさに京極氏と六角氏、浅井氏の三つ巴。
亮政は、幾度となく小谷城を捨て
敗走することもあったのだとか魂

そのような戦いの最中、
亮政は急に亡くなってしまいますアセアセ
(1542年、享年51歳)
この時代の急死って、
裏に何かあったのでは?と
勘ぐってしまいますが、史実は急死昇天
 
その後2代目として、
息子の久政が家督を継ぎます(当時18歳)。
久政は父の亮政よりも内政重視の政策を取り、
敵対していた京極氏とも和睦。
ところが、京極氏が六角氏に大敗し、
久政も六角氏に和睦を申し入れることに。
事実上の六角氏の臣下に
甘んじることとなります。

六角氏への忠誠の証とでも言いましょうか。
まず、久政の息子である
長政(そのころの幼名は新九郎)が
元服(15歳)の時、
六角氏当主の義貴の一字を取って
賢政と名乗り、
六角氏の家臣(平井定武)の娘と
婚姻をすることに。

しかし翌年の1560年、
長政は六角氏に対し軍を率い勝利します。
これには、
久政の六角氏への服属に不満を持つ
浅井内の家臣たちに、
長政が応えた様な説もあります。

祖父の代から戦い続けていた六角氏に
16歳でいきなりの勝利炎
家臣団の強いバックアップが
あってこそかと思いますが…。
これを機に久政は隠居。

隠居させられたのか
自ら安心して隠居したのかは不明ですが、
その後も小谷城の奥の小丸という館で
暮らしているところを見ると、
父と息子が完全に訣別したのでは
なかったのだろうと推察しますニコニコ

長政は名を新九郎に戻し、
平井定武の娘と離縁。
はっきりと
六角氏との決別を宣言した様なものですね。

六角氏は、岐阜の斎藤氏を頼り、
長政は南は六角氏、
東は斎藤氏と対峙する日々が続きますが、
六角氏はその後
「観音寺騒動」のお家騒動で弱体化ショック

そして、織田信長が登場します波

室町幕府最後の将軍となる、
足利義昭の室町幕府再興に
呼応するという名目を得た信長は、
岐阜の斎藤氏を滅ぼし、
京へ登るためにも、浅井家との同盟は必要。

また、浅井長政にとっても
織田信長と手を結ぶことで、
共通の敵である斎藤氏を倒し、
さらに強い後ろ盾を得ることができる。
つまりは近江での力を盤石にできる。

両者の思惑の一致により、
織田信長の同母の妹である
お市の方と長政の政略結婚が成立します。
(1564年頃)

ここまでが、浅井三代の繁栄、
つまりは小谷城の繁栄の歴史。

ここからは、
悲しい落城までのお話となります。
(後半に続きます)