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今回からは「安康天皇紀」になります。
とりあえず最初のところから読みましょう。
穴穗アナホ天皇=安康天皇は、雄朝津間稚子宿禰天皇=允恭天皇の第二子である。一云、第三子也。母を忍坂大中姫命といい、稚渟毛二岐皇子の娘である。(允恭天皇)42年春正月、天皇が崩御された。
ここまでは既出ですね。
さて、次から木梨輕皇子の話の続きなんですけど、
禁断の恋のために人心が離れ、挙兵した挙げ句、伊予に流され、あとを追ってきた輕大娘とともに死を選んだという悲劇物語に比べると
なんかつながり悪いです( ̄▽ ̄;)
冬10月、葬礼が終わった。この時、太子=木梨輕皇子は乱暴な行為を行って、女性を犯した。国民はそれを非難し、群臣も従わなくなり、皆、穴穗アナホ皇子についた。そこで太子は、穴穗皇子を襲おうと密かに兵を集めた。穴穗皇子もまた兵を集めてまさに戦いになろうとした。それで穴穗括箭アナホヤ・輕括箭カルヤというのは、この時初めて起こった。
いきなり出てきた穴穂括箭・輕括箭って何?と思いますが
「古事記」にはちゃんと説明が載っています(*´・ω・`)b
ただし、これは輕大娘皇女と通じたあと、すぐの出来事になっています。
是を以ちて百官及び天の下の人等、輕の太子を背きて穴穗の御子に歸りき。爾くして輕の太子、畏みて大前小前宿禰の大臣の家に逃げ入りて兵器を備え作りき。爾の時に作れる矢は其の箭の内を銅とせり。故、其の矢を號けて輕箭と謂う。穴穗の王子もまた兵器を作りき。此の王子の作れる矢は即ち今時の矢ぞ。是は、穴穗箭と謂う。
この分注の部分がそうで、もともとの原典になかったものに、編者かそれ以降の人が注記しているのですが、
輕箭カルヤというものは箭の内(先端と考えられる※)が銅、対して穴穂箭アナホヤは今の矢、つまりは鉄製の鏃ヤジリを付けた矢であるとしています。
※長見菜子氏は「万葉集」の「末葉ウラバ」「末枯れウラガレ」から矢の先端を指すと考えられるとされる。
この鏃について松本武彦氏は
・1世紀~3世紀前半(弥生時代後期~末期)に他の武器が鉄器化する一方で鏃のみ青銅器製のものが急増する。
・3世紀末~4世紀中葉(古墳時代前期)に武器が完全に鉄器化するが、有稜形といわれる銅鏃が飾り矢(副葬品)として出土する。
・4世紀後葉~5世紀前葉(古墳時代中期)前半に銅鏃が完全消滅する。
とくに長頚鏃が実戦用としてその後も長く使用される。
とされていますが、
この分注について研究されている長見菜子氏は、その論文https://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/top/publication/JI_32/JI_32_003.pdfで、それをもとに
鏃をとりまく事情が比較的正確に伝承されていたことが推測できる。
とされ、
菅野雅雄氏の
軽部が、葬送を担っていたとする見解を踏まえて、
軽部が敗者の歴史として伝えたのが
輕皇子の物語であるとされました。
ここでは「日本書紀」の文章しかあげていませんが、
「古事記」の歌物語には挽歌の要素があることが指摘されていて、それも軽部の職掌とも関連しているようです。
続きです。
時に太子は、群臣が従わず民の心も離れたのを知って、宮を出て、物部大前宿禰家に隠れた。
ここは「古事記」では大前小前宿禰になっています。伝承的な名前ですね。
さて「古事記」では物部氏の痕跡が薄いというのは、以前から指摘されているのですが、
これは推古朝の「天皇記」「国記」の編纂の時期に、丁未の乱で敗れた物部氏が中央政界から消えていたからだと思われます。
つまり、ヤマトタケルの伝承でもあったように、「古事記」の伝承では「天皇記」「国記」がベースになっていると推測できるのですが、
「日本書紀」でこれが物部大前宿禰とされているのは、
葬送の一翼を担っていた軽部がもともと物部氏の傘下にあり、物部氏の伝承として伝えられていたことと、
「日本書紀」の編纂の時期に右大臣として政界に臨んでいた石上(物部)麻呂の影響だと
長氏は指摘されますが、
これは「日本書紀」が政府の役所で、かなりの人数で編纂を行っており、藤原不比等ひとりが己のために都合よく作っているわけではないということと、
「古事記」が文武朝ごろに国史編纂の場を離れた柿本人麻呂の手に成ると言う
2つのわたしの推論と矛盾はしませんので、支持したいと思います。
「古事記」の下巻はとくに、天照大神の出現がなく、残虐なシーンも多く、
古い史書の形を残していることは以前から言われていますが、
おそらくそれは「天皇記」「国記」がもとになっており、
上巻~中巻の歴史の体系が
天照大神をはじめとする高天原の神々を中心に編み直されているのに比べ、
下巻が「天皇記」「国記」をもとに書かれているからだと考えられ、その原因は
原「古事記」の編者であった人物が、
国史編纂局でも神代~応神天皇あたりまでの編纂に関わり、熟知していたのに
下巻にあたる仁徳天皇以降の編集方針が未確定な時期に国史編纂の現場を離れたため
すでに出来上がっていた上巻と中巻は「日本書紀」と歩調が合うものの、
下巻の部分で、だんだんと齟齬が生まれているためだとわたしは思うのですが、
それならここで「日本書紀」にのみ物部氏の大前宿禰が登場するというのももっともだと言えるのです。
長氏はまた
一方の穴穂皇子の「穴」が鉄穴を示しており、そのために鉄製の鏃を「穴穂箭」といったこと、
その名を負う穴穂皇子の宮が、物部氏の鉄器生産の遺跡が集中する石上にある
ということも指摘されます。
穴穂を鉄と関連付けるのも、非常に分かりやすいです。
穴穗皇子はそれ(輕皇子が逃げ込んだこと)を聞いてそこを囲んだ。大前宿禰は門を出てこれを迎えた。
穴穗皇子が歌われた。
大前 小前宿禰が 金門蔭カナトカゲ
大前小前宿禰の家の金の門の蔭に
かく立ち寄らね 雨立ち止めむ
この様に立ち寄ろう。雨宿りしよう。
大前宿禰が答えて、
宮人の 足結いアユイの小鈴
宮人の足結いの鈴が
落ちにきと
落ちたよと
宮人動トヨむ 里人もゆめ
宮人が騒いでいるが、里人は騒ぐなよ
そして皇子に
「願わくは太子を殺さないでください。私どもが話し合います。」と申し上げた。これによって太子は大前宿禰の家で、自ら死を選んだ。一云、伊豫國にお流しした。
この部分について長氏は
山路平四郎氏や折口信夫氏の論を踏まえて、
門前に来た「まれびと」である神を、「宮人振り」の舞踊で迎える農耕儀礼が根底にあり、
荒ぶる穴穂皇子を大前宿禰が宥める形をとっているとし、
物部氏の功績を伝えていると言われます。
このように見ていくと、
この輕皇子の悲恋は、武器としての銅鏃の生産に携わった、軽部の敗者の伝承であり、それゆえに史実とするにはあまりにもうまくできすぎています。
ですから超美形の兄妹の悲恋は、歌物語として伝承されたものでしょう。
では本当の穴穂皇子=安康天皇の時代はどんな時代だったのか、
次回はまた「宋書」の記録をもとに考えていきましょう。
またのご訪問をお持ちしております。
