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とりあえず応神天皇からは5世紀になる可能性があるので、

考えるべきテーマは「倭の五王」になります。(倭王讃の可能性あり)


その前に4世紀の総括もあって、忍熊オシクマ王とこの時代に消えてしまう丹後の政権についてまとめておこうかと思います。


さて忍熊王の話ですが


ヤマトタケルの子、仲哀天皇と最初の妃で既に亡くなった大中比売の間に生まれた香坂カゴサカ王と忍熊王は、

神功皇后が皇子を生んだと知り、

自分たちを差し置いてその皇子を天皇にするつもりではないかと疑い、挙兵します。(香坂王は「古事記」の表記です。)


そして北部九州から帰還する皇后軍を

明石海峡で迎撃するために、仲哀天皇の陵と称して五色塚古墳(神戸市垂水区)を造営します。


この時、二人は菟餓野トガノ(神戸市兵庫区)で戦況を占うのですが、大きな赤猪に香坂王が食い殺されるという残酷な結果になり、


弟の忍熊王は住吉スミノエ(神戸市灘区)からさらに撤退し、淀川~宇治川を転戦し、滋賀県大津市の逢坂山で激突するも、

武内宿禰の謀略で敗退、瀬田川で入水自殺するという筋書きです。


さて、この神戸市の部分、

菟餓野については、

①神戸市灘区の都賀川

②大阪市北区の兎我野町

③神戸市兵庫区の夢野町


住吉については

①大阪市住吉区の住吉大社

②神戸市東灘区の本住吉神社


が比定地の候補になっています。


比定地が多いのですが、わたしは


菟餓野の方は

淡路島から石を運んで明石に築造した、と「日本書紀」に記録がある仲哀天皇の偽陵が、

葺き石の調査結果の結果と一致する「五色塚古墳」を指すことは確定なので、

そこに軍勢をおいたまま、短時間で出かけられるということで、

香坂王の墓所の言い伝えがある氷室神社のある③神戸市兵庫区夢野町が菟餓野だろうと推測しています。

夢野が禁野イミノから来ているのも、占いを行う土地にふさわしく、また王権の御料地であったとも考えられるからです。


この戦いにおいて、神功皇后は神社を四社祀るのですが、

そのうちの長田神社がお隣の長田区にあるというのも意味がありそうです。


長田神社・生田神社・廣田神社・住吉神社は、神功皇后が武庫ムコの水門ミナトで船が進まなくなった時に祀った神社です。

その武庫の水門の比定地が長田区の駒林神社付近なのですが、

もしかするとここで海戦があったのでは?という想像も可能になります。




以上の土地関係から、菟餓野が夢野町だというのは、一番しっくり来るわけです。
(都賀川のあたりは六甲山から海までが近くずっと坂道なので、そんなに広い野はないと(^^;)
また兎我野町はこのころ海の中でせいぜい干潟、大猪の出現は疑問です🐗💨💨)


もうひとつは住吉スミノエですが、
神戸市灘区の本住吉神社には、大阪市住吉区に住吉大社が遷座する前の、元の鎮座地だという伝承があります。

社伝では、日本書紀において、神功皇后の三韓征伐からの帰途に船が進まなくなり、神託により住吉三神を祀ったと記される「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」の地が当地であり、当社が住吉三神鎮祭の根源であると伝え、そのために古くから「本住吉」と呼ばれるとしている。「大津渟中倉之長峡」の地は現在の住吉大社であるとする説が有力であるが、当社では住吉大社も当社からの勧請であるとしている。本居宣長も本住吉神社の主張を支持している。(Wikipedia)


式内社ではないのですが、遷座した跡地ということで、祭祀は住吉大社に移ってしまっていたのでしょうか?

明石で迎撃するも、菟餓野の占いの結果を受けて後退したのであれば、

明石から当地へ移る方が自然でしょうし、

この後淀川経由で戦闘が継続されることを思えば、大阪市住吉区はかなり南へ移動するので違和感があります。


《妄想》

なんだか神戸で「長狭」なら見たことがあったのでググってみたら、

生田神社の南側(神戸最大の繁華街の三宮サンノミヤの北側)に東西に長く「北長狭通」という町名があり、(たぶんぐるなびで見たのね)


『西摂大観』によれば、町名の由来は古代の地名活田長峡国からとったが「狭」と間違えたからという。(Wikipedia)


と、本住吉神社とはちょっと違うのですが、ここが活田長峡で、あちらが大津渟中倉之長峡というのなら、神戸って東西に細長くて、海と山に迫られているので全体に「長峽」なのでは?とも思われます。


この地域の地図で、確認しましょう。

(埋め立て地は塗りつぶしました。ちょっと場所がテキトー💦)





そもそも神戸コウベという地名自体が、長田神社や生田神社に貢進された御料地の「神戸カンベ」から来ています。


また神戸の北側に迫る六甲山地は、かつて全山が神功皇后の祀った廣田神社の神領だったと伝えられています。


「倭姫巡幸」においても、倭姫は地元の首長に地名を尋ね、服属の証しに神戸を貢上させています。


おそらくこの戦いの後に、忍熊王を支援した氏族の領地が没収されて、あるいは神功皇后・応神天皇側への恭順の証しとして、神戸に納められたのではないでしょうか?


神戸の位置を考えて見ると、

いわゆる「畿内」の摂津国の西の端、五色塚古墳あたりからは播磨国明石郡です。


今は同じ兵庫県に含まれて、

摂津の北西部(いわゆる阪神間)と播磨は同じ行政区ですが、

このころの大和王権にとっては、畿内は王権の支配下にあったかもしれませんが、

兵庫県と京都府の北部はすべて山陰道に入る「丹波」で、丹後半島を中心とする丹波政権の支配下でした。

(私見では四道将軍は大和王権と同盟を結んだ現地政権と考えています。)


同じく北陸道の越前(福井県)~越後(新潟県)を支配するのは、「越コシ王権」、

また東海道に属する伊賀~伊勢(三重県)は阿倍氏の、

南海道の紀伊国(和歌山県)は紀氏の支配下にあったと思われます。


同じように兵庫県南西部の播磨は、吉備の道の口として認識され、山陽道の国でした。

アシハラノシコオ=大国主命や地元の伊和大神、オオタラシヒコ、オオタラシヒメ、アメノヒボコが入り乱れている複雑な神話を持つ国で、吉備からも大和からも出雲からも但馬からも、人の移動があり、各勢力の緩衝地帯となっていて、大和がガッツリ抑え込んでいる土地ではないようです。


それは同じく伊賀、越、丹波の真ん中にある東山道の近江(滋賀県)にもいえることです。


ですから、明石海峡は当時の大和王権にとっては、西から攻撃された時の最前線です。そしてその西の摂津国は畿内ですから、当然大和王権に従う氏族が支配していたと思われます。


北部九州を制圧して半島との交渉に成功した積極外交を展開する神功皇后は、

とりあえず武庫の水門まで進軍できましたが、そこで進めなくなり、

幾度かの戦闘と交渉を繰り返し、支配する地域を広めながら、忍熊王を追い詰めていった過程が、

これらの神社伝承に残っているように思います。


なお四道将軍のうち吉備政権だけは、この後も外交で活躍します。

おそらく瀬戸内海を進軍する神功皇后軍を後押ししているのではないでしょうか。


「日本書紀」を続けて読んでいきますと、神功皇后側には葛城氏・紀氏・和珥ワニ氏・吉備氏などがいて、次の「倭の五王」の時代を作っていくことが見えてきます。


逆に、忍熊王についたと思われる阿倍氏系(伊賀&越)や犬上氏などの近江系、

そして丹波政権は5世紀には姿が見えなくなり、巨大古墳も消滅します。


入れ替わって近江に居ついたのは、海人系の和珥氏や阿曇アヅミ氏でした。彼らは北部九州から来たと考えられます。



このように神功皇后vs忍熊王の伝承は

・伝承地に整合性がある。

・5世紀の氏族の動向に合致する。

・畿内を越える広範囲に伝承が残る。

・乱を境に丹後の巨大古墳が消滅。

・佐紀陵山と相似形の古墳の分布。

などから、決して単なる叛乱ではなく、王権の外交や後継をめぐる大きな戦いであったと思われます。


次は丹後の丹波政権と忍熊王にスポットを当てて、

阪神間編(西宮市・宝塚市)に続きます。


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