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「光る君へ」も一段落ついたところで
清少納言(FSウイカさん)と藤原斉信タダノブ(はんにゃ金田さん)がどういう関係だったのか、「枕草子」から検証してみましょう。
さて、斉信が「枕草子」に登場するのは、長徳元年(995)2月末、あの「草の庵」の話です。
この時はまだ定子の父である関白藤原道隆(井浦新さん)は存命でしたが、前年冬より体調を崩していました。
長徳元年になって、
正月19日には道隆の次女原子が東宮女御として後の三条天皇に入内し、
28日にはドラマにあったように伊周(三浦翔平さん)が宴会をします。(人望を集めようとしたあれですね。)
2月5日に道隆は辞表を出して、関白を伊周に譲ろうとしますが、認められず、
2月18日、登華殿で定子と淑景舎シゲイシャの女御ニョウゴの原子が対面し、道隆、貴子(板谷由夏さん)も同席します。
途中で、伊周・隆家も顔を出します。
この時には冗談を言って笑いをとっていた道隆ですが、
(「光る君へ」では正統派のイメージの道隆でしたが、本当は酒飲みのオモロイおっちゃん、というかいつも酔っぱらってたのかも^o^;)
これが中関白家最後の華やかな一日でした。
4月10日に道隆は亡くなるのです。
この中関白家の退場に伴い、「枕草子」に登場するのが斉信です。
「草の庵」の時は、すでに親交がありながら斉信に避けられていたということがわかりますから、少納言との交流はあったはずですが、なぜか中関白家と交替するように「枕草子」に登場するのです。
これについて赤間恵都子さんは、
定子後宮が服喪期間に入って描くべき対象がなくなったとき、その人物の実体はともかく、外見的に華やかな斉信を描くことが、作者が選んだ『枕草子』執筆継続の応急措置だったのではないでしょうか。加えて、世の趨勢(すうせい)に敏感な斉信が出入りする後宮をアピールしようという意図もあったかもしれません。
(三省堂コラム「『枕草子日記的章段の研究』の発刊によせて」より抜粋)
と指摘されます。確かに斉信は才色兼備、朗詠も上手で、当代一の貴公子でした。
この道隆の死によって、定子は服喪期間に入り、女房たちも鈍色ニビイロ=薄い灰色の喪服姿になります。
ずいぶん前になりますが、このシリーズで鐘楼に登ったり、左衛門の陣でイスを壊して大騒ぎする若い女房の姿を伝えましたが、その時彼女らが喪服姿であったことが、少納言によって描かれています。
これが「故殿の御服のころ」という章段で、時期的に続くのが、
「故殿の御ために、月ごとの十日」という段です。
道隆の月命日にあたる毎月10日に、中宮定子が供養をさせるのですが、9月10日には職シキの御曹司ミゾウシで法要が行われ、多くの貴族が参列します。
その後に宴会があり、頭中将の斉信が
菅原文時が謙徳公を追善した
「月 秋と期して、身 今いずくにか去る」という詩を吟じ、
定子も
「素晴らしいわね。ほんとに今日のために詠まれた詩のようね。」とおほめになり、
少納言も
「それを申し上げに、私も途中でこちらに参りました。」というと、
「斉信びいきの少納言ならなおさらでしょうね。」と定子は返します。
このように定子も褒めるほどの貴公子ぶりを発揮する斉信が、そのあとの文章では折に触れて、少納言にこのようなことを言っていたようです。
「どうして私と本当に親しく会ってくださらないのですか?さすがに嫌いだとは思っていない様子だとわかるけど、変じゃないですか?こんなに長年になっているご贔屓なのに、よそよそしく終わるなんてないでしょう?
これから先、(出世して)蔵人頭として殿上に一日中伺候しなくなるなんて時が来たら、あなたとの何を思い出にしたやらいいのだ。」
あらあら、この時期は道隆の薨去後、長徳の変の前ですから、この時に深い関係でなかったとすると、たぶんこの後に例の長い里下がりの時期になり、
斉信に少納言の居場所を教えるなと言われた橘則光が、ワカメを口に詰め込んだワカメ事件が起きるので、
どうも少納言は斉信とは深い関係になることはなかったと思われます。
この里下がりは、斉信、則光の官職でいうと長徳3年(997)秋なのですが、この年の6~7月にようやく中宮のもとに再出仕した少納言が、また雲隠れするとも考えられず、赤間恵都子さんの解釈で、長徳元年(995)の秋としますと、あの月命日の9月10日からほどない頃、
この斉信との会話はその前後ということになります。
この会話は、参議になったらあんまり会えないし思い出づくりしようよ。ということで、参議になる気満々のいかにも斉信らしい言葉ですが、
ワカメ事件の里下がりの時は、
源経房ツネフサと源済政ナリマサ、橘則光にのみ居場所を教えていました。
この源経房という人は、道長(柄本佑さん)の妻の源明子(瀧内公美さん)の同母弟で、道長の引きで順調に出世するのですが、
反面、定子の弟隆家(竜星涼さん)の姻戚にもなり、定子の子敦康親王の後見をします。
「枕草子」を世に広めた人でもあります。
立ち位置的には道長に近いのですが、定子の身辺にも思いが到る人であったようです。
もう一人の源済政は、これまた道長の妻の倫子(黒木華さん)の甥で、あまり出世しないので資質的には問題児だったのか、道長に与しない態度を取ったかというところでしょう。
けれども、道長の姻戚と非常に親しいのは、伊周(三浦翔平さん)と道長の対立が深まるにつれてあらぬ憶測を呼んだと思われます。
さて、あのようなお誘い?を受けた少納言は、
「仮にそうなったら、あなたをお褒めできなくなるのが残念です。主上の御前で、皆でお褒めするのも女房の役割なのに、そんな仲になれるでしょうか?可愛いと思ってくださるだけにしてください。」と答えます。
斉信は
「どうして?深い仲になってこそ他人より褒める連中も多いですよ。」と言いますが、少納言は
「私は親しい人を贔屓して褒めるのは、なんかいやらしい気がして」と断ります。
つまり、少納言にとっては、華やかで才気ばしった斉信はあくまで定子サロンのアクセサリー、
当代一の貴公子と丁々発止とやりあう自分たちや、その中心にいた定子の姿を描くための重要キャラに過ぎなかったということでしょう。
「清少納言集」によると、少納言の恋人は藤原実方だったようですし、
小馬命婦の父藤原棟世とも、退出後は一緒に暮らしていたようです。
斉信はけっこう少納言に執着したようですが、クールなキャリアウーマンの少納言は、斉信とはあくまで仕事上の付き合いで、ビジネスと恋愛は別だと思っていたのでしょう。
斉信は権勢欲や出世欲が強いという逸話もあって、さっきの言葉にも
「出世したら」みたいな言い方がにじむので、本当は清少納言は斉信のことはあんまり好きではなかったかもしれません。
清少納言の男性関係は、またいつか稿を改めて書いていこうと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
次回は「日本書紀」、成務天皇はすぐに終わりますが、
そのあとは「邪馬台国」の終焉か?という時代に入ります。
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