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今回も東征の物語を「王」表記に気をつけて見ていきたいと思います。


文中、「」を赤字、「日本武尊」を緑で表示します。



ここで日本武尊は、上総(千葉県房総半島)より転じて陸奥国へお入りになった


その時に大きい鏡を王船に掲げて、海路から葦浦に回った。横の方へ行って玉浦を渡って、蝦夷エミシの境に至った。

蝦夷の賊の首領、嶋津神・国津神らは竹水門タカノミナトに駐屯して防ごうとした。けれども遥かに王船を見ると、その前にその威徳のある様子に怖じけづき、心中勝てないことがわかって、ことごとく弓矢を捨てて、遠くから拝んで、

「仰いであなた様のお顔をみれば、人よりすぐれていらっしゃいます。もしや神であられますか?お名前を承りましょう。」と申し上げた。

は答えて
「我は、これ現人神の子である。」とおっしゃった。
そこで蝦夷らは、ことごとく畏れて、さっそく裾をあげ波を分けて、
自ら王船を助けて着岸させた。そして自らを縛って降伏した。そこで(王は)その罪をお許しになった。
そしてその首領を捕虜にして、従者にお加えなさった。

蝦夷は既に平定し、日高見国より帰って、西南の方の常陸ヒタチ(茨城県)を経て、甲斐カイ国に至って酒折宮におられた。

まず、ここで出てくる地名について、
古典研究の定本である「日本古典文学大系日本書紀上」(岩波書店)の補注で確認します。

葦浦 
所在未詳、「地名辞書」に千葉県安房郡江見町の吉浦(現鴨川市南部)とする。

玉浦
「和名抄」に下総国匝瑳ソウサ郡珠浦郷。(現千葉県匝瑳市の一部)
「地名辞書」はいわゆる九十九里浜(千葉県)のこととする。

竹水門
所在未詳。「地名辞書」は律令時代の多賀城(現宮城県多賀城市)とするが
常陸国の多珂タカ郡(現茨城県高萩市、北茨城市、日立市)や
「和名抄」にみえる陸奥国行方ナメカタ郡の多珂タカ郷(現福島県南相馬市)に比定する説もある。

日高見国
「常陸国風土記」逸文の信太郡(茨城県稲敷市、土浦市付近)の条に「此の地は本モト、日高見国なり」
とあるほか、信太郡の地名伝承にも日高見国が出てくる。
喜田貞吉は東の方にある土地を指す言葉が大和朝廷の版図拡大によって、常陸から陸奥(北上川)に移動したとした。


こうやって見ますと、陸奥へ行ったという「日本武尊」主語の一文(藍字)を除いて読んでみると、常陸国の中で行程が成り立つことがわかります。




竹水門については
「タケル王」の伝承が「古事記」(712)「日本書紀」(720)に先行していたのなら、両書の成立年代において、
724年に大野東人アズマンドによって築かれた多賀城をあてることは難しいと思います。

また陸奥国行方郡(福島県)の多珂郷についてですが、
地名でわかるようにここは常陸の行方郡や多珂郡から来た人びとが住んでいた土地で、
少し南の大熊町(福島第一原発のある辺りです。)までが古代(~654)の常陸国でもあることも考えると、
たとえ福島県であっても、常陸の勢力が支配していたとも考えられる土地なのです。

ただ、外房の海岸沿いを北上した際の寄港地に比べると、福島県では距離が長すぎるということで、
むしろ常陸国の方の多珂郡の方がより自然なのですが、それでも常陸の人びとが語る舞台としてはあり得ないわけではありません。

ただ竹水門の伝承の母体は常陸であることは、間違いなさそうです。

このように出てくる地名がすべて千葉県と茨城県関連で、
竹水門も福島県で常陸(茨城県)からの移住者がいた土地だとすると
ここの「日本書紀」の伝承は、「王」に「茨城県と千葉県が恭順した」というのが原伝承だということになります。

そうすると同じく東北に行かない「古事記」と矛盾がなくなります。

つまり「古事記」「日本書紀」のふたつの史書が、ともに「王」表記の先行文献を見ながら書いたという可能性が高くなるのです。

千葉県木更津市の「君去らずタワー」
上は日本武尊と弟橘媛


次の酒折宮伝承は「古事記」との相違はそんなにありません。
さっと目を通しましょう。

その時に灯火を灯してお食事をされた。
この夜、歌で従者の人々に問い、

新治ニイバリ 筑波ツクバを過ぎて
 幾夜か寝つる
新治(茨城県筑西市付近)や、筑波(茨城県つくば市付近)を過ぎて、幾夜寝ただろう。

と歌われたが、従者はみな、答えられなかった。
そこに灯火番の者がいて、王の御歌のあとに続けて

日々カガ並ナべて 夜ヨには九夜ココノヨ
日には十日を
日数を数えて、夜は九夜、日は十日でございます。

と申し上げた。

そこで灯火番の機転をお褒めになって、
たくさんのご褒美を取らせた。
そしてこの宮におられて、靫部ユゲイベ(矢を射る軍団)を大伴武日連に賜った。

連歌の始まりで、勅撰の連歌集「菟玖波ツクバ集」はここから来ています。

ここに日本武尊
「蝦夷の凶暴なものどもは、ことごとくその罪に従った。ただ信濃シナノ国(長野県)、越コシ国(福井~新潟県)のみがぜんぜん王化に従っていない。」とおっしゃった。

そこで甲斐カイ(山梨県)より北の方、武蔵ムサシ(東京都、埼玉県)、上野カミツケ(群馬県)を巡って、西の方の碓日坂(碓氷峠)に至られた。

そのころ、日本武尊はいつも弟橘媛を偲ばれるお気持ちがあられた。
そこで碓日の嶺に登って東南の方を望んで、三度嘆いて
「吾妻アヅマはや」(我が妻はなあ!)とおっしゃった。
これによって山東の諸国を名付けて
吾嬬国アヅマノクニという。

ここに行く先を分けて、吉備武彦を越国に遣わして、その国の地勢や人民の様子を偵察させた。

そして日本武尊は信濃シナノ(長野県)に入られた。
ここの国は山は高く谷は深い。青い嶺が何重にも重なっていた。人は杖を使っても登り難かった。岩は険しく、坂道は曲がりくねり、馬は歩みを止めて進まなかった。

けれども日本武尊は、煙を分け、霧をしのいで、遥かな高山を進まれた。その峯に着かれたが、空腹であった。山の中で食事を摂られた。

山の神は、を苦しめようとして、白い鹿となって王の前に立った。は怪しんで、一本のニンニクの茎(魔除け)を白い鹿に弾いた。すると目に当たって殺してしまった。

ここでは、突然道がわからなくなり、どこへ出るのかわからなかった。その時白い犬が自分からやって来て、を導いた。犬に従って行ったので美濃に出ることができた。

吉備武彦が越から出てきて、ここで会えた。
ただ白い鹿を殺されたあとは、この山を越える者はニンニクの芽を噛んで、人や牛馬に塗ると、神の毒気に当たらなかった。

と、このように碓氷峠のところだけは主語は日本武尊になっています。

ここは「古事記」では足柄坂だった「吾妻はや」の場所です。

そして「古事記」にもある信濃坂の鹿神の話はきちんと「」に戻ります。

定説でも、ヤマトタケル伝承の征討範囲は、「古事記」の方が古形を残しているといいますが、
「古事記」で足柄坂になっている碓氷の坂の部分が、これも「日本武尊」表記ということで、ここはもとの「王」表記の文献から、変更されていることがはっきりわかります。

先ほどの「日本武尊」表記で常陸国から陸奥国へ行ったというのも、やはり変更といえるわけです。

それと吉備武彦の記事も、変なところに入ってますね(;^_^A話の途中じゃんw

このように、「日本書紀」にはネタ本をコピペしたところと、改竄したところがはっきりわかり、

「古事記」も「日本書紀」も同じ文献をもとに書かれているというのも想像できます。

この頃はすでに「帝紀」「旧辞」や「天皇記」「国記」が存在したことは確かなので、このネタ本はこういった物に求められて良いでしょう。

私は各国(各地方)の話を集めたのでは?と言われる「国記」の関東地方のところにあった伝承では?と思うのですが、
こればかりは証明できません(^o^;)


この事は単に日本武尊の物語にとどまらず、「日本書紀」全体の成立にも関わって来ます。

つまり大筋の組み立ては、編纂委員会的な政治的視点や対外的視点を持ったメンバーで決められ、
書くのはその下部組織である編纂局の渡来系の漢学者や中国語の読み書きの得意な日本人学者、
そしてその下に学者の弟子的な人や、官庁から派遣された下級役人がいて、
各物語ごとに分担して作っていたのでは?ということが見えてきます。

そのうち日本武尊の東征の担当者が、
変更点以外は「王」表記だった原典を写し、
変更点(陸奥国、碓氷の坂)だけを
「日本武尊」表記で挿入したのですが、

真面目に文章から練り直して書き上げた人もいて、その人の担当部分ではこういう事情が見えにくいだけで、同じように原典をもとに脚色していると考えて良いと思います。

ただ日本武尊のところで、こういうずさんなコピペが行われたのは、ヤマトタケル自体が持統朝以降にヤマトタケルと小碓命の合体が行われ、天皇の位を失い、草薙剣の話が加わるなどの改変が重なったために起きたのではないかとも考えられます。

すると、景行天皇の九州征討にしろ、
次の神功皇后の三韓への出兵もまた、
まったくの絵空事で当時の政府が作ったものではなく、何らかの伝承があったとしても良いでしょう。

そして、皇位継承の確立のために大幅に作り変えられた「神代」については、
細かいストーリーを編纂委員それぞれが作ったために、
下部の編纂局では決めきれず、数多くの「一書」を並記することになったようにも思います。

ですから、私としては
「日本書紀」は決して藤原不比等が一人で書いたものではない、(もちろん実質上編纂委員長であったとは言えます。)
と考えますし、

「古事記」のような息長オキナガ氏への優遇もせず、また各氏族に配慮して各系統の「家伝」も採り入れているように思います。

こういうことは、この「王」表記について話すまでは、説明しにくいことだったのですが、
これから先は、そういう組織で書かれていることを念頭に読んでいただけると、
いっそう面白いかと存じます。

これより先は、持統朝以降に挿入されたと思われる草薙剣の話です。
もう「王」は出てきません。

あとはサラサラと読んでいこうと思いますので、よろしくお願いします。

それでは、またのご訪問をお待ちしております。