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前回抜いた稚足彦ワカタラシヒコ尊つまり成務セイム天皇の立太子の記事を、まず読んでおきましょう。


51年春1月7日、(天皇は)群臣を召して宴会を催され、何日も続いた。
皇子の稚足彦尊=成務天皇と武内宿禰タケノウチノスクネはその宴会に出席しなかった。
天皇は呼んで、そのわけを問われたが、皇子らは、
「あの宴会の日には、群臣もすべての役所も気持ちが遊ぶことに行って、国家のことを考えません。もしや狂った者がいて、警備のすきを窺うかもです。それで門下に控えて非常時に備えました。」と申し上げた。
天皇は、
「なるほど。」と仰せになって、特に目をかけられた。
秋8月4日、稚足彦尊を立てて皇太子とされた。
この日に武内宿禰に命じて、棟梁之臣ムネハリノマエツキミ=大臣とされた。

「古事記」の大碓命は朝食会を欠席して怒られた(殺された💧)のに、
中国風の「日本書紀」だと誉められるのか。まあ、欠席の理由が違うけど(;^_^A

文章は日本武尊の系譜の次に進みます。

52年夏5月4日、皇后播磨大郎姫ハリマノオオイラツメが薨御された。
秋7月7日、八坂入媛命を立てて皇后とした。

53年秋8月1日、天皇は群臣に
「私が愛した子を偲ぶのは、いつの日に止むのか。小碓王=日本武尊の平定した国々を巡りたい。」と仰せになった。

この月、天皇の御輿コシは伊勢にお出ましになり、東海道にお入りになった。

冬10月に上総国に到着し、海路で淡アワ(千葉県房総半島南部)の水門ミナトに渡られた。
このとき、覚賀鳥カクカノトリ=ミサゴの声が聞こえた。(天皇は)その鳥の姿を見ようと、海の中まで出られたが、そこで蛤を得られた。
そこで膳臣カシワデノオミの遠祖、名は磐鹿六雁イワカムツカリが、蒲の葉をとってたすきにして、蛤を膾ナマスに造って奉った。それで六雁臣の功績を賞めて、膳大伴部カシワデノオオトモベを賜わり率いさせた。

12月、(天皇は)東国より帰られて伊勢に居られた。これを綺カニハタ宮(三重県鈴鹿市)という。

54年秋9月15日、伊勢より纒向マキムク宮に居られた。

「播磨国風土記」に伝承を残す播磨稲日大郎姫(印南別嬢イナミノワキイラツメ)は、大帯彦天皇の后として確定していますが、

一方、景行天皇は大帯彦オシロワケ天皇といい、5世紀の「ワケ王朝」につながる名前を持っています。

八坂入姫は

八坂入彦-八坂入姫-五百木入彦

という「イリ王朝」の血統にいながら、


子供の五百木入彦の孫の
高城タカキ入姫と妹の仲姫ナカツヒメ、弟姫は応神天皇(ホムダワケ)に嫁ぎ、仲姫から仁徳天皇が生まれるという、ワケ王朝につながる重要な血統の始祖なのです。
この前の三太子の伝承も、五百木入彦の重要性を示しているとも言えます。

この事については、詳しい説明は応神天皇の項に譲りましょう。

さて、この後の東国経営の伝承について載せておきます。
これは毛野ケノ君の伝承だと思われますが、毛野氏がいた毛野国は後に
上つ毛野カミツケノと下つ毛野シモツケノに分かれ、
上つ毛野が上野コウヅケ国=群馬県
下つ毛野が下野シモツケ国=栃木県
となります。
(どうしてこんな読み方なのか不思議ですが、こういう由来です。)

「古事記」にない伝承ですが、北関東は日本武尊の征討範囲ではないとするこの伝承から、
やはり日本武尊の東征の本来の範囲は「古事記」のいうように

相模サガミ=神奈川県
武蔵ムサシ=東京都、埼玉県、神奈川県
上総カズサ(安房アワを含む)=千葉県南部
下総シモウサ=千葉県北部
常陸ヒタチ=茨城県
甲斐カイ=山梨県

といった南関東であったと思われます。

55年春2月5日、彦狹島ヒコサシマ王を東山道十五国の都督カミに着けた。これは豊城トヨキ命の孫である。
こうして春日の穴咋アナクイ邑に来て、病臥して薨去した。

このとき、東国の人民は、かの王の来られなかったことを悲しみ、秘かに王の遺体を盗み出して上野コウヅケ国に葬った。
56年秋8月、(天皇は)御諸ミモロワケ別王に、
「そなたの父、彦狭島王は、任地に行けずに早く亡くなった。それ故そなたが東国の専任となれ。」と詔した。

それで御諸別王は天皇の命令を受けて、父の仕事をしようと、すぐに行ってさっそく善政を行った。

その時に蝦夷エミシが騒いだので、兵を挙げて討った。そこに蝦夷の首領の足振辺アシフリベ、大羽振辺オオハフリベ、遠津闇男辺トオツクラオベらが降参しに来て、頭を下げて罪を認め、その領地をすべて献上した。よって降伏する者を許し、服属しない者は殺した。
こうして東国は久しく事なきを得て、その子孫は今も東国にいるのである。

これで大和朝廷の東国平定は成りました。

「古事記」はヤマトタケルに東西の征討を集約していますが、「日本書紀」は、
南九州→景行天皇
熊襲→日本武尊
南関東→日本武尊
北関東→御諸別王
と順を追って分担しています。

もちろん景行朝に九州から関東まで一気に平定したとは考えられませんが、5世紀頃にはだいたい九州から関東までが大和朝廷の勢力にはいっていたことが、
埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣と
熊本県の江田船山古墳出土の鉄剣の
それぞれに「ワカタケル大王」の銘が入っていたことで確認できます。

おそらく4世紀以降、何度も戦争や交渉が繰り返され、ようやく5世紀後半に統一が成ったと思われますから、
「日本書紀」のように複数の伝承がある方が、古い征討伝承を表しているように思います。

57年秋9月、坂手池(奈良県磯城郡田原本町)を造った。そして竹をその堤の上に植えた。

冬10月、諸国に命令して田部タベと屯倉ミヤケを設けた。

屯倉ミヤケは律令以前の天皇の直轄領で、そこで耕作をする領民(部民ベミン)を田部タベといいます。江戸時代でいうと天領とそこに住む百姓ということです。

古代では人頭税に見られるように、土地より「人を支配する」という概念が中心で、いわゆる伴造トモノミヤツコなどは軍事や手工業などの技能をもつ集団で、彼らの糧になる土地もありますが、人やその技能を所有するということになります。

鎌倉時代からは土地を持って、そこに技能集団を住まわせるということですから、ビミョーに違うのね(;^_^A

ところが律令制ができると、人頭税基本なので、税逃れのために税の負担が軽い女児と出生届を出したり、逃散チョウサンといって逃げちゃうんですね。

で、土地の方が逃げないので(❗)、領地の所有をもとにする封建制になります。
平安時代は律令制なので、「古代」に入りますが、

実際の経済制度は荘園制で、土地所有です。
そこには寄進地系荘園(自分の荘園を名義的に有力者に寄付して、替わりに不輸不入の権=免税と警察の拒否)
による主従関係も生まれているので、
宗教が支配している精神社会といい、もはや「中世」だという見方もあります。

兼家や道長の九条流は源頼光を家来(家司)にしていましたが、そういう関係なのですね。
(源頼光は道長にめちゃくちゃ貢いでます。)

58年春2月11日、(天皇は)近江国(滋賀県)にお出ましになり、志賀シガ(滋賀県大津市)の地に居られること三年、これを高穴穂タカアナホ宮という。
60年冬11月7日、天皇は高穴穂宮にて崩御された。時に御歳106歳であった。
 
なぜか景行天皇は滋賀県大津市の穴太アノウに都を遷します。
穴穂=穴太は、戦国時代がお好きな方はよくご存知でしょうが、石垣を作る職能集団「穴太衆アノウシュウ」のいるところです❗大津市の湖西の方になります。

余談ですが、穴太衆さんは粟田建設という会社に所属して、今もおられます。石垣を作りたい方はお電話しましょう
📞(*⌒∇⌒*)

高穴穂宮位置


で、
なぜかこの高穴穂宮は、そのまま成務天皇の宮となります。
昔は天皇一代ごとに宮を変えていたという古代の常識が崩れます(o゚Д゚ノ)ノ

しかも仲哀天皇も、遷都の記載はありません。
角鹿ツヌガの笥飯ケヒ宮(福井県敦賀市)
紀伊国徳勒津トコロツ宮(和歌山市)
穴門豊浦宮(山口県下関市)
筑紫橿日宮(福岡市)
はすべて行宮アングウ(仮宮)です。

ですから高穴穂宮は三代の都でした。

これについては
・天智天皇の大津京の突然感を薄めるために造作
・中国に倣って、恒久的な大都城の藤原京を作った持統天皇が、前例として造作
などの創作説や、
・三輪王権が亡命したという政権移動説、
・新しい王統説
などもありますが、いろんな先生が何年考えてもわかりません( ̄▽ ̄;)💦

このタラシ系三代はホントに分かりにくいです(((´。・д人)゙

ということで、最後は謎のままなのですが💦いちおう景行天皇について終わります。

次回は成務天皇ですが、わからない上に短いので、さらりと終わりましょう。

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