ご訪問ありがとうございます。
景行天皇の九州征伐も3回目で、行宮アングウ、カリミヤも福岡県大牟田市に移ります。
この辺りは征伐というより巡幸となって、地名起源説話ばかりになりますので
ささっと読んでしまいましょう。
秋7月4日、(天皇は)筑後チクゴ国の御木ミケ(福岡県三池郡、大牟田市付近)に到着し、高田タカタの行宮カリミヤにご滞在になった。
時に、倒れた樹木があった。長さ970丈=約2,930mであった。役人たちは皆、その樹木の上を通って往来した。
当時の人は
朝霜の 御木のさ小橋オバシ
群臣マエツキミ い渡らすも 御木のさ小橋
(朝霜の)枕詞 御木の小橋よ
群臣が渡る 御木の小橋よ
と歌った。
天皇は、
「これは何の木か?」と問われると、
一人の老人がいて、
「これは歴木クヌギと言い、昔まだ倒れていなかった頃は、朝日の光に当たっては、その影は杵島キシマ山を隠し、夕日の光に当たっては、影は阿蘇山を隠していました。」と申し上げた。
天皇は、
「この木は御神木である。それならこの国を御木ミケ国と呼びなさい。」とおっしゃった。
7日、八女県ヤメノアガタ(福岡県八女市付近)に到着された。
そこで藤山(福岡県久留米市藤山)を越え、南の方の粟崎アワノサキを眺められた。
(天皇は)
「その山の峯々は、幾重にも重なって麗しいことはこの上ない。もしや神が、その山におられるのだろうか?」とおっしゃられた。
その時、水沼県主ミヌマノアガタヌシ猿大海サルオオミが天皇に、
「女神がおられます。名を八女津媛ヤメツヒメと申し上げます。常に山の中におられます。」と申し上げた。
それで八女国の名はここから起こった。
八月、的邑イクハノムラ(福岡県うきは市)に到ってお食事をされた。
この日、食膳掛が盞ウキ=酒杯を忘れた。
それで当時の人は、その盞を忘れた所を名付けて浮羽うきはといった。今「的」というのは訛ったのである。
昔、筑紫の人々の方言で、盞ウキを浮羽ウキハといったのである。
19年秋9号月20日、天皇は日向ヒムカから大和にお帰りになった。
帰りは日向とありますが、またまた日向高屋宮へ帰って、大和へ帰還したわけではないでしょう。
筑紫の日向というところではないかと思います。
福岡県には八女市、糸島市、福岡市内に「日向」という場所があります。
天孫降臨の場所を「古事記」では
「韓国に直に向かひ」と言いますから、
ポリネシア系の神話が入る前の天孫降臨は、むしろ北部九州だという説があるので、その日向かもしれません。
ということで景行天皇の九州征伐なんですが、
「日本書紀」の話なんてどうせ天皇万歳だ、と思われているせいか、学術的な論争があるとは、あまり聞かないのです(^^;)
しかし、「日本書紀」的には
景行天皇→九州中南部
日本武尊→熊襲(九州南部の再叛乱)
仲哀天皇→九州北部
神功皇后→朝鮮半島
といちおう順序だてて、大和朝廷が西日本を制圧したと載ってます。
たぶんですが
もし「邪馬台国大和説」にしようと思えば、
倭(邪馬台国)は大和にあって3世紀には、伊都国だの奴国だのは傘下にはいっていたわけですから、
そこをいまさら征討っておかしくないか?というのは疑問として根底にあるわけです。
だから
ヤマトタケルがチャチャっと熊襲だけをやっつける方が、「大和説」の論者の先生方には都合がいいだけじゃなかろうか?
それで正史「日本書紀」の九州征伐への言及が少ないんじゃないか?
と思うんですが、どうでしょう?(^o^;)
それというのも、「古事記」のヤマトタケルの話が出来すぎなんですよね。
奈良時代以前にあんな悲劇的な美しい、発端と結末が結び付いている長編の物語が生まれるなんて、
平安時代の「源氏物語」なみの奇跡です。
私もヤマトタケルを追いかけているうちに、
この話を書いたのは、紫式部なみの天才かもしれないと思い、(それまでも指摘されていた)柿本人麻呂が「古事記」の作者説に到ったわけですが、
そうすると「古事記」のヤマトタケルの話が創作の可能性が高いということになって、
「日本書紀」を読むと、どうもこっちの方が作為のあとがはっきりしていて、原伝承が見えてくるような気がしたのです。
そうすると、「日本書紀」ももうちょっと真面目に読まないと(^^;)ということで
今、このシリーズを書いているのですが
この景行天皇の九州征伐と、次の仲哀天皇の九州征伐(実際は奥さんの神功皇后の功績w)を比べると、面白いことが見えてきたのです。
で、前にそれは書いたのですが、
今回、もう一度まとめておこうと思います。
え~💦( ̄▽ ̄;)毎回出してるこの地図ですが
景行天皇の征討コースを見ると、いわゆる「邪馬台国」の国々で、場所が特定されている「伊都国」や「奴国」には景行天皇は行かないのです。
それどころか、「邪馬台国九州説」の有力な邪馬台国所在地の博多湾岸にも後背は筑紫平野にも、行っていません。
ここは空白地帯です。
むしろこれは「邪馬台国の南にあった狗奴国」の討伐のようです。
ところが仲哀天皇の征討コースを見ると
神武天皇の出港した岡の水門ミナトもしかりですね。
これはどう考えても「邪馬台国征討」なのです。
では景行天皇と仲哀天皇の間の時代に何があったのかといいますと、
(この辺りの基本的な解釈は吉松大志さんの見解に沿っています。)
久住猛雄さんを中心とした九州考古学の成果では、
紀元前1世紀~紀元3世紀半ばの弥生時代後期、つまり漢の倭の奴国王や卑弥呼の時代は、
壱岐の原の辻遺跡と福岡県糸島市の三雲遺跡(伊都国の中心地と考えられている)が半島との交易拠点であり、
同じ糸島半島の博多湾側の今山・今宿遺跡(福岡市)からは山陰系の土器が多く出土するだけでなく、
出雲の山持遺跡からは、楽浪土器や三韓系の土器と共に北部九州の土器が多数出土しており、
伊都国を中心とする交易に山陰(出雲)の勢力も参加していたと考えられます。
それが卑弥呼の時代から古墳時代初頭の博多湾を拠点とする交易に移動すると、
山陰系の土器は博多湾の西新町遺跡ばかりか、壱岐や半島の伽耶地方でも出土するようになります。
けれども山陰以外の西日本の土器は壱岐や伽耶では僅少で、その交易は北部九州に依存していたと考えられるのです。
一方で同じ頃の纒向遺跡では、北部九州ばかりか瀬戸内海沿岸、北陸、東海、南関東の土器が出土しますが、
出雲の山持遺跡や鳥取市の青谷上寺地遺跡では丹後・但馬系土器、吉備系土器近江系土器なども出土し、
日本国内の交易は
※北部九州~瀬戸内海(吉備)~大和~東海・南関東もしくは北陸(越)
※山陰(出雲)~瀬戸内海(吉備)もしくは丹後・但馬~近江もしくは北陸(越)
という2系統のネットワークが成立していたことになります。
想像をたくましくすれば、当時の北部九州の連合国は、南の狗奴国との戦争に直面していたとはいえ、山陰の出雲王権も交易上の大いなるライバルであり、目の上のたんこぶだったのです。
さて卑弥呼の治世後半ごろから活発化する博多湾交易ですが、
その頃、日本海北岸にあった高句麗が朝鮮半島に拡大し、313年に魏と晋の統治下にあった帯方郡、次いで楽浪郡も高句麗が制圧します。
同時に馬韓地方(朝鮮半島南西部)も百済が統一し、倭は楽浪郡を通じて行っていた中国王朝との往来ができなくなります。
こういった半島情勢の変化は日本列島にも大きな変化をもたらし、
4世紀半ばには
※西新町遺跡をはじめとする福岡平野の大集落の衰退
※出雲の古志本郷遺跡(出雲フルネの本拠?)の衰退
※大和の纒向遺跡(三輪王権発祥の地?)の衰退、
などが起きます。
これがおそらく垂仁天皇~景行天皇の時代です。
ここからは想像ですが、
神武天皇(崇神天皇と同一人物?)が九州から纒向のミマキヒメに入婿して「ミマキイリヒコ」を名乗ったとすれば
そのバックにいたのは邪馬台国でしょう。
邪馬台国は交易で繋がっていた吉備と畿内の銅鐸政権を取り込み、4世紀前半には丹波経由で出雲攻略を行い、結果出雲は屈服させられます。(出雲フルネ討伐)
ところがその頃には博多湾貿易は徐々に行えなくなり、福岡平野では集落の衰退が目立ち始めると、当然狗奴国の勢いが増し、
邪馬台国自体が存亡の危機に立ったと思われます。
景行天皇の九州征伐は、実在した人物による遠征であったかはともかく、
大和の三輪王権が本家の邪馬台国の要請を受けて、狗奴国征伐を行った、それなり大遠征であったようにも思えます。
けれどもそれもつかの間で、
纒向遺跡もまた衰退の道をたどりました。
「日本書紀」では景行天皇の晩年から、
都は近江高穴穂宮(滋賀県大津市)に遷り、古墳群も奈良盆地北部の佐紀・盾列古墳群に中心が移ります。
ここで王権の質が、あるいは王統そのものが替わったのかもしれません。
もはや邪馬台国は大和朝廷にとって、守るべき本家ではなくなってしまい、
4世紀後半頃の仲哀天皇の九州征伐は、邪馬台国の本拠地を衝く戦いになったのです。
再び考古学の成果に目を戻すと、
4世紀後半には福岡県宗像市の沖ノ島において、大和政権のもとでの祭祀が始まり、畿内の大和政権が直接半島や大陸と交渉、交易を行うことが可能になったと見られます。
これが仲哀天皇の時期とぴったり重なってきます。
仲哀天皇は実在性が薄く、(なんせヤマトタケルの子供💦)
神功皇后は伝説的英雄なので、これも史実だと言いきれないのですが、大きな時代の流れは、「日本書紀」の流れと矛盾するものでもありません。
ですから、私は邪馬台国が北部九州にあったという方が、纒向にあったとするより、「日本書紀」との齟齬が少ないと思います。
纒向遺跡は本当に立派で、私も調べていて、やっぱり大和かもーーー⁉️と思った瞬間があるほどですが、
九州考古学の成果に鑑みると、
考古学と歴史書が矛盾しない方がやっぱりいいよね(*´・ω・`)bとなります。
ヤマトタケルの原伝承を考えるときに、「日本書紀」はたいへん役立ったので、
学会ももう少し「日本書紀」を信用してあげて!と思う次第です(^^;)
邪馬台国の滅亡については、また仲哀天皇の時に譲って、
次回からは日本武尊登場です。
ヤマトタケルに関しては詳しすぎる検証があるので、簡単にしようと思いますがw
またのご訪問をお待ちしております。