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今回から、景行天皇に入りました。

まずは本文を読んで行きましょう。


大足彦忍代別オオタラシヒコオシロワケ天皇は垂仁天皇の第三子である。


母は、丹波道主タンバノミチウシ王の娘の日葉洲媛ヒバスヒメ命である。
垂仁天皇の37年に皇太子となられた。
時に、年21であった。
(垂仁天皇)99年春2月、垂仁天皇は崩御された。

(景行天皇)元年秋7月11日、皇太子は皇位につかれた。よって世を改められた。
この年、太歳は辛未カノトヒツジにあった。

2年春3月3日、播磨稲日大郎姫ハリマノイナビノオオイラツメを皇后とされた。一アルに云わく(別伝)、稲日稚郎姫という。
后は二人の男子を生まれた。
第一を大碓オオウス皇子、第二を小碓オウス尊という。一書に云わく(別伝)、皇后は三人の皇子を生まれた。その第三子を稚倭根子皇子という。
その大碓皇子・小碓尊は、一日に同じ胞エナ(胎盤)に双生児としてお生まれになった。
天皇は不審に思い、碓=臼に向って叫ばれた。
そこでこの二人の皇子を名づけて、大碓・小碓と言う。

この小碓尊は亦マタの名を日本童男ヤマトオグナ。または日本武ヤマトタケル尊という。
幼い時から雄々しい気性があったが、
成年になると、容貌は溢れるばかりの逞しさであった。
身の丈は一丈=約3m、力は強く、鼎カナエ=祭礼用の大型青銅器を持ち上げられた。

ヤマトタケルの誕生です❣️
「古事記」にはありませんが、大碓皇子と小碓尊が双生児だと語られています。

これについて、かつて日本では、双生児を「畜生腹」と呼んで忌み嫌ったため、ヤマトタケルも父に疎まれて、安住の地を与えられなかったとする説がありますが、これはとんだ間違いです( ̄▽ ̄;)

まず、ヤマトタケルの悲劇を描く「古事記」に双生児であったという記述がありません。

逆に双生児だとする「日本書紀」では、
ヤマトタケルはめちゃくちゃ称えられていますし、天皇の妃を略奪した大碓皇子も、大甘な処分で終わっています。

「日本書紀」だけを見ると、景行天皇はこの二人が可愛かったように思えるのです。

また、「続日本紀」には、三つ子以上の多胎児が生まれたという報告があると、乳母を派遣した記録が散見します。
確かにミルクがない古代では、三つ子を育てるのは大変でしょうから、必要なことですが、忌み嫌ったりするよりむしろ優遇されているようです。

かつてそういう迷信があったことは否定しませんが、少なくとも古代から言われていた話ではないようです。

また、ここで気づくのは、
母の播磨稲日大郎姫の出自がないことです。ヤマトタケルを吉備系の説話とする説明も多々あるのですが、実は吉備系の要素は希薄で、後付けのように思われます。

「播磨国風土記」では大帯彦オオタラシヒコ天皇の相手役は「印南別嬢イナビノワキイラツメ」です。彼女は和迩ワニ氏の比古汝茅ヒコナムチと吉備比売キビヒメの娘で、吉備氏の出自ではありません。

以前に書いたのですが、崇神朝の四道将軍は、当時の同盟関係の地域の王で、婚姻などでも結び付いていると思われます。

しかしながら、それは史実というわけではなく、同盟関係を強調するものであって、実際に婚姻関係があったにせよ、
稲日大郎姫は吉備氏ではなく、
同様に御間城姫も大彦命の娘ではなく、纒向の姫であったと思います。

けれどもそれだけに印南別嬢は大帯彦天皇との結び付きが強く、稲日稚郎姫の別名をあげる「日本書紀」の方が、
イナビノ若郎女を別人にする「古事記」より、原史料に当たっていると考えられるのです。


3年春2月1日、(天皇は)紀伊キイ国(和歌山県)に行幸されて、諸々の天つ神、国つ神をお祀りしようとされたが、占ってみると吉と出なかった。
そこで行幸を中止された。

屋主忍男武雄心ヤヌシオシオタケオゴコロ命を遣わして祭らせた。あるに云わく(別伝)、武猪心タケイゴコロという。
武雄心命は阿備の柏原アビノカシワラ(和歌山県和歌山市)にいて、神祇を祀った。
そして九年住んだ。
(武雄心命は)紀直キノアタイの先祖である蒐道彦ウジヒコの娘、影媛カゲヒメを娶って、武内宿禰タケシウチノスクネを生ませた。


4年春2月11日、天皇は美濃ミノ(岐阜県南部)にお出ましになった。
側近の者が、
「この国に美しい女性がおります。弟媛オトヒメといい、容姿端麗です。八坂入彦ヤサカノイリビコ皇子の娘です。」と申し上げた。

天皇は自分の妃としたいと思い、弟媛の家に行かれた。
弟媛は天皇が来られたと聞いて、竹林に隠れた。
そこで天皇は弟媛を来させようと考えて、泳宮ククリノミヤ(岐阜県可児市久々利)に滞在された。鯉を池に放って、朝夕ご覧になって遊ばれた。

その頃、弟媛はその鯉の遊ぶのを見たいと思って、こっそりとやってきて池をご覧になった。
天皇はすぐに(弟媛を)引きとめて召された。
ここで弟媛は、
夫婦の道は、男女にとって古も今もそうなるべきものであるけれど
いろいろと問い質すこともできなくて困ると考えて、
そこで天皇にお願いして、
「私は性格的に、交接のことを望みません。今恐れ多い皇命には逆らえず、ひとときご寝室の中に召されましたが、心の中は喜びもありません。また、私の容姿も美しいと言えませんので、長く後宮にお仕えするはできないでしょう。

ただ私には姉がおります。名を八坂入媛ヤサカノイリビメといい、顔も良く志も貞潔です。どうぞ姉を後宮に召しいれて下さい。」と申し上げた。

天皇は承知して、八坂入媛を召して妃とされた。
媛は七男六女を生んだ。
第一を稚足彦ワカタラシヒコ天皇=成務セイム天皇という。
第二を五百城入彦イオキイリビコ皇子という。
第三を忍之別オシノワケ皇子という。
第四を稚倭根子ワカヤマトネコ皇子という。
第五を大酢別オオスワケ皇子という。
第六を淳熨斗ヌノシ皇女という。
第七を淳名城ヌナキ皇女という。
第八を五百城入姫イオキイリビメ皇女という。
第九を籠依姫カゴヨリヒメ皇女という。
第十を五十狭城入彦イサキイリビコ皇子という。
第十一を吉備兄彦キビノエヒコ皇子という。
第十二を高城入姫タカキイリビメ皇女という。
第十三を弟姫オトヒメ皇女という。

この八坂入媛は稲日大郎姫の崩御後に皇后になり、稚足彦は成務天皇になります。

また、妃である三尾氏の磐城別イワキワケの妹の水歯郎媛ミズハノイラツメは、
五百野イオノ皇女を生んだ。

継体天皇やヤマトタケルの「一妻系譜」に関連して出てくる「上宮記逸文」の「一云系譜」では、継体天皇の母の振媛の家系(三尾君氏)について

伊久牟尼利比古大王 生兒伊波都久和希 兒伊波智和希 兒伊波己里和氣

とあり、伊波智和希イハチワケが磐城別を指すと思われます。

以下は皇子の羅列ですので、すっ飛ばして大丈夫です。次の黒字まで進んでください(^^)

次の妃、五十河イカワ媛は、神櫛カムクシ皇子と稲背入彦イナセイリヒコ皇子を生んだ。
兄の神櫛皇子は、讃岐国造サヌキノクニノミヤツコ(香川県)の先祖である。
弟の稲背入彦皇子は播磨別ハリマワケの先祖である。

次の妃、阿倍氏の木事コゴトの娘の高田タカタ媛は、武国凝別タケクニコリワケ皇子を生んだ。
これは伊予国(愛媛県)御村別ミムラワケの先祖である。

次の妃、日向髪長大田根ヒムカノカムナガノオオタタネは、日向襲津彦ヒムカノソツビコ皇子を生んだ。
これは阿牟アム君の先祖である。

次の妃、襲武媛ソノタケは国乳別クニチワケ皇子と国背別クニソワケ皇子と豊戸別トヨトワケ皇子を生んだ。
兄の国乳別皇子は水沼別ミヌマノワケの先祖である。
弟の豊戸別皇子は火国別ヒノクニノワケの先祖である。

天皇の男女は全部で八十人おられる。
日本武尊ヤマトタケルノミコトと稚足彦ワカタラシヒコ天皇=成務天皇と、五百城入彦イオキイリビコ皇子とを除いた、他の七十余人の皇子は、
全てそれぞれ国や郡コオリに封せられて、各々その国に行かせた。
そのため、現在の諸国の別ワケという姓の氏族は、別王ワケノミコの子孫である。

80人も子が⁉️(o゚Д゚ノ)ノ
というのは、たぶん各氏の始祖伝承を景行天皇に集約したためと思われますが、

大足彦(大帯彦)というのは、天皇を表す普通名詞のように見えます。

第6代孝安天皇、第12代景行天皇、第13代成務天皇、第14代仲哀天皇、第34代舒明天皇、第35、37代皇極・斉明天皇にタラシがついています。

ここの景行天皇、成務天皇、仲哀天皇に固まっているので、これを「タラシ」王朝という人もいますが、

単に「偉大なる王」という意味の伝説的な大王と見るのもありかと(^^;)

ただこの三天皇がかなり異質な天皇群であるのは事実で、架空の天皇という見方も捨てきれません💧


この月に天皇は、美濃ミノ(岐阜県)の国造で名は神骨カムボネという者の女で、姉は兄遠子エトオコ、妹は弟遠子オトトオコというのが、共に美人であると聞かれて、大碓命を遣わされて、その女の容姿を見させられた。
そのとき大碓命は、こっそりと女と通じて復命されなかった。
それで天皇は大碓命をお恨みになった。

大碓皇子は罰せられるわけでもなく、この後美濃の豪族の祖神となります。
もともとヤマトタケルの原型のひとつである「大碓・小碓伝承」は美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)の境にある伊吹山をはさむ地域で伝えられてきた伝承でした。

ですから、この話が、もともと景行天皇と大碓皇子の話かどうかは、わかりません。

なお、「古事記」にある小碓命の大碓命
殺しの話はありません。


冬11月1日、天皇は美濃からお帰りになった。
そしてまた纏向マキムクに都を造られた。
これを日代宮ヒシロノミヤという。

「纒向日代宮」は、「古事記」の雄略天皇のところに寿ぎ歌に出てきますが、
雄略天皇の宮は泊瀬朝倉宮なので、ここは伝承されていた歌を流用したと思えます。立派なことで有名だったのなら、纒向遺跡の大型建物などを指しているのかもしれません。

纒向遺跡の大型建物
纒向考古学通信(桜井市)より


後述するように景行天皇の事績自体を否定もできないので、伝説的な大王に、いろいろな伝承をくっつけていると思うのが無難でしょう。

今回は皇子の羅列でしたが、次回からは実際の歴史と連動して、景行天皇を見ていきます。

またのご訪問をお待ちしております。