ご訪問ありがとうございます。


いよいよ垂仁天皇も終わりに近づいてきました。



30年春正月6日、天皇は五十瓊敷イニシキ命・大足彦オオタラシヒコ尊に

「そなたたちは、おのおの願い事を言うがよい。」とおっしゃった。

兄の皇子は

「弓矢を得たいと思います。」と答え、

弟の皇子は

「皇位を得たいと思います。」と答えた。

そこで、天皇は「おのおの望んだままにしなさい。」と仰せになって、

まず弓矢を五十瓊敷命に賜り、

そして大足彦尊には「そなたが必ず私の皇位を継ぎなさい。」とおっしゃった。


え⁉️言うたもん勝ちなんやw


この後出てきますが、五十瓊敷命は石上イソノカミ神宮(奈良県天理市)の神宝を管理させます。

実は「神宮」と出るのは石上神宮がいちばん古く、伊勢神宮は「神宮」と呼ばれていません。


後に物部氏の管掌となりますが、本来は皇室の兵器庫でもあり、神宝の管理も行われていた場所なのです。


とすると、やはり三輪王権は、

天皇=皇后と

祭祀を担う皇女=皇子

の二重構造になっていたように思えます。


32年秋7月6日、皇后の日葉酢媛ヒバスヒメ命あるに云わく(別伝)、日葉酢根ヒバスネ命が薨御された。葬るまで日があり、天皇は群卿に詔して

「殉死の道については、前にやるべきではないと知った。

今回の葬送については、どうしたらよいだろう?」とおっしゃった。

この時、野見宿禰ノミノスクネが進み出て

「君王の陵墓に、人を立てて埋めるのはよくありません。どうしてこんなことを後世に伝えていけるでしょう?願わくは、今はまさによい方法を考えてご報告いたしましょう。」と申し上げた。


そしてすぐに使者を遣わし、出雲国の土部ハジベ100人を呼び寄せて、自ら土部たちを指導して、土を使って人・馬及び種々の物の形を作って、天皇に献上して

「今より以後は、この土製品を生きた人間に替えて、陵墓に立てて、後世に伝える法則としましょう。」と申し上げた。


天皇は、この事を大いに喜ばれ、野見宿禰に

「そなたのアイデアは、まことに私の心に叶っている。」

そしてその土製品を、初めて日葉酢媛命の墓に立てた。そしてこの土製品を埴輪ハニワと名付けた。亦の名は立物タテモノという。そして

「今より以後は、陵墓には必ずこの土製品を立てて、人をあやめてはならない。」と命じられた。

天皇は、厚く野見宿禰の功績を賞し、鍛冶の地を賜り、そこで土部の頭領に任じ、元の氏族の名を改めて土部臣ハジベノオミとした。これが土部連らが、天皇の喪葬を管掌することになった由来である。この野見宿禰は、土部連らの始祖である。


埴輪の起源は特殊器台なのですが、ここでは形象埴輪について語られています。

ですから、考古学との一致はないのですが、三輪王権が大和朝廷として新たな儀礼を生み出して行く過程というか、


出雲などの儀礼も受け入れていくことを示しているのかもしれませんね。


34年春3月2日、天皇は山城ヤマシロ=京都府南部にお出ましになった。

その時、お側仕えの人が

「この国に美人がおります。綺戸辺カニハタトベといい、姿かたちも麗しく、山城大国不遅オオクニノフチの娘です。」と申し上げた。

天皇はそこで矛をとってこれに祈ウケイをされて、

「その美人に会ったら、必ず道路に瑞兆があるように。」と仰せになった。


行宮カリミヤにお着きになる頃に、大亀が河の中から出てきた。

天皇は矛を挙げて亀を刺された。

亀は、たちまち石になった。

お傍の人に、

「この事によって推測すると、必ず瑞兆であるだろう。」とおっしゃった。


こうして綺戸辺をお召しになって後宮に入れられた。

(綺戸辺は)磐衝別イワツクワケ命を生んだ。

これは三尾君ミオノキミ(滋賀県高島市)の先祖である。


イワツクワケは継体天皇の母、振媛フリヒメの先祖で、

ヤマトタケルの正妃両道入姫フタジノイリビメ命の同母兄のはずなのですが、両道入姫命の名が見えません。


ヤマトタケルの系譜を継体天皇に結びつけるために、誰かがもともとの妃のフタジヒメからフタジノイリビメを分化させた、という論拠になるところですね。


これより先に、山城の莉幡戸辺カリハタトベを召された。

三人の男子を生んだ。

第一を、祖別オオジワケ命という。

第二を、五十日足彦イカタラシヒコ命という。

第三を、胆武別イタケルワケ命という。

五十日足彦命は、石田君の始祖である。


京都府の南端に木津川市山城町綺田カバタという地名があります。蟹満寺という有名なお寺があり、神功皇后の祖父カニメイカヅチ王とも関係のある地名かといわれていますが、綺戸辺はここの出身かと思われますが、「古事記」ではオトカリハタトベなので、苅幡戸辺も同じ土地の出身でしょう。


この付近には息長山普賢寺もあり、カニメイカヅチ王の子は息長オキナガ宿禰王、その子が神功皇后(息長足オキナガタラシ姫尊)なので、息長氏と関係深いとされる継体天皇の母のご先祖が綺戸辺というのも気になります。


35年秋9月、五十瓊敷イニシキ命を河内国=大阪府南部に遣わして、高石池(大阪府高石市)、茅淳チヌ池(大阪府泉佐野市日根野)を造らせた。

冬10月に大和の狭城池(奈良市佐紀)と迹見トミ池(奈良県大和郡山市)を造った。

この年、諸国に命令して、池や溝を沢山開削させた。その数は八百に上った。

農業を中心とし、これによって国民は富んで豊かになり、天下太平となった。


37年春1月1日、大足彦命を立てて皇太子とされた。


ここは重農主義というか、きちんとした政策のもとで国が発展するという話で、

これまでとは印象が変わりますね。


だんだん人の世になってきました。

日葉酢姫陵からは池を作ったという「佐紀盾列古墳群」(奈良市北部)にだんだん御陵が移ります。垂仁天皇はそこより少し南の唐招提寺の近くですが、


奈良盆地の東南部の三輪王権に関わりのある纏向古墳群や、天理市南部から桜井市にかけての大和・柳本古墳群のあと、

4世紀後半から5世紀前半の巨大前方後円墳が集中するのが、「佐紀盾列古墳群」なのです。


もはや奈良盆地だけでなく、近畿一円、あるいは出雲や東海地方に進出する力を持つ王権へ、変容していったのでしょう。


とすると、崇神天皇、垂仁天皇の2代ではとても無理な話で、何代かの三輪王権の王の功績が、凝縮されているようにも思えます。


39年冬10月、五十瓊敷命は菟砥川上宮ウトノカワカミノミヤ(大阪府阪南市の菟砥川流域)におられて、剣一千ロを作った。

よってその剣を名付けて川上部カワカミノトモという。

またの名を裸伴アカハダカともという。

これを石上イソノカミ神宮に納めた。

この後に五十瓊敷命に仰せられて、石上神宮いの神宝を司らせた。


ここは前出の五十瓊敷命の役目ですが、

高石池、茅淳池など今の泉州地域に縁の深い皇子で、お墓も岬町にあります。

土着の勢力なのか、ここへ領地をもらって封じられたかは、難しいところです。


あるに云わく(別伝)、五十瓊敷皇子は、茅淳の菟砥の河上におられて、鍛冶師の名は河上という者をお呼びになり、太刀一千ロを作らせた。

この時に、楯部タテベ、倭文部シトリベ、神弓削部カムユゲベ、神矢作部カムヤハギベ、大穴磯部オオアナシベ、泊衝部ハツカシベ、玉作部タマスリベ、神刑部カムオサカベ、日置部ヒオキベ、太刀佩部タチハキベなど、合わせて十種の品部トモノミヤツコを五十瓊敷皇子に賜った。

その一千ロの太刀を忍坂邑オサカノムラに納めた。

その後、忍坂から移して石上神宮に納めた。この時に神が、

「春日臣の一族で、名は市河という者に管理させよ。」と言われた。

よって、市河に命令して管理させた。

これが今のの物部首オビトの始祖である。


87年春2月5日、五十瓊敷命が妹の大中姫オオナカツヒメに、

「私は老いて、神宝を司ることができない。今後はそなたが必ずやりなさい。」

と言われた。

大中姫は辞退し、

「私はか弱い女です。どうして天の神庫ホクラに登れましょうか?」と申し上げた。

五十瓊敷命は、

「神庫が高いといっても、私が梯子を造ろう。庫に登るのが難しいことはないだろう。」と言われた。

諺に「天の神庫は樹梯ハシタテのままに」というのは、これがその由来である。


こうして最終的に大中姫命は、物部十千根トオチネ大連に神庫の管理の役目を授けて治めさせられた。

物部連が今に至るまで、石上 の神宝を治めているのは、これがもとなのである。


物部氏はニギハヤヒの子孫ですから、もともとは生駒イコマ山(大阪府と奈良県の境)の周り、つまり大阪府東部と奈良県北西部のあたりにいたはずで、

このときから石上神宮に奉祀するのですが、「日本書紀」で最古の神宮とされているだけあって、ここは物部氏の氏神ではなく、朝廷の神宝を収めていたようです。


現に倭の王に百済から贈られたと「日本書紀」に記録が残っている「七支刀」が出土しています。


昔、丹波タニワ国の桑田村に、名を甕襲ミカソという人がいた。

甕襲の家に犬がいた。名を足往アユキという。この犬は、山の獣シシで名前をムジナという獣を食い殺した。

すると獣の腹に八尺瓊ヤサカニの勾玉マガタマが見つかった。そこで(甕襲は)それを献上した。この宝は、今は石上神宮にある。


日本最古のワンコの名前はアユキでした。よく歩いたんでしょうね🐕️


この後は天日槍アメノヒボコの後日談で、曾孫の清彦が神宝を献上した話になります。これは前に書いたので、飛ばしますね。


次はこの清彦の子、タジマモリの話です。


90年春2月1日、天皇は田道間守タジマモリに命じて、常世トコヨ国に遣わして、「非時の香果トキジクノカグノミ」を求めさせた。

今、橘タチバナというのはこれである。



99年秋7月1日に、天皇は纏向マキムク宮で崩御された。

時に、年140歳であった。

冬12月10日、菅原伏見スガワラノフシミ陵に葬った。


翌年の春3月12日、田道間守は常世国から帰り至った。

その時に持ち帰ったものは、非時の香果を刺したもの八竿ヤホコ、(縄で)繋いだもの八縵ヤカゲである。


(天皇が亡くなったのを知って)田道間守は泣き嘆いて言った。

「宮廷でご命令を承って、遠く遥かな国にでかけ、万里の波を越えて遠くの河を渡ってきました。この常世国は、神仙のいる隠された国で、俗人の行ける所ではありませんでした。そのために、行くだけでも十年が経ちました。一人で高い波をくぐって、この国に戻ってこれるとは、思うことができないことでした。

けれども、聖帝のご神霊に頼り、ようやく帰ることができました。

今、天皇は既に亡くなられて、復命することはできません。私は生きていても何のためになりましょうか?」と言った。

そして天皇の御陵に向かって、泣き叫んで自ら死んだ。

群臣はこれを聞いて、みな涙を流した( ω-、)

田道間守は、三宅ミヤケ連の先祖である。


串に刺したり、縄で繋いだものということは、保存のために干したものだったのでしょう。


静岡県立大学のHPで、第7代学長の尾池和夫さんが執筆された「薬草園歳時記」が載っていますが、それによると


柑橘の原種は3000万年前のインド東北部のアッサム地方近辺を発祥地とし、様々な種に分化しながらミャンマー、タイ、中国などへ広まったとされる。日本の文献で最初に柑橘が登場するのは『古事記』『日本書紀』であり、垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされた田道間守が、非時香菓(ときじくのかくのこのみ)の実と枝を持ち帰ったとある。非時香菓とは今の橘であるとの記述があるが、この「橘」はタチバナであるともダイダイであるとも小ミカン(キシュウミカン)であるとも言われている。


ということです。橘というのは厳密には日本固有種なので、タジマモリは東南アジアや中国南部にでかけたのかもしれませんね。


往時は柑橘類は薬草や、高級な菓子の扱いでしたから、このためタジマモリは和菓子の神様になってしまいます。

「橘屋」というお菓子屋さんは、タジマモリにちなんだ名前です。


奈良市尼ヶ辻の垂仁天皇陵の濠の中の小島とされている。Wikipediaより

次は「景行天皇」になります。

後半は日本武尊の話ですが、卑弥呼の末裔では?という女王も登場!


続けてお楽しみくださいませ。