ご訪問ありがとうございます。


さて、倭彦命については終わりましたが、

彼が倭姫命とともに歩んだのではないかと考えられる「倭姫巡幸」のコースにはどのような意味があるのでしょうか?




ここでもう一度「倭姫巡幸」の範囲を見ていきますと、尾張には一宮市より先には入って行かないことがわかります。


これはこのシリーズの「倭姫考」でもお話ししたのですが
「画文帯神獣鏡」という鏡があり、


これが考古学の福永伸哉さんによると


尾張・三河(愛知県)を中心とした三遠式銅鐸の地域に入っていかなくて、また三角縁神獣鏡の古い形でも同じだといわれるのです。


福永さんは邪馬台国=大和説で、ここが狗奴国だといわれるのですが、


そこは置いときまして(;^_^A


考古学的な事実にのみで考えますと、

三遠式銅鐸圏には「鏡=卑弥呼の祭器」が入らない

というのは揺るぎない事実です(^^;)


だから、「倭姫巡幸」は「尾張中嶋宮」という入り口で止まってしまうのではないでしょうか。

そこから先の王たちは、倭姫命に服属してくれなかった、ということでしょう。


そうすると倭彦の故地をたどるヤマトタケルは、決して熱田にあるミヤズヒメの家には行けないので、


それはおかしいよなあと思った「日本書紀」編纂局のお役人さんは

「宮簀ミヤス媛が家に入らずして」という文章をついつい書いてしまったφ(..)💦

のではないか?と考えられます。


さて近藤喬一さんのご指摘によると

三遠式銅鐸圏は三重県鈴鹿山系を境界として、近畿式銅鐸と接しているようです。


鳥取県Webサイト第67回県史だよりから転載

まさにヤマトタケルが醒井から歩んでいくコースと

この銅鐸の境界線が重なっているのですが、

それはまた「倭姫巡幸」の地もその隣接する地域でもあるということでしょう。


鈴鹿山脈の周り、近畿式と三遠式の境界線を移動

前に崇神天皇の時代に行われたという「四道将軍」(大彦命、武淳川別命、日子坐王、大吉備津彦命)の征討が、

実は婚姻による融和政策であった可能性を述べましたが、


大彦命、武淳川別命は10崇神天皇の義父、義兄

日子坐王は11垂仁天皇の義父&義祖父

大吉備津彦命は12景行天皇の義父


そのひとり大彦命は伊賀一之宮敢国アヘクニ神社の祭神です。上の地図の「柘植」ツムエ(三重県伊賀市柘植ツゲ)のところです。


もし吉備や丹波が出雲攻略の足がかりにするための同盟ということならば、

伊賀から伊勢の旧東海道周辺は、三輪王権にとっては東海地方攻略の足がかりのために同盟し、その後宗教革命を進めて征服していった土地なのかもしれません。


また、丹後天橋立の籠コノ神社(丹後国一之宮)は、トヨスキイリヒメの時に天照大神が遷移した元伊勢第1号で、

近畿地方では珍しい三遠式銅鐸がこの辺りで出土しています。


一方、籠神社には三輪王権から贈られた可能性のある前漢鏡、後漢鏡が伝世しており、

ここの奥宮から伊勢神宮の外宮の豊受大神が遷座されていますが、

じつは外宮祭主の度会ワタライ氏が、丹波国造で籠神社の祭主の海部アマベ氏の分家なのです。


海部氏は天孫系ということになっていて、そこが今の出雲国造家と似ています。出雲国造はもともとは出雲東部の松江市のあたりにいた「意宇オウ宿禰」の子孫で、国譲りの後のいわゆる出雲大社(杵築大社)の祭祀を高天原から命じられた氏族で、天穂日命を祖とする天孫系です。

天穂日命がもともと出雲へ国譲りの交渉のために遣わされた神様であることを考えると、


わたしは丹後の南にいた海部氏も、丹波地域の侵略の足がかりに、最初に三輪王権に服属したと思うのですが、

(意宇地方と同様に、籠神社のある与謝郡には丹後最古の前方後円墳があります。)


三遠式銅鐸が出土した場所から、外宮の豊受大神を伊勢に迎えたという伝承を踏まえると、三遠式銅鐸圏の東海地方にも顔がきいたので、そちらへの侵略に付き従ったのかもしれません。


なぜ丹後の一地方神が、伊勢神宮の下宮として祀られるのか?は大きな謎ですが、

案外三遠式銅鐸との関係から考えるのもアリかもしれません。


最後に、これは野洲市の銅鐸博物館のサイトから転載した説明ですが、近畿式銅鐸とか三遠式銅鐸とか何なん?と思われた方のために簡単な説明をのせておきます。(読みやすいように段落付けしました。)


9.近畿式銅鐸と三遠式銅鐸

弥生時代後期になるとそれまで畿内を中心に生産されていたいくつかの銅鐸製作集団が統合されて、より大きく装飾的な銅鐸が生み出されます。「近畿式銅鐸」と「三遠式(さんえんしき)銅鐸」の登場です。

近畿式銅鐸は、鈕の頂に双頭渦紋(そうとうかもん)をつけ、身の区画帯を斜格子紋で飾ることなどを特徴とし、近畿地方を中心に畿内の周辺部と紀伊西部、近江、伊勢、尾張、三河、遠江などに分布します。

三遠式銅鐸は、鈕の頂に飾耳がなく、身の横帯には綾杉紋を採用することなどを特徴とし、近畿式銅鐸にやや遅れて成立し、三河、遠江を中心に限られた範囲に分布します。

これらの銅鐸が複数出土したものをみると野洲市大岩山銅鐸を除いて、
近畿式は近畿式で、三遠式は三遠式で出土しています。
同じ銅鐸を用いながらも、近畿地方と東海地方ではやや異なった銅鐸を使用しており、それらを近畿、東海勢力の政治的しくみと対立などと解釈する考えもあります。しかし三遠式銅鐸に絵画銅鐸が残り、内面突帯に摩滅痕跡が認められることなどから、
三遠式銅鐸は古い銅鐸祭祀を継承するものだと考えられ、近畿式銅鐸は畿内が先導する新たな宗教的・政治的な祭器だと考えられます。

弥生時代中期まで、銅鐸を鋳造していた畿内からは、弥生時代後期の大形銅鐸の出土例が極めて少なく、畿内中枢では銅鐸祭祀から、いち早く銅鏡など用いた新たな祭祀へと移行したようです。
その一方で、畿内は近畿式銅鐸を用いて、東海地方など周辺地域との政治的連携を模索したようで、三遠式銅鐸が使用していた東海地方では遅れて近畿式銅鐸が入り込んできます。

三輪王権が「鏡の祭祀」を始める頃、古い銅鐸奉祀者の中には、三遠式銅鐸の地域に移動した者もいたでしょう。

例えば葛城の高尾張にいた尾張氏は、名古屋市に移動しています。

ニギハヤヒを奉祭する物部氏の一部も、その同族の穂積氏も東海に広がっています。
彼らは近畿式銅鐸とともに、三遠式銅鐸の地域に逃げたのではないでしょうか?

倭彦命と「倭姫巡幸」はこれで終わり、
次回は垂仁天皇のエピソードをまとめて読みましょう。

埴輪の起源と和菓子の始祖のお話です。

またのご訪問をお待ちしております。