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さて、この前の続きになりますが、


以前の「続ヤマトタケル 倭彦考」の中で述べた、

倭彦命がヤマトタケルのモデルの一人ではないかという推論をもう一度あげておこうと思います。


実はヤマトタケルには、
伊吹山の遭難の後、伊吹山で白鳥に変じた、
あるいは滋賀県側に下りて、そこで白鳥になった伝承が残っています。

それも神社の社伝といった口伝えのものではなく、
ひとつは藤原仲麻呂=恵美押勝が編纂した「家伝」の「武智麿伝」で、

お父さんの武智麻呂のことを伝記にしているのですが


その中に武智麻呂が近江守(滋賀県知事)だった時(712~)に

坂田郡(米原市や長浜市南部)で土地の人が伊福山(伊吹山)について語ったとして


「昔倭武皇子。調伏東國麁悪鬼神。帰到此界。仍即登也。登欲半。爲神所害。變爲白鳥。飛空而去也。」(昔、ヤマトタケルの皇子が、東国の荒々しい悪い鬼神を征伐され、この界隈に帰ってこられて、すぐに伊吹山に登った。上る途中で神によって害を受け、白鳥になって、空を飛んで去った)


と書かれています。712年とすれば、「古事記」成立の年で、全くの同時代史料と言えます。

そこにはヤマトタケルが伊吹山で白鳥になったと、案内をした在地の豪族がいっているのです。


また中世の成立ですが、

「平家物語 剣の巻」でも伊吹山の遭難の後、ヤマトタケルは伊吹山→醒ヶ井→千の松原と移動し、そこで亡くなります。

千の松原は琵琶湖湖畔だと思われます。


ヤマトタケルの後裔になる犬上氏のいた犬上郡は、今の彦根市ですが、

センバツにも出た近江高校の住所が「彦根市松原」で、この辺りにはかつて松原内湖があったので、千の松原もこの辺りかと思われます。


また、米原市の磯崎神社にヤマトタケルの御陵が伝えられています。


それなのに「古事記」「日本書紀」では、ヤマトタケルはなぜ、伊勢方面を廻って帰ることになったのでしょう。

そこで浮上するのが、ここの道程と重なっている倭姫巡幸のコースです。

ここでヤマトタケルと重なる部分を見てみましょう。




すると、「古事記」のルートから離れて

愛知県一宮市に「尾張中嶋宮」が見えます。(地図の右端の方です。)


ところが「日本書紀」には、

居醒泉イサメガイ(醒ヶ井)を発った日本武尊は、病身になり尾張に帰りますが、
「宮簀ミヤス媛が家に入らずして」
伊勢に移って尾津に到ります。

「日本書紀」では用もないのに尾張に行っているのです。

ということは、ほぼヤマトタケルの帰還コースは「倭姫巡幸」と重なります。

しかも、「古事記」のヤマトタケルの地名起源伝承(当芸野、三重村、杖衝坂)は、すべて「倭姫巡幸」のコース上にあります。

守谷俊彦氏は「倭姫巡幸」について、
八咫鏡を奉じながら各地を回り、そこの豪族(王)に天照大神の信仰と経済的基盤の神戸カンベの献上を促しているのは、
宗教的な意味合いだけでなく、軍事侵攻を伴うものだと考えるべきであり、

むしろ崇神天皇の子の、倭彦命と千々衝倭姫命のペアに原型を求めるべきでは、ところが示唆され、
黒田達也氏も、倭彦命と千々衝倭姫命の方が本来的だと指摘されました。

そこで、わたしも
「倭姫巡幸」のコースを一緒に進んだ将軍がいて、それがヤマトタケルの原型のひとりで、
それが殉葬まで行われたのに事績の残っていない倭彦命だという解釈が、成り立つと考えるようになったのです。

ところで先ほど述べたように、「古事記」「日本書紀」においては、
倭彦命の姉妹は千々衝倭姫命であって、倭彦命と斎宮倭姫命とは兄弟ではありません。

崇神天皇と皇后御間城姫の子
①活目入彦五十狹茅天皇
②彦五十狹茅命
③国方姫命
④千々衝倭姫命
⑤倭彦命
⑥五十日鶴彦命

「千々衝チヂツク」というのは「神威が強い」という意味でしょう。このような名がつくこと自体、この皇女が実は力のある巫女だということを表しています。この人が斎宮であっても良さそうな気がするお名前です。

では、なぜ千々衝倭姫命は、垂仁皇女の斎宮倭姫命と入れ替わってしまったのでしょう?

斎宮倭姫命は「古事記」「日本書紀」では垂仁天皇の皇女で、母は皇后ヒバスヒメ、同母の兄に景行天皇がいます。

ただ「古事記」を見ると、
景行天皇の条の倭建命の系譜(いわゆる「一妻系譜」)には、

景行天皇が倭建命の曾孫を娶っていて、
本来のヤマトタケルは景行天皇の3代前にいたことが推定されます。

一方、景行天皇の系譜には
皇子の小碓命の別名としてはヤマトヲグナのみがあげられていて、倭建命の名称はありません。

倭建命はやはり景行天皇の子の小碓命ではなく、景行天皇の三代前にいたと推定できます。

これが実はもともとの倭彦命であり、同世代の本来の倭姫命とこの世代にいたものが、

ヤマトタケルの物語の完成期に、
ヤマトヲグナの小母ヲバ(神を育てる巫女)であったヤマトヒメを、
ヤマトヲグナ=小碓命の叔母ヲバと解釈して、景行天皇の妹に配置したために、

同名の斎宮倭姫命(本当は千々衝倭姫命)の方が、景行天皇の妹となってしまった可能性もあります。

もともと、どれだけ正確に残っていたかもわからない皇統譜において、作為の状況把握は困難なのですが、

本来の斎宮である千々衝倭姫命と倭彦命は、ともに「鏡の信仰」をひろげた功労者でありながら、

倭彦命の伝承は倭建命に吸収され、
千々衝倭姫命も、ヤマトヲグナの小母ヤマトヒメに姿を変えて、景行天皇の妹に造形されてしまったように考えられるのです。

面白いことにヤマトタケルには、「后」(「古事記」)「崩」「陵」といった天皇にのみ使われる言葉が使われ、「常陸国風土記」では、「倭武天皇」と表現されます。

吉井巌さんは、景行天皇の三代前に設定されていた倭建命は「天皇」であったとされます。

わたしは吉井さんの指摘にしたがって、
西征の主人公小碓命=ヤマトヲグナがもともと景行天皇の皇子で、

東征の関東の部分は、
タチバナ媛とペアのタケル王に、
伊吹山下山後の部分の倭彦命の伝承が加えられて、
景行天皇の三代前に「天皇」として語られた時期があったとしました。

実は「后」「崩」「陵」の言葉は東征でのみ使われているのです。

そして東征の部分の原伝承と思われる倭彦命にも、「陵」の字が使われます。

葬倭彥命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於域、


やはり倭彦命の伝承が、ヤマトタケル伝承に加えられ、それはいつの時代かに天皇として扱われていたのだと思います。



さて、殉死という風習、とくに乃木大将のような後追いの自殺ではなく、近習者が墓の周囲に埋められるというものは、「魏志倭人伝」に記録されています。

卑弥呼の死に際して、殉葬が行われます。


卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人

卑弥呼以って死す 大いに塚を作る (直)徑百餘歩(140m?30m説も) 殉葬する者奴婢百餘人


記録として残るのはこのふたつですから、三輪王権と邪馬台国には何らかの共通点があります。


そうすると、倭彦命が倭姫命と「鏡の信仰」を推し進めたことも、

魏の皇帝をして、銅鏡を「汝の好物」といわしめた卑弥呼の宗教とも絡んできます。


他にも巫女王とともに兄弟がいるかたち、つまり姫彦制も邪馬台国と似ていますが、邪馬台国と三輪王権は、他にもみられる姫彦制と違う、聖俗が分離したかたちと考えられるのです。


其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者

倭国には元々は男王がいたが、70-80年くらい男王の時代が続いた間は戦乱があり毎年のようにお互いに攻撃していたので、一人の女子を共立し王とした。名を卑弥呼といい、女王は鬼道を使い、能く人心を掌握し、既に高齢で、夫は持たず、弟が政治を補佐した。(訳Wikipediaより)


邪馬台国には卑弥呼と弟というペアの他にも伊都国王がいます。

魏から見ると冊封体制下の国に、魏が認めている邪馬台国の「親魏倭王」以外に「王」がいるとするのは不思議ですが、

「漢倭奴国王」が継続している解釈でしょうか?その辺は言及しておられる説に会っていないので何とも言えないのですが、

倭彦考でご紹介した新説を再掲しておきますね。


Wikipediaより



まず「漢倭奴国王」は、「親魏倭王」と比べるとわかりますが、


宗主国(中国王朝)+地域名+王 というかたちと異なって


宗主国+地域名+自称国名+王 になっています。

これが形式的におかしいという指摘は、偽造説の論拠なのですが、

(この形式なら卑弥呼は「親魏倭邪馬台国王」になってしまう)


それを解消するには

「漢の倭奴国の王」と読まなければなりません。「倭奴国」を伊都国とするといけるのですが、それだと

宗主国+自称国名+王 になってしまい、

中国王朝の名付けた地域名「倭」が入りません。


しかも倭(委)はwiゐで、伊はiいなので、これは戦前でも書き分けが残っていたのでアウト(´-ω-`)


ただ学術論文ではないのですが、

「全日本書芸文化院」のメンバーBLOGに

書家の佐藤容齋さんが


「漢委奴国王」金印の解読における通説の「奴」の誤解と真実


というご研究を発表されておられて、それを引用させていただきますと


私たちは匈奴のことをふつう「キョウド」と言っていますが、本来、「匈奴」は「フンヌ」を同音の漢字で表記したものです。匈奴は漢との抗争の末しだいに西へ追いやられ、その末裔たちは「フン族」として中世のヨーロッパに甚大な影響を及ぼしました。


名称としては「フン族」とは言いますが「フンヌ族」とは言わないことからも「ヌ」には「族」の意味があるのではないでしょうか。


57年の朝貢に際して何故「匈奴」にちなんで「委(倭)奴」と名付けたのかは漢廷が、何か匈奴との共通性を見いだして対比したものと思われます。


とされ、当日百餘国に別れていた倭国と多くの部族がいた匈奴とを○奴と表したと指摘されています。


すると「魏志倭人伝」に

伊都国には代々王がいたと記すのは、

後漢の西暦57年以来、ここの王が倭国王であったのが、魏からの使いが

「王が卑弥呼に交替した」と確認できたゆえでしょう。


そうすると連合体としての邪馬台国には、代々倭国をまとめていた(倭国大乱で破綻していた)「王」と、

「巫女王の卑弥呼+弟」のふたつの王権が存在し、

伊都国王が俗の部分を統括し、(これが原の辻・三雲交易時代に交易を統括した一大率に残っていると思われます。)


聖の祭祀の部分を卑弥呼と弟が担っていたということになるでしょう。


これが三輪王権においては、


御間城入彦+御間城姫→俗

(千々衝)倭姫命+倭彦命→聖


のかたちで、周辺への拡大が図られたのだと思います。


(初代斎宮トヨスキイリビメについては、千々衝倭姫命が成長するまでの間、年長であったトヨスキイリビメが同母兄トヨキイリヒコと聖の部分を担ったのではないでしょうか?


トヨキイリヒコが東に向かって武器を振り回したという夢占いは、倭彦命の任務とにています。)


その後、御間城姫所生の千々衝倭姫命と倭彦命が成長し、「倭姫命世記」にあるように、崇神朝から「巡幸」に出発したのだと思います。


「倭姫命世記」は後世のものですが、皇大神宮の独自伝承を伝えているとも言われています。


もし本当に崇神朝から「倭姫巡幸」が始まったなら、世代的にそれは崇神天皇の孫の斎宮倭姫命ではなく、娘の千々衝倭姫命であったとするのが妥当でしょう。


そして倭彦命は、千々衝倭姫命とともに、鏡=天照大神の信仰を近畿地方東部へと広める役目を負ったのだと思います。


次回はもう一度「倭姫巡幸」を、今度は考古学観点から検証しようと思います。

またのご訪問をお待ちしております。