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「日本書紀」には簡潔に書かれていた「倭姫巡幸」のコースですが、

平安時代の「皇大神宮儀式帳」、鎌倉時代の「倭姫命世記」とどんどん詳しくなっていきます。


以下Wikipediaの両書の説明です。


「皇大神宮儀式帳」

『皇太神宮儀式帳』は、皇太神宮(内宮)に関する儀式書で、1巻・23条からなる。804年(延暦23年)8月28日に、大宮司・大中臣真継、禰宜・荒木田公成、大内人・磯部小紲らによって神祇官に提出された。

その内容は、皇太神宮の年中行事の大綱、神々鎮座の伝承、宮域および殿舎の構造・様式、装束神宝の細目、遷宮行事、禰宜・神官の職掌、神郡・神戸・神田の管理経営、所管神社、三節祭の朝夕大御饌、御調・荷前(のさき)供奉、幣帛など。


「倭姫命世記」

『倭姫命世記』を含む、中世に成立したいわゆる「神道五部書」の中でも、この『倭姫命世記』は『宝基本紀』とともに比較的早く成立したものと考えられており、成立順としては『宝基本紀』に次ぐ2番目に早い成立であると推定され、『宝基本紀』の思想性をさらに発展させたものとして考えられる。神護景曇2年の「禰宜五月麻呂」による編述とする奥書は仮託であるものの、御巫清直の研究によって、同書は、神宮の古記録である『太神宮本紀』を基にした『大同本紀』という古代の文献をもとに製作されたものであることが明らかとなり、『倭姫命世記』は、単に中世に編述されたというだけでなく、成立に当たっては神宮の古伝承も包摂されたと考えられている。


倭姫に関して、これまで巡幸コースを示していますが、これは「倭姫命世記」に基づいたものです。


赤→倭姫巡幸 桃→日本武尊 青→大海人皇子

といっても


菟田ウダの筱幡ササハタに行った。

さらに迂回して近江国(滋賀県)へと入り、美濃(岐阜県南部)を巡って、伊勢国(三重県北部)に至った。


という「日本書紀」の記述どおりに回るとすれば、どこで留まったかはともかく、この道を通るのは至極自然なことです。


「倭姫命世記」では、滞在地で倭姫は在地の豪族(支配者、王)に国名を聞き、神戸カンベ(神社の御領)を寄進させています。(例↓)


活目入彦五十狭茅イクメイリヒコイサチ天皇=垂仁天皇2年、伊賀国敢都美恵アヘノツミエ宮(三重県阿閉郡柘植ツゲ)に遷り、二年間奉斎。

4年、淡海=近江国甲可日雲宮(滋賀県甲賀市三雲)に遷り、四年間奉斎。この時、淡海国造は、地口・御田を奉った。

8年、同国坂田宮(滋賀県米原市)に遷幸し、二年間奉斎。この時、坂田君等は、地口・御田を奉った

10年、 美濃国伊久良河宮(岐阜県瑞穂市)に遷幸し、四年間奉斎。次に、尾張国中嶋宮(愛知県一宮市)に遷座し、倭姫命は国寿きをされた。この時、美濃国造等は、舎人 市主、地口・御田を奉り、御船一隻を奉った。


実は「倭姫巡幸」は、「倭姫命世記」では崇神天皇58年に開始されています。

「日本書紀」では1年間のことに書かれていますが、おそらくこれは伊勢鎮座の時期を表しているのでしょう。


崇神朝からの開始だとすると、この倭姫命の存在が変わってきます。

これはもう少し後でお話しすることにいたします。


「倭姫命世記」は中世の成立ですが、皇大神宮=伊勢神宮の御料地の分布を反映して、こういったコース上に神戸が置かれた由来を書いているので、


ここを伊勢神宮の信仰圏と捉えても、その範囲は「日本書紀」と矛盾することはないように思えます。


先ほどの地図で、672年の壬申の乱の時、吉野から脱出した大海人皇子は、この地域を進軍し、伊勢の朝明アサケ郡(三重県朝明郡)で天照大神を遥拝しました。


これはおそらく、伊勢神宮の信仰圏の地域を味方に付けるためのパフォーマンスで、この地域を通る間に、大海人皇子軍の軍勢が膨れ上がった理由でしょう。


斎宮の制度が確立するのは、天武天皇皇女の大泊オオク皇女からですが、これは大海人皇子が勝利して天武天皇になった御礼の意味があると思うのです。


つまり、7世紀には天照大神を奉じる「鏡の信仰」がこの地域に形成されていたわけです。


ところが「鏡の信仰」は邪馬台国、卑弥呼が3世紀前半に創始した新しい信仰ですから、これまで銅鐸を奉祭してきた近畿地方にそれを広めた人々を象徴化したのが「倭姫巡幸」だとすると、


畿内の銅鐸文化が前方後円墳に象徴される鏡や剣を重視する祭祀に切り替わった、3世紀後半の纒向遺跡の時代であることは不自然ではない。


倭姫命や「倭姫巡幸」が本当にあったとは言いませんが、三輪王権が「鏡の信仰」を広めながら、周辺の豪族たちを臣従させていく様子を示しているように思います。


さて、「倭姫命世記」では、倭姫命に先立って、豊鍬トヨスキ入姫命が、丹後の与謝ヨサと紀伊の名草に天照大神=八咫鏡を報じて移動しています。


丹後の与謝は、今の天橋立の北側にある籠コノ神社(丹後国一之宮)に比定されていますが、ここには「邊津ヘツ鏡」「息津オキツ鏡」という鏡が伝世していて、前漢鏡と後漢鏡、

つまり卑弥呼が魏からもらった「銅鏡百枚」の可能性が高い鏡なのです。


また紀伊国名草郡(和歌山県和歌山市)には、

日前ヒノクマ神宮・國懸クニカカス神宮があり、総称して日前宮ニチゼングウ(紀伊国一之宮)と呼ばれています。


「日本書紀」には、天照大神が岩戸隠れした際、石凝姥イシゴリドメ命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が日前宮に祀られていると あり、社伝によれば、神武東征の後の神武天皇2年、紀国造の祖神、天道根アメノミチネノ命が、八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像ヒカタ鏡・日矛ヒボコ鏡を賜り、日像鏡を日前宮の、日矛鏡を國懸宮の神体としたということですが、


当初は海側の浜宮に祀られ、垂仁天皇16年に現在地に遷座したと伝えられ、

同じ和歌山市内の伊太祁󠄀曽イタギソ神社の社伝では、

元々この地に伊太祁󠄀曽神社があったが、紀伊国における国譲りの結果、日前神・国懸神が土地を手に入れ、伊太祁󠄀曽神社は現在地に遷座したということです。


この伊太祁󠄀曽神社はどういう神社かというと、祭神は五十猛イソタケル神、別名を大屋毘古命といい、「古事記」で大国主命が兄たちに殺されそうになったため、母神が亡命させたところなのです。


つまりは出雲の同盟国ですが、垂仁16年に「紀伊の国譲り」があり、2つの重要な鏡が紀伊に祀られるようになっていることと、


崇神朝に八咫鏡を奉祭する豊鍬入姫命が丹後を訪れ、そこに今も前漢鏡と後漢鏡が伝わっていること、垂仁朝には丹後(当時は丹波全体の政権の所在地)の姫が垂仁天皇の皇后になっていることは、


共に三輪王権が、出雲と結び付きの強い紀伊と丹後を懐柔し臣従させたことの反映のような気がします。


博多湾貿易では、北部九州と山陰はライバルであったと考えられます。


そして三輪王権は、墳墓に鏡剣玉を副葬し、鏡を重んじ、何かというと「矛」を祀りました。


三輪王権が北部九州の意を受けて、出雲攻略を行っていたのなら、崇神朝から垂仁朝にかけて出雲を討伐したり、出雲大神を祀ったりするのも納得できます。


ついでに「古事記」のホムチワケ王の物語で、ホムチワケ王を接待したキヒサツミですが、「出雲国風土記」に


出雲郡 神名火山 出雲市斐川町

曾支能夜ソキノヤの社に坐すキヒサカミタカヒコ命


とあり、キヒサツミを思い起こさせます。

山の南側には「出雲国風土記」では岐比佐キヒサ社、現在は阿吾神社という神社もあるようです。


そして仏経山の西には、

日本で一番たくさん銅鏡が出た「加茂岩倉遺跡」と

日本で一番鉄剣が出た「荒神谷遺跡」が出土し、

その南の神原神社古墳からはドンピシャ「卑弥呼の鏡」の「景初三年鏡」が出ているのです(o゚Д゚ノ)ノ


神原神社古墳は、時代的にキヒサツミのお墓かもしれません。


出雲地方



ここから見えるのは、邪馬台国はライバルの出雲を臣従させるために、

山陰交易の拠点丹波を押さえて、そこに魏の皇帝に下賜された「ありがた~い鏡」を与え、


臣従した出雲にも「ありがた~い鏡」を与えて、


返す刀で紀伊を臣従させて、卑弥呼の形代(の失敗作?)を与えた、というストーリーが浮かびます。


https://ameblo.jp/reki-sanpo/entry-12387993763.html



ではその邪馬台国は、三輪王権なのか?

あるいは貿易の拠点の北部九州にあるのか?


それは次の景行天皇のところで見ていきましょう。


「倭姫巡幸」はこれで終わりますが、

「日本書紀」には別伝が載ってます。

崇神朝と垂仁朝がごっちゃになってるうえに既出の話なので、とりあえず訳しておきますが、

以下はすっ飛ばしても大丈夫です。


またのご訪問をお待ちしております。




一に云わく、(別伝)天皇、倭姫命をもって(天照大神の)御杖とし、天照大神にお仕えさせられた。

そのため、倭姫命は、天照大神を磯城シキノ嚴橿之本イツカシノモトに鎮座させてお祀りした。こうして後に然、神の教えのままに、26年冬十月に、伊勢国の渡遇ワタライ宮(現内宮)に遷った。


是の時に倭大神、穗積臣の遠祖大水口オオミナクチ宿禰に取り憑いて教えておっしゃるには

「大昔に神は『天照大神、高天原を治め、皇孫のニニギ尊は、葦原の中つ国の八十魂の神を治めるのに専念した。我は自ら治大地のことを治めよう。』と言葉を終えた。

しかし先皇の御間城天皇=崇神天皇は、天津神国津神を祭祀したが、根元を探ることなく、枝葉を適当にやっていた。

それでその天皇は短命であった。

それゆえに、今、そなた御孫の尊、先皇が祭祀で及ばなかったことを悔いて、謹んで祭祀をすれば、則ち汝の尊の壽命は伸びて、天下もまた太平になる。」


そこで天皇は、この言葉を聞いて、すぐに中臣連の祖の探湯主クガヌシに仰せになって、誰に大倭大神を祀らせるかを占わせ、渟名城稚ヌナキノワカ姫命が占いにあたった。そこで渟名城稚姫命に命じて、神地於を穴磯アナシ邑に定め、大市の長岡岬でお祀りした。しかし、この渟名城稚姫命は、身体が大変痩せて弱り、祭祀ができなくなった。

それで大倭直の祖の長尾市ナガオチ宿禰に祀らせたという。