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前回の相撲の起源は、実は丹波の五人の后妃とホムツワケ王の伝承の前にあるのですが、狭穂姫との関連でまとめたので、年次的に前後してしまっています。


正しい順序はこうなります。


4年9月23日、狹穗彦王の叛乱を計画

5年10月1日、皇后狹穗姫命による垂仁天皇の暗殺未遂と狭穂彦王の叛乱と鎮圧。狭穂姫命自死で崩御

7年7月7日、當摩蹶速と野見宿禰の試合

15年2月10日、丹波の五嬢の入内

23年9月2日、誉津別王の白鳥伝承


となります。


「日本書紀」では誉津別王の話は、

出雲国で捕らえた白鳥を献上したところ、皇子が話せるようになった、と簡単に書いてありますが、

「古事記」には、出雲大神の祟りということで、出雲に行って話せるようになっています。


他方で、「日本書紀」は

崇神天皇の時に、出雲が討伐された話が出てきますが、

「古事記」では、倭建命ヤマトタケルノミコトにその話が使われています。


「古事記」のヤマトタケルの物語は、悲劇性を強調するために、兄殺しの話や伊勢斎宮に父との確執を吐露する場面があり、それが「古事記」の作者(柿本人麻呂?)による構成の変更だということは、「続ヤマトタケル」のシリーズで検証してまいりましたが、


そうすると、もとは

出雲征伐(出雲臣振根)

  ↓

出雲大神の祟り

「日本書紀」では丹波の童子

「古事記」ではホムチワケ御子の発話障害

  ↓

出雲大神の祭祀

「日本書紀」では祭祀の復活

「古事記」では

(曙立王、菟上王は)ここに覆奏カエリゴト(復命)言モウさく、

「大神を拝みたまひしによりて、大御子オオミコ=ホムチワケ御子 物モノ詔ノりたまひき。かれ、参上ノボリマイり来つ」とまをしき。

かれ、天皇歓喜ヨロコびたまひて、即スナワち菟上王ウナカミノミコを返して神宮を造らしめたまひき。

とあります。


実は「古事記」も「日本書紀」も、神代の出雲国譲りの時に、大国主命のために天孫と同じように壮大な宮殿を建てる約束をしていますが、建ててなかったのでしょうか('_'?)

「日本書紀」では建造の記録は垂仁朝にはありません。


この2つの物語は、「日本書紀」は鳥取部の話で、「古事記」は日子坐ヒコイマス王系であることを思えば、

何かと日子坐王に触れたがらない(四道将軍も日子坐王ではなく、子の丹波道主命)「日本書紀」と、

陸耳御笠クガミミノミカサの討伐や、長大な「日子坐王系譜」を記す「古事記」との立ち位置の違いだともいえるでしょう。


一方、「日本書紀」には

是の歲(斉明5年=659)、(斉明天皇は)出雲国造闕名ナヲモラセリに命じ神之宮を修厳す。

とあり、出雲大社がより厳かに作り直されたと見えます。


この神之宮を出雲国造の本拠である意宇オウ郡(松江市付近)の熊野大社という説もあるのですが、意宇郡の出雲国造が、天孫系であることと、それに続いて、


狐が於友オウ郡の労役たちが巻き結わえたところの葛の末を噛み断って去った。また狗イヌが死人の腕を言屋社イウヤノヤシロ(島根県八束郡東出雲町揖屋神社)に噛み置いた。


いう凶兆が重なるので、

やはりこれは出雲国造の祖神の宮ではなく、出雲大神の宮だと見るのが良いでしょう。


この出雲大社修厳については、前年の

斉明4年5月に、天皇の孫で中大兄皇子の子である建皇子が8歳で亡くなっていることとの関連を指摘する見方もあります。建皇子が生まれつき発話障害があり、話せなかったからです。


斉明天皇はこの孫を可愛がり、翌年にかけて数首の歌を残しています。

発話障害のある建皇子とホムチワケが重なっての修厳ともいえます。


それでは、続きを見ていきましょう。


25年春2月、(天皇は)阿倍臣の遠祖の武渟川別タケヌナカワワケ・和珥ワニ臣の遠祖の彦国葺ヒコクニブク・中臣連の遠祖の大鹿嶋オオカシマ・物部連の遠祖の十千根トオチネ・大伴連の遠祖の武日タケヒの五大夫タイフに詔して

「我が先代の御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)は、賢く徳があり、広く見聞され、おごることなく執務され、野心は持たず、よろずの政を統べ治め、礼を以て神祇を祭り、己を抑えて身体を張って、日々を慎まれた。

それゆえ人民は豊かになって満足し、天下は太平であった。今、私の代にも神祇をお祀りすることを、怠ってはならない。」と仰せになった。


これはなんなのでしょう?中国の褒め言葉を並べただけで、

「先代も立派だけど、俺も頑張ります❗」宣言?


五大夫が出てきましたが、

これは「竹取物語」の5人の貴公子と関係深そうに思えるんです(^^;)


前にも書きましたが、「竹取物語」でかぐや姫に求婚する人物は、大宝元年(文武天皇5年=701)あたりの高官たちで、


石上麻呂たり=石上麻呂(物部氏→石上氏に改姓)

阿倍御主人(阿倍氏)

大伴御行(大伴氏)

くらもち皇子=藤原不比等(中臣→藤原氏に改姓)

藤原不比等に皇胤説があり、母が車持氏


とここまでは一緒で、


石作皇子は多治比王の子で、臣籍降下した多治比真人嶋といわれていますが、

始祖にあたる宣化天皇皇子の上殖葉カミツエハ皇子の母が、和珥系の橘仲皇女(宣化皇后)なのです。


つまり、ここの五大夫は、大宝律令の頃の有力者を反映してるんでは?とも(^^)



で、いよいよ「倭姫巡幸」ですが、ちょっと長くなっちゃいましたので、詳細は次回に(^^;)


「倭姫巡幸」と倭彦の話はヤマトタケルに関わりが深く、詳しいことは「続ヤマトタケル」のシリーズを読んでいただきたいのですが、

ここではさらりと本文を見ていきましょう。


(25年)3月10日、天照大神を豊耜入姫トヨスキイリビメ命から離し、倭姫命に託す。

そこで倭姫命は天照大神を鎮座させる場所を求めて、菟田ウダの筱幡ササハタに行った。

さらに迂回して近江国(滋賀県)へと入り、美濃(岐阜県南部)を巡って、伊勢国(三重県北部)に至った。

そのとき天照大神は倭姫命に教えて、

「この神風の伊勢国は、すなわち常世の浪ナミが、繰り返して寄せる国である。

傍国の可怜国ウマシクニである。この国にいたいと思う。」と仰せになった。

そこで大神の教えのままに、その神社を伊勢国に立てた。そして斎宮イワイノミヤを五十鈴イスズ川の川上に興して、これを磯宮イソノミヤといった。すなわち天照大神が初めて天より降りた場所である。


次回に詳細は回しますが、

「続ヤマトタケル」のリンクを貼っておきますね。


次回もぜひご訪問くださいませ。


https://ameblo.jp/reki-sanpo/entry-12761094536.html 


倭彦命はまたのちほど出てきます。