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さて誉津別命ホムツワケノミコト(誉津別王ホムツワケノミコとも)は生まれてまもなく母の狭穂姫を失いますが、
即位してすぐの后妃と皇子女を記載したところには、
生アれまして天皇愛メグみたまひて、常に左右モトトに在オきたまふ。壮ヒトトナりなりたまふまでに言マコトトはさず。
とあり、父の垂仁天皇の側近くで、可愛がられて育つのですが、大きくなっても言葉を発することができないのでした。
23年秋9月2日、天皇は群臣に対して
「譽津別王ホムツワケノミコは今年30歳となり、胸までヒゲが伸びるようになっても、今なお泣く様子は子供のようである。またずっと言葉は話さないのはどういうわけだろうか?そこで各役所に命じて原因を考えさせよ。」と仰せになった。
ちょっと待って✋❗
垂仁5年に抱けるくらい小さかった(「古事記」では稲城で生まれた)誉津別王が23年に30歳って、どゆこと!?
まあ、「日本書紀」の年立なんていい加減だ。創作なんだも~ん。で済ますのが普通ですが💦
たぶんコピペのせいではないかと(;^_^A
はなっから作るのなら、ちゃんと作ると思うんですよね💧
何かもとになる本があって、そこに23年と書いてあり、ホムツワケの生まれたのは、垂仁天皇も若い頃だった。
赤ん坊だったというのは「古事記」が炎ホムラの内ウチを表す「ホムチワケ」という名前で火中出産であった、としたことでできたイメージであったとすればどうでしょう?
「日本書紀」には
崇神天皇紀のヤマトトトビモモソビメの箇所や、
日本武尊の東征の「王」表記などの、元史料からのコピペを疑う表記があるのですが、
前後の齟齬なども含めて、こういうことがちょいちょいあるのはおそらくかなり高次の国史編纂委員会ともいうような決定機関で決められた大きな筋立てをもとに、
渡来系の学者たちが巻ごとに分担して書いたものの、
もとになった先行の史書や地誌のようなものを統合し勘案する作業は、弟子なり編纂所の役人なりが分担して行ったのではないかとわたしは考えています。
おそらくこの巻の年立ても、一人の担当者ではなく、細かく分けて数人が下書きを書き、それを最終的に漢籍に通じた担当者が書き上げた結果、コピペした部分で矛盾が残ったのだろうと思います。
冬10月8日に、天皇は大殿オオトノの前に立っておられた。誉津別皇子ホムツワケノミコもいた。そのとき鳴鵠クグイ(白鳥)がいて、大空を渡っていた。皇子は鵠を見てご覧になって、
「これは何だろう?」とおっしゃった。
天皇は、すぐに皇子が鵠を見て言葉を発することができたとわかって、お喜びになった。
そして左右モトコヒト(お側の人)に、
「誰か、この鳥を捕らえて参らぬか?」と仰せになった。
そこに鳥取造トトリノミヤツコの祖先、天湯河板舉アメノカワタナが
「私が必ず捕らえて献上いたしましょう。」と申し上げた。
そこで天皇は、
「お前がこの鳥を献上したら、必ず篤く褒賞を与えよう。」とおっしゃった。
それから、湯河板舉は遠く鵠が飛んで行った方角を望んで、追いかけて続けて、出雲に詣イタって捕獲した。
ある人によると「但馬国で得た。」ともいう。
11月2日、湯河板舉は鵠を垂仁天皇に献上しました。譽津別命はこの鵠と遊んで、ついに話されるようになった。
この功によって、天皇は湯河板舉を篤く褒賞された。
すなわち姓カバネを与えて鳥取造トトリノミヤツコとした。また鳥取部トトリベ、鳥養部トリカイベ、譽津部ホムツベを定め、管理させた。
「日本書紀」はこれで終わりです。別にややこしくない鳥取氏の起源説話ですが、実は「古事記」と照らし合わせると、どうもそれだけではすまなくなってきます。
そこで「古事記」をみてみます。
長いのでダイジェストで(^^;)
ホムチワケ御子はヒゲが胸元まで伸びても、言葉を発せませんでした。ある日、白鳥の声を聞いたときです。初めて言葉を口にしたのです。
そこで山辺之大(鷹)ヤマノベノオオタカを遣はし、その鵠を捕らえさせますが、木国(紀伊=和歌山県)から針間国(播磨=兵庫県南西部)、また稲羽国(因幡=鳥取県東部)、旦波国(丹波=京都府北部)・多遅麻国(但馬=兵庫県北西部)、そこから東の方に回って近つ淡海国(滋賀県)、三野国(美濃=岐阜県南部)、尾張国(=愛知県西部)、科野国(信濃=長野県)、遂には高志国(越=北陸地方)に到って捕まえます💦
けれども御子は物を言うことはありませんでした。
ところが垂仁天皇が寝ていると、夢に
「わたしの宮を天皇の住居と同じように、立派に立て直せば、ホムチワケ御子は必ず言葉を話すようになるだろう。」と神託があったのです。
天皇、占いをして調べると、それは出雲の大神のお告げでした。
そこでホムチワケ御子を出雲の大神の宮へと参拝させることにし、御子が話せるようになるかどうかを曙立アケタツ王が占いますと、うまく行くと出ました。
そこですぐに曙立王と菟上ウナカミ王をホムチワケ御子と共に出雲へと遣しました。
一行は土地土地に品遅部ホムチベを置きました。
ここから「古事記」の現代語訳です。
そうして出雲に到って、大神を拝み終えて都へ帰り戻るときに、肥河(斐伊川)の中に黒い簀の子のように橋を渡して、仮の宮を作って、そこで御子にお仕えして滞在されるようにしました。
そこに出雲国造の祖の、名をキヒサツミと申すものが、青葉の木を切って作った歓迎のモニュメントをその川下に立て、お食事を差し上げようとしたときに、
その御子が言葉を発して
「この川下に、青葉の山のように見えるのは、山に見えて山ではないな。もしかしたら出雲の石くま(くまは石偏に向)の曾の宮におられるアシハラシコヲ大神(大国主命)をお祀りする宮司の祭の大庭なのか。」とおっしゃいました。
そこでお供についてこられた王たちは、それを聞いて喜び見て喜んで、御子を檳榔アジマサの長穂の宮にお連れして、早馬で都へとお知らせになりました。
さて、その御子は一夜、肥長比売と結ばれました。その時その乙女を密かに覗き見られたところ、その正体は大蛇でした。
たちまち(御子は)それを見たことで恐れられ、すぐに逃げられました。
そこで肥長比売は悲しんで、海原を照らして船で追ってきましたので(御子は)ますます恐れをなして、山の低くなった峠のところから御船を引き上げて、都へ逃げ帰られました。
という展開になります。
ここは肥河つまり斐伊川が舞台になっています。迎えに出たキヒサツミがいたのも斐伊川流域で、
しかも出雲大神もその近くに祀られていたという感じに書かれています。
しかも、その次に出てくるのが、大蛇の化身の肥長比売・・・となれば、これは「肥河のナーガ姫」であるでしょう。
草薙剣と同じく、ナギやナガは蛇の古名なのです。
垂仁天皇のころ、出雲を訪ねるという事は、西出雲を訪ねるという事でした。
そこは律令制下の「神門カムト郡」「出雲郡」、まさに本来の出雲であったと言える地域です。
そして崇神天皇に滅ぼされた出雲の主は「出雲臣遠祖」出雲振根フルネ、これが「出雲国風土記」では「神門臣古你」(のちに建部臣古你)と呼ばれた人物です。
間違いなくここが出雲の中心であれば、キヒサツミもまた三輪王権に服属した出雲の首長の後継者と言えます。
しかもホムチワケ(ホムツワケ)御子に祟るのは出雲の大神となると、「古事記」にないものの「崇神天皇紀」の出雲征討が反映しているのも想像できます。
さて、そこにはいまの出雲大社とは別に、出雲大神を祀る大庭もあります。おそらく角川源義さんが指摘した、カンナビの仏経山(366m)を祀る施設でしょう。
角川源義さんによると仏経山の北西のふもとに「曾伎能夜ソキノヤ社」という神社があり、
祭神は伎比佐加美高日子キヒサカミタカヒコ命といいます。
同様に山の南側には「風土記」の「岐比佐キヒサ社」、現在は阿吾神社という神社もあります。
「ツミ」というのは「オオヤマツミ」や「ワタツミ」に通じ、「~の神」という意味です。この祭神はキヒサツミと同一視できるように思います。
しかもこの近くの「神原神社古墳」からは「景初三年鏡」、
あの卑弥呼が魏に遣使した景初3年の年号が入った鏡が出土しています。
これこそ卑弥呼が魏から賜った鏡のうちの一枚だと考えられるとすると、これは「邪馬台国」からの下賜だったでしょう。
出雲の服属に際し、出雲大神の神宝が大和朝廷に接収されたことは「崇神天皇紀」に書かれていましたが、その後丹波で子供が出雲大神のことを口走り始めたせいで、出雲の祭祀は復活しています。
「古事記」にはないですが、もし復活したのであればキヒサツミがその斎主ということになります。
その斎主は邪馬台国で生まれた「鏡の祭祀」を行うように、鏡を下賜されたのではないかと思うのですが、
こうなると三輪王権は邪馬台国であったか、邪馬台国の手先であったか、どちらかでしょう。
私は当時の交易の状況と神武東征の伝承から、三輪王権は邪馬台国の出雲包囲網の一環として九州から派遣されたと思うのですが、
邪馬台国大和説にたつと、交易の遺物と「神武天皇紀」hs無視することになるのですが、そこはもっとスッキリするので、断定しきれないわけです(;^_^A
ただ4世紀になってから、出雲は大和に服属したとなると、
考古学的遺物で見ると、出雲を征服したのは3世紀後半から博多湾貿易において出雲とライバルであった北部九州が主体であったように思いますし、それなら「卑弥呼の鏡」を下賜したのは北部九州にあった邪馬台国ということになります。
(この場合も「神武天皇紀」や「崇神天皇紀」は無視してしまうのですが💧)
出雲の服属は邪馬台国に絡むのでワケワカメ~(@_@)
ただ次の「景行天皇紀」になると、やっぱり三輪王権の宗主国は邪馬台国で、それが北部九州にあるっぽいということになってくるので、その時に少しはスッキリするかもしれません。(しらんけど)
しかもこの「古事記」の主人公はホムチワケで、これはサホビメが「古事記」で火中出産を行ったからですが、この物語の登場人物は、サホビコ、サホビメ、丹波の姉妹、曙立王、菟上王も「日子坐王系譜」の人物です。
曙立王が祖神とされる伊勢佐那サナ造氏の「サナ」は、サナギ=銅鐸を彷彿させますが、実際に彼らがいた三重県の多気町では銅鐸が出土しています。
また日子坐王系譜に名を連ねる水之穂真若王の安直氏のいた滋賀県野洲市には、加茂岩倉移籍に次ぐ銅鐸の大量出土地、大岩山遺跡があり、銅鐸を奉じる国々と出雲の結び付きが浮かびます。
この事からかつて銅鐸を奉じていた丹波が、三輪王権に恭順後、出雲攻略に一役買ったのが反映されているように思います。
ということでややこしいホムツワケ伝承ですが、ひとまずおいて、次の相撲の起源にまいりましょう。
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