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今回からはホムツワケ王の物語です。


実は「古事記」「日本書紀」の両方にこの話がのっていて、大筋は似ていてもけっこう肝心なところで違うのですが、

このあとの景行天皇のヤマトタケルの話になると、内容がめちゃくちゃ乖離しますので( ̄▽ ̄;)


「古事記」の作者は神代や神武東征、欠史八代などの、新しい部分の創作には関与したけれど、


もともと伝えられていた崇神天皇以下の編纂にはノータッチだった、という見方と一致します。


ここでは「日本書紀」を読むのが目的なので、

まずは「日本書紀」を見てみましょう。


さて、垂仁天皇の皇后狭穂姫サホビメですが、「垂仁紀」には出自の記載はありません。

ただ「古事記」の「日子坐ヒコイマス王系譜」によると開化天皇の皇子日子坐王の子です。


開化天皇は都も陵墓も奈良の観光エリアのど真ん中にあるのですが、佐保サホもまた奈良の市街地で、

彼女のお母さん(春日建国勝戸売の娘、沙本之大闇見戸売)の実家も、のちに春日大社ができる春日の地にありましたから、系譜的には纏向に生まれた三輪政権とは別の王家の出自であったと思われます。



垂仁4年秋9月23日、皇后の同母兄狭穂彦サホビコ王は、謀反を起こそうとして、

皇后(狭穂姫)が春日の実家に帰っていた時をうかがって、

「そなたは兄と夫のどちらが愛しいか」と聞いた。


ところが狭穂姫は、兄の問いの意味がよく分からなくて

「お兄さまの方が愛しいです。」と答えた。


すると狭穂彦は、

「容色をもって人に仕えるのであれば、容色が衰えてしまっては寵愛が薄れるであろう。今は天下には美人も多く、お互いにしのぎを削って寵愛されることを望んでいる。どうして末永く容色を頼みにできようか。


それならば、私が天皇になれば、必ずお前とふたりで天下を治めよう。そうすれば(容色に頼らず)枕を高くして百年安心して暮らせるのだから、そちらの方が快適であろう。だからどうか私のために天皇を殺してくれ。」と言った。


のんびりと実家に里帰りしていた狭穂姫ですが、お兄さんがエライ事を言い出します(´・ω・`; )

確かにこの2人の名は対になっていて、本来は春日の地で姫彦制のもと、共に国を治めるべきプリンスとプリンセスだったと考えてもいいでしょう。

実は「日子坐王系譜」にはお母さんの沙本大闇見戸売サホノオオクラミトベは書いてありますが、お父さんの名はありません。

その大闇見戸売も春日建国勝戸売の娘とありますが、この人も女性です。


ここは代々女性が首長を務める女王国であったのでしょう。その姫が垂仁天皇に嫁いだということは、春日の勢力が三輪王権に服属したことになります。

それを覆そうというのが、狭穂彦であったのです。




そして匕首(小刀、アイクチ)を取り出し、皇后に渡して、

「この匕首を衣の中に帯びて、天皇が眠っているときに、すぐ頚を刺して殺せ。」と言った。


皇后は心のうちでは恐れおののきながらも、どうすることもできなかった。けれども兄の意志をみると、簡単に諫めることもできないと思い、そのために兄の匕首を受け取って、ひとりで隠し通すこともできないので、(見えないように)衣の中に付けたのだった。


5年冬10月1日、垂仁天皇は来目クメ(奈良県橿原市久米)にお出ましになられ、

高殿におられた。

ちょうど天皇は、皇后のお膝を枕にして、お昼寝をされていた。

皇后はいまだに事を起こしておられなかった。それを考えると

「兄王の謀反を成すには今しかない。」と思ったが、その目から涙がこぼれ、天皇の顔に落ちた。

天皇ははっと目覚めて、皇后に

「今日は夢を見たのだが、錦のような美しい小蛇が私の頚に巻き付くのだ。それでまた、大雨が狭穂の方から降って来て顔を濡らすという夢を見た。これはいったい何の予兆であろう?」とおっしゃった。


皇后はもはや謀略を隠し通すことは無理だと知って、怖がり恐れて地に伏して、

兄の謀反の謀略のすべてを天皇に話してた。


そして

「私は兄王の命令に背くこともできず、また天皇のお心を裏切ることもできませんでした。

告白すれば兄を滅ぼし、何も言わなければ国家を乱してしまいます。

そのためにひとたびは恐れ、ひとたびは悲しみ、うつむく度に、天を仰ぐ度に、むせび泣き、進退極まって血の涙を流しました。

昼も夜も悲しみは鬱積して、お話しすることもできませんでした。


ただ、今日、主上は私の膝を枕にしてお休みになっておられました。ここで一度だけ、

もし狂った女がいて、兄の意志を成し遂げるなら、たった今、簡単に事を成すことができるであろう、と思いましたが、思い終わるより前に涙が自然と湧いて流れました。

すぐに袖をあげて涙を拭いたのですが、袖から漏れた涙が、お顔を濡らしてしまったのです。


ですから、今日の夢をご覧になったのは、かならずやこの事の答でしょう。

錦のような小蛇は、兄が私に授けた匕首です。

大雨が急に降ってきたのは、私の涙です。」と申し上げた。


天皇は皇后に、

「これはそなたの罪ではない。」とおっしゃった。


そして

近くの縣アガタの兵士を遣わして、上毛野カミツケヌ君の祖先の八綱田ヤツナダに命じて、狭穗彦を撃たせた。その時狭穗彦は、興軍勢をあげてこれを防ぎ、すぐに稲を積んで城を作った。其の城は堅固で破れなかった。此れを稲城イナギという。月が変わっても降伏することはなかった。


ここで皇后は悲んで、

「私は皇后といえども、兄王を失ってしまったら、どんな顔をして天下に臨むことができるでしょう。」そして王子の譽津別ホムツワケ命を抱いて、兄王のいる稲城に入ってしまった。


天皇は更に軍勢を増やして、悉く其の城を囲んだ。

そして城の中に

「すみやかに皇后と皇子を出すように。」と命じられたが、出られることはなかった。


そこで将軍の八綱田は、其の城に火を放って焼いた。

ここで皇后は懐に皇子を抱き、稲城の上を越えてお出ましになった。

そして

「私が最初、兄の城に逃げ込んだわけは、もしや私と皇子に免じて、兄の罪を許されることがあろうかと思ったからです。

けれども今許されることが無いということで、私は私自身にも罪が問われていると分かったのです。

そうであればおめおめと捕らわれることはできません。自ら命を断つのみです。


けれども私は死んでも、決して天皇の御情愛は忘れません。願わくは、私の司っていた後宮のことは、よい御方にお任せください。

かの丹波国には五人のご婦人がおられます。志は高く、清らかな方で、丹波道主王のお嬢さまです。道主王は、稚日本根子太日々天皇(開化天皇)の孫、彦坐ヒコイマス王の子也である。一アルに云うには、彦湯産隅ヒコユムスミ王の子である。以盈后宮之數きっと後宮に召し入れて、お妃の数にお加えください。」とおっしゃって、

天皇はこれをお聞き入れになった。


時に火が燃え盛り城は崩れて、敵軍はことごとく敗走した。狭穗彦と妹の皇后は共に城の中で亡くなった。


天皇は、将軍の八綱田の功績をお褒めになり、其の名を名付けて倭日向武日向彦八綱ヤマトヒムカタケヒムカヒコヤツナとされた。




天皇は驚き、直ちに狭穂彦を攻めました。しかし沙穂彦は稲城に籠って抵抗を続けます。


狭穂姫は宮を抜け出し、赤ん坊のホムツワケ王を抱いて稲城に入りますが、いよいよ官軍によって焼き討ちがおこなわれたとき、

(明示されてはいないのですが)

王子だけは託して、自らは炎の中で兄とともに自害して亡くなります。


ここは「古事記」ではもっと詳しくて、


そこで天皇は
「そなたの兄のことは許しがたいが、皇后を愛する気持ちは抑えられないのだ。」とおっしゃいました。そして天皇にはまた、皇后を取り戻したいお気持ちがありました。

そこで、兵士たちの中から力が強く、すばしっこい者たちを選り集めて
「あの御子を迎えに行くときに、その母の皇后も奪い返せ。髪の毛だろうが手だろうが、手でつかんだらそのまま引きずり出すのだぞ。」と命じられました。

ところが皇后も、あらかじめ天皇のお気持ちをご存じで、
髪の毛をすべて剃ったうえで、その髪を頭にのせて覆われ、また玉を通した紐を腐らせたブレスレットを作って手首に三重に巻き、
酒で腐らせた衣服を身につけて、ちゃんとした服装のように着ておられました。

そのように準備をなさって、その御子を抱かれて、稲城の外へ差し出しに行かれたのです。
そこで例の力持ちたちはその御子を受け取って、すぐに皇后も捕まえようとしましたが、
その髪をつかめば、髪は勝手に抜け落ち、お手をとるとブレスレットはちぎれ、御衣を握るとそれは破れてしまいました。
そのために御子は連れ戻せたのですが、皇后を取り戻すことはできなかったのです。

とかかれています。


さて、このような悲しい運命の下で育ったホムツワケ王ですが、これからも物語は続きます。


そうそう、丹波の五人の姫たちですが、

垂仁天皇の15年の条(10年後⁉️)

彼女たちの話が出てきます。


15年春2月10日、丹波の五人の女性を呼び、後宮に召し入れた。

長女を日葉酢ヒバス媛、次女を渟葉田瓊ヌハタニ入媛、三女を眞砥野マドノ媛、四女を薊瓊アザミニ入媛、五女を竹野タカノ媛という。


秋8月1日、日葉酢媛命を立てて皇后とし、皇后の妹の三人の女性を妃とした。

ただし竹野媛は、容姿が悪かったので、元の国に返した。それで(竹野媛は)返されてしまったことを恥じて、葛野カドノ(京都市西部)で自ら輿コシより落ちて亡くなった。それで其の土地を名付けて墮国オチクニという。今弟国オトクニというのは訛ったのである。


えええ(;´-`)

竹野媛だけ可哀想なのですが(*T^T)

「古事記」では歌凝比売ウタゴリヒメと円野マドノ比売になってます。


竹野媛は丹波(京都府北部)に竹野川があり、開化天皇の妃にもいて、彦湯産隅命の母です。別伝の「一云」では、5人の父になっている人ですね。

彼女の曾孫に「かぐや姫」という人がいて、垂仁天皇の妃になります。竹野川との関係で、かぐや姫の原型では?ともいわれている人です。


この彦湯産隅命ですが、日子坐王の子の丹波道主命に、彦湯産隅命の子だという別伝もあり、

開化天皇系は、もう丹波というひとくくりになってしまって、混乱が激しいようです(;^_^A


しかし、その開化天皇や丹波と関係深いのが垂仁天皇でして、狭穂彦、狭穂姫も日子坐王の子ですし、丹波道主命もそうです。つまり日葉酢媛は狭穂姫の姪なのです。


私はこの時代に、日子坐王を祖神とする丹後~山城に広がる「丹波族」と三輪王権が手を結んだと思っています。


丹後半島北部では、古墳時代前期後半、このすぐ後の時代に巨大前方後円墳が集中して出現します。

この時代に同盟を組んだ丹波族の人物がちょうど亡くなる時代です。


四道将軍の時もお話ししたのですが、こういう丹波(中心は丹後半島)の重視は、やはり出雲の経済封鎖と関係あるように思います。

それがまた、ホムツワケ王と関係してきます。



皇后日葉酢媛命は、三男二女を生む。第一子を五十瓊敷イニシキ入彦命という。第二子を大足彦オオタラシヒコ尊という。第三子を大中オオナカツ姫命、第四子を倭ヤマト姫命、第五子を稚城瓊ワカキニ入彦命という。

妃渟葉田瓊ヌハタニ入媛は、鐸石別ヌテシワケ命膽香足イカタラシ姫命を生む。

次の妃の薊瓊アザミニ入媛は、池速別イコバヤワケ命・稚淺津ワカアサヅ姫命を生む。


大足彦尊が景行天皇です。

ヤマトタケルのお父さんになります。

少しずつ歴史時代に近づいてきました。


本当はここに相撲の起源が入るのですが、続けて次回もホムツワケ王伝承の予定です。

ぜひご訪問くださいませ。