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今回から垂仁天皇の巻に入ります。

とりあえず読んでみましょう。


活目入彦五十狹茅イクメイリヒコイサチ天皇(垂仁天皇)は、御間城入彦五十瓊殖ミマキイリヒコイニエ天皇(崇神天皇)の、第三子である。

母の皇后曰御間城ミマキ姫は、大彦命の娘である。

天皇は、崇神天皇29年壬子ミズノエネの年春正月1日瑞籬宮に生まれ、生まれながらに秀でた容姿で、壮年になってからは度量も広く、人となりは真理に叶い、歪めたり飾ったりしなかった。(崇神)天皇はたいそう可愛がって、お側にお置きになった。

24歲の時、夢の祥瑞によって、皇太子とされた。


これは、豊城命と皇位をどちらにするか、占ったことを言います。ただ「崇神天皇紀」によると20歳のことらしい(^^)


(崇神天皇)68年冬12月、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)が崩御された。



(垂仁天皇)元年春正月2日、皇太子は天皇に即位された。

冬10月11日、御間城天皇(崇神天皇)を山邊道上ヤマノベノミチノヘノ陵に葬った。

11月2日、皇后(御間城姫)を皇太后と申し上げる。是の年、太歲は壬辰ミズノエタツ。


2年春2月9日、狹穗サホ姫を立てて皇后とする。

皇后は譽津別ホムツワケ命を生む。生まれてから天皇はたいそう可愛がって、いつもお側にお置きになったが、大きくなっても言葉が話せなかった。

冬10月、更に都を纏向マキムクに造り、是を珠城タマキ宮という。


ここで都が纒向に移ります。次の景行天皇も纒向の日代ヒシロ宮なのですが、

纒向遺跡の大殿の遺構は、崇神天皇のものだともいい、卑弥呼のものだとも言いますが、このお二人のものの可能性もあるので、何とも~( ̄▽ ̄;)

また景行天皇で検証してみようと思います。


是の歲、任那ミマナ人 蘇那曷叱智ソナカシチが、国に帰りたいと申し上げた。もしかすると先皇(崇神天皇)の御世に来朝してまだ帰っていなかったのか?


崇神天皇65年7月に来た人です。

グレーの文は後世の加筆だという意見もあります。


そこで蘇那曷叱智を手厚く賞し、よって赤絹一百匹を持たせて、任那王に賜った。しかしながら、新羅人が帰途に妨害してこれを奪った。その二国(任那と新羅)の確執は、このときに始まったのである。


一に云うには、(別伝)

御間城天皇(崇神天皇)の世、額に角がある人が、一隻の船に乗り、越コシの国の笥飯浦ケヒノウラに停泊した。それでそこを名付けて角鹿ツヌガ(福井県敦賀ツルガ市)というのである。

「どこの国の人か。」と聞くと、答えて

「意富加羅オオカラの国王の子、名を都怒我阿羅斯等ツヌガアラシト、亦の名は于斯岐阿利叱智于岐ウシキアリシチカンキという。日本国には聖皇がおられると伝え聞いて、やってきたのだ。穴門アナト(山口県南西部)に到る時、其の国に人がいて、名を伊都々比古イツツヒコというが、私に

『私が是の国の王である。私を除いて他に王はいない。だから他のところへは行くな。』と言ったが、私がつらつらその人となりを見るに、絶対に王ではないと分かった、そこでまた戻って、道も分からず、嶋や浦を流浪し、北の海より回って出雲国を経由してここに到ったのだ。」と言った。

是の時に天皇が崩御された時にあたった。そこでここに留まって垂仁天皇に仕えて3年になった。

天皇は都怒我阿羅斯等に問うて

「そなたの国に帰ろうと思うか?」とおっしゃっると、(都怒我阿羅斯等は)答えて

「そう思います。」と言った。

「そなたがもし道に迷わないで、早くに都に参っていれば、先帝に会って仕えていだであろう。それゆえにそなたの本国の国の名を改めて、追って御間城天皇(崇神天皇)の名を取って、それをそなたの国の名とせよ。」とおっしゃった。そして赤織りの絹をアラシトに賜って、本国に返し遣わした。

それで、その国を名付けて彌摩那ミマナの国というのは、これが元になっている。


そこでアラシトはいただいた赤絹を自分の国の首府に収めたが、新羅の人が聞いて、兵を挙げて、皆でその赤絹を奪った。

これが二国の確執の始めであるという。


別伝では、敦賀ツルガの地名の起源となったツヌガアラシトのことが、任那と新羅の確執の原因となったという話になっています。「日本書紀」としては任那=日本領、新羅=侵略者なので、その発端をとりあえず書こうということでしょう。


ツヌガアラシトは「角がある人」で、敦賀駅前に銅像もありますが、伝説的といえば伝説的なので、渡来系氏族の祖神かな?ぐらいで、置いておけばいいと思うのですが、いわゆる三輪王権になってから半島との交渉が始まったというのが、

「大和朝廷」の主張な訳です。


それを無視して、それより以前の弥生時代に、大和から大陸中原の魏に遣使したということがあるのか?という疑問もわきます。


「日本書紀」は日本の歴史を偉大に見せるように書いていて信用ならん❗といいながら、大和朝廷が「日本書紀」以上に国際関係を結んでいたという論の展開には、違和感を感じます。


同様に、古代史の学説としては、ミマキイリヒコがミマナから来てミマキイリヒコを名乗ったというのはありますが、

崇神天皇(ミマキイリヒコ)の頃に始まった前方後円墳には朝鮮半島の影響はなく、半島系の土器も出土しないとなると、崇神天皇が半島出身というのは難しくなって来ています。


また、239年頃には狗邪韓国(「魏志倭人伝」)と呼ばれた地域は「倭」とされ、弥生式土器が出土しています。

ということは弥生時代後期に、倭人が半島の南端に進出していたのは確実で、


崇神天皇~垂仁天皇の時代に交流が始まる「日本書紀」の「大和朝廷」と、

狗邪韓国を支配していた「魏志」の「倭」が同じとはいえない。


しかしながら一方では、三輪王権は北部九州の葬送の形式も取り入れているとなれば、北部九州の「倭」の系統を引く三輪王権の成立によって、大和と半島との交渉が始まったとする方が、いろんな事を否定せずに話がまとまるように思います。


さて任那は

Wikipediaによると

『駕洛国記』に見える首露王の王妃がはじめて船で来着した場所である「主浦」村の朝鮮語の訓読み(nim-nae)を転写

したという説が有力だそうです。

そこから音便変化して

ニンナがミマナになるそうです。


このように大和朝廷の半島との直接交易が始まるのが4世紀以降なので、これは沖ノ島の祭祀の開始と合ってますね(^-^)


あと……伊都都比古イトトヒコが王様って、場所?的にも伊都国王じゃないの?

とも思いますが、注目されてはいません。


伊都国王だとすると、まだ北部九州に邪馬台国があってもいい時代ですから矛盾はありません。


むしろ大和と半島の付き合いが始まる以前の西日本は、北部九州に交易は依存していたなら、これは伊都国王のような気も……( ・∀・)💧


深入りはやめますが、「日本書紀」には、ン⁉️(・・?と思うような記述があって面白いですね。


なんにせよ、頭から「日本書紀」を否定するのはどうだろうか?なにかしらのヒントが隠れているように思います。

かといって鵜呑みにすれば、それも問題は多いんですけどね💦


一に云うには、(また別伝)

初め都怒我阿羅斯等が、国にいた時、黃色い牛に農具を負わせて、田舍を行っていると、黃色い牛が忽然といなくなった。

すぐに足跡を追うと足跡はある役所の中に残っていた。

その時一人の老人が

「そなたが求めている牛は、この役所の中にいたが、役人たちが

牛が負っている農具から推察すると、殺して食べてもいいだろう。もしその牛の持ち主が返せと言えば、物で弁償すればいい』と殺して食べてしまった。

もし役人に『牛の代わりに何が欲しいか?』と聞かれたら、財宝を望まず、『代わりにここの地域で祀る神をいただきたいと思います。』と言いなさい。」と言った

まもなく役人が来て

「牛の代わりに欲しい物は何か?」と聞くので、

老人が教えた通りに答えた。

そこの祭神は「白い石」であった。そこで白い石でもって牛の代償とした。

それで持ち帰った白い神の石を寝室に置いておくと、

石は美しく麗しい童女オトメになった。それでアラシトはたいへん喜んで、童女おと交わろうとした。しかしアラシトが少し場を離れた隙に、童女は消えてしまった。

アラシトは非常に驚いて、妻となるはずの童女オトメに

「童女オトメよ、どこにいったのだ?」と聞くと、

童女オトメは

「東の方に向かいました。」と答えて言った。


(アラシトは)すぐに彼女を求め追いかけて、ついには遠く海を越えて、日本国に入った。

求めた童女は難波ナニワ(大阪)にやって来て、比賣語曾社ヒメゴソノヤシロの神となった。または豊の国の国前ミチノクチノ郡(豊後国国崎郡=大分県国東市、高田市)で比賣語曾社ヒメゴソノヤシロの神となりました。この神は二箇所で祀られたという。


「童男オグナ」「童女オトメ」とは「日本書紀」では神性のある少年少女で、ロリータではありません(///∇///)


こちらはヒメゴソ神社の起源なのですが

「古事記」には次の説話が載っています。Wikipediaにまとめてあるので引用


新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。

しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛アメノヒボコに遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。


天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神であるという(大阪府大阪市の比売許曾神社に比定)。


天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。


こちらは新羅王子の天之日矛(天日槍)が主役です。

ところが、「日本書紀」では、さっきのツヌガアラシトのすぐあとに天之日矛が出てくるので、明らかにふたりは別の人物です。しかもヒメゴソ神社の話は、

「日本書紀」のツヌガアラシトの別伝

「古事記」の天之日矛の話として出てきて、

「日本書紀」の天日槍アメノヒボコは全く別の話です。


大阪市の比売語曾社 Wikipediaより


それに新羅と任那では、属国と仮想敵国でエラク違います。なんやねんw

ということは主役は外国人なら誰でもよかったのね(^^;)


これは天之日矛が神功皇后のご先祖なので、応神天皇(神功皇后の子)の条に出てきます。年代は不明ですが、系譜ではかなり前の話です。


「日本書紀」では、最初の蘇那曷叱智、都怒我阿羅斯等、天日槍などの伝承が垂仁天皇の時代に詰め込まれているところを見ると、

この時代が後世からみた、外交開始期であったのだろうということで、ここはまとめておこうと思います。


さてこの後すぐに天日槍アメノヒボコが出てきますが、ちょっと話が長くなりますので、次回にします。


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