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以下は律令の整った後世の修飾だと思われますが、とりあえず載せておきます。


(崇神天皇)12年春3月11日、天皇は詔ミコトノリ(詔勅)して


「わたしは初めて皇位をついで、祖霊を祀ることを続けているが、光が当たらない所もあり、徳も行き渡らせてはいない。そこで気候は乱れ、暑さや寒さの正しい変化が失われてしまった。疫病が沢山発生して、国民は災いを受けた。

しかし、今、罪を祓い、過失を改めて、天つ神国つ神を手厚く敬った。また道理を広め、傍若無人の人びとを従わせ、兵を挙げて従わぬ民を討った。


これによって朝廷の政治はやむことなく、下々に世を逃れて隠れるものはない。正しい道の教えは広がり、国民は毎日の生活を楽しんでいる。

異民族は幾重にも通訳を介して我が国を訪れ、海外までも帰化して我が国民になろうとする。


こういう時なので、さらに人民の調査をして、長幼(年齢)を調べ、税や労役のことの次第を知らせよう。」と仰せになった。


世情が落ち着いたので、いきなり課税ですね(^^;)

以下、その内容です。


秋9月16日 初めて人民の調査をして、貢ぎ物(調ミツキ)と労役(庸エダチ)を科した。男の弭調ユハズノミツキ(獣肉や皮革等の狩猟生産物)を、女の手末調タナスエノミツキ(絹・布などの手工業生産物)という。


こういう政を行い、天つ神国つ神ともに和して、風雨も季節に合って、多くの農作物がなった。

家々は充足し、人は増え、天下は太平になった。

そこで崇神天皇のことを御肇国天皇ハツクニシラススメラミコトと褒め称えた。


と、ここでハツクニシラス天皇という名が出てきます。

「古事記」でも初国知らしし御真木天皇と言いますが、


一方の神武天皇は、

「日本書紀」では始馭天下天皇ハツクニシラススメラミコトですが、「古事記」にはありません。古い時代には崇神天皇が初めて国の秩序を作ったと認識されていたようです。


17年秋7月1日、天皇は

「船は天下の大切なものである。今、海辺に住む民は、船がないので徒歩による運送でたいへん苦しんでいる。

そこで諸国に命じて、船舶を造らしなさい。」と詔ミコトノリされた。

冬10月、初めて船舶を造る。


うーん(´-ω-`)💦

大和には船がなかった⁉️

そういえば神武東征の時は、海戦ってなかったような(^^;)

大和の人は船を持っていないとなると、これはたいへん!

魏に遣使でけへんやおまへんか⁉️


でもここに誰も注目してないので、後世の修飾ということかな?ですませときます(^^)

すませときますがw☝️大和の在地勢力は海洋系ではなく、崇神天皇は海洋系だったという見方ができますよね。

「日本書紀」ってよく読むと面白いのはこういうとこです。


48年春1月10日。天皇は豊城トヨキ命・活目イクメ尊=垂仁天皇に詔ミコトノリして、

「お前たち二人の皇子を、わたしは同等に愛情を持っている。

どちらを嗣ヒツギ=皇太子にすべきかわからない。だから、それぞれが夢を見るがよい。わたしはその夢でもって占おう。」と仰せになった。


二人の皇子は、ここに天皇の命を受けて、潔斎沐浴して祈って眠り、それぞれが夢を見た。


夜明けに、兄の豊城命が天皇に報告し、

「わたしは御諸ミモロ山=三輪山に登って東に向き、8回槍を突き、8回太刀を振るいました。」と申し上げた。


弟の活目尊=垂仁天皇は夢の言葉を報告し、

「わたしは御諸山の嶺に登って、縄を四方に張って、粟アワを食べる雀を追い払いました。」と申し上げた。


天皇は夢を合わせて占い、二人の皇子に

「兄は東の方だけを向いていた。まさに東の国を治めるだろう。

弟は広く四方に対していた。わたしの位を継ぎなさい。」とおっしゃった。


4月19日。活目尊=垂仁天皇を立てて皇太子にした。

豊城命は東の国を治めた。豊城命は上毛野君カミツケノノキミ・下毛野君シモツケノノキミの始祖となった。


政治は目配りが大事❗ひとつの方向だけ見ててはダメですね❗というのが日本的(中国の儒教かもしれないが……)な施政者観なのですね。

○○First じゃない(*´艸`*)


それと、国土拡充より内政の充実、重農主義でしょうね。


これが日本人の理想的な君主像かもしれません。崇神天皇が活目尊に位を譲ったのが分かる気がします。


さて、ここも第2子相続になるのですが、もともとの大和在地勢力の姫ではないかと思われるミマキ姫(皇后)の所生という点では、活目尊は長子なのですね。


説話はともかく、活目尊というより(イクメイリ)ヒコイサチが後継であったでしょう。

彦○○という名も欠史八代から続く名前のパターンです。


最近ミマキというのは御纒ミマキなんじゃないかと思えてきました。

纒向遺跡は纒向型前方後円墳より早くに出現している王都なのですが、

ここに吉備と北部九州の勢力からの干渉があって、北部九州の三種の神器や吉備の特殊器台が採用された形で、

古墳が出現したのかとも……

まあ、まだ思い付きの段階なのでこそっとw


豊城命に関しては、関東の雄族毛野ケノ君氏の祖先になるので、一定の敬意をもって語られているように思います。


ちなみに毛野君氏は、古い由緒ある家柄(三輪君)、地方の雄族(筑紫君、毛野君)、皇族系氏族(息長君)などに使われる君姓です。西洋に言えば公爵princeというところでしょうか。


さて、この毛野君氏は後に2つに別れ、西側に住んでいた部族が上つ毛野君カミツケノノキミ、東側に住んでいた部族は下つ毛野君シモツケノノキミとなります。


そして彼らの国は「上つ毛野の国」「下つ毛野の国」と呼ばれるのですが……

もうお分かりでしょうか?


カミツケノの国は、カミツケ→カンヅケ→コウヅケとなり、

奈良時代に「国名はよいイメージの漢字2字で表せ」という命令が出て

「上野国」となります。

今の群馬県です。


シモツケノの国はシモツケの国「下野国」になります。栃木県ですね。


何でこんな読み方なんだ?と思ってたかたは謎が解けました(*⌒∇⌒*)

忠臣蔵の吉良上野介もキラコウヅケノスケですよ。


毛野の国は広かったんですね。


さて、いよいよ出雲征伐です。


って何で~( ̄▽ ̄;)⁉️

国譲りしたでしょー⁉️


と思うのは当然ですが、どうもあれはあれ、これはこれでして(;^_^A

とりあえず読んでみましょう。


60年秋7月14日。天皇は群臣に

「武日照タケヒナテル命一書にいわく武夷鳥タケヒナトリ、またはいう天夷鳥アメヒナトリが、天から持って来たという神宝が出雲大神イズモノオオカミの宮に収められている。これを見たい。」と仰せになった。


そこで矢田部造ヤタベノミヤツコの祖先、武諸隅タケモロズミ一書にいわくまたの名をオオモロズミを派遣して献上させようとした。


当時、出雲臣の祖先の出雲振根フルネは神宝の管理者であったが、筑紫ツクシの国(福岡県)に行っており、(命を受けた武諸隅には)会うことはなかった。


その弟の飯入根イイイリネは天皇の命を受けて、神宝を弟の甘美韓日狹ウマシカラヒサと子の鸕濡渟ウカヅクネに持たせて、献上した。


そうして出雲振根フルネが筑紫から帰って来て、神宝を朝廷に献上したと聞き、その弟の飯入根を責めて、

「数日ぐらい待つべきじゃないか❗何を恐れて、神宝をとられたんだ⁉️」と言った。


これ以来、既に年月を経たが、(振根は)恨みと怒りを抱き、弟を殺そういう思いがあった。


それで弟を欺いて、

「最近、止屋淵ヤムヤノフチに水草が多く生えている。ちょっと一緒に見に行ってくれないか?。」と言った。(飯入根は)そこで兄についてそこへ行った。


それ以前に、兄はひそかに形を本当の刀に似せて木刀を作り、その時は自分でそれを佩ハいていた。弟は本物の刀を佩いていた。


一緒に淵のほとりに来ると、兄は弟に頼んで

「淵の水は清らかで冷たい。一緒に沐浴をしたいものだ。」と言った。

弟は兄の言葉にしたがって、各自で佩刀を解いて、淵のほとりに置き、水の中で水浴びをした。

すると兄が先に陸に上がり、弟の本物の刀を自分で佩いた。

後から上がった弟は驚いて兄の木刀をとり、共に刀を撃ち合おうとしたが、弟は木刀を抜くことができず、兄は弟の飯入根を撃って殺してしまった。


それで世の人は歌って、


八雲立つ 出雲建が 佩ける太刀

葛ツヅラ多サホ巻き 真身サミ無しにあはれ

出雲建が佩いていた太刀は、葛の蔓を立派に巻いてあったが、刀身が無くて哀れだなあ

と言った。


(  -_・)?なんか聞いたことがある話……


そう、実はヤマトタケルの出雲建征伐にそっくりです。



止屋淵↓



ということで、次回はヤマトタケルを引いて、詳しくみていこうと思います。


またのご訪問をお待ちしております。