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さて崇神天皇の時代については、前回のお話のように、

最近の九州での考古学成果では、

博多湾で北部九州と出雲が中心に大陸との交易を行い、西日本の諸地域はむしろ北部九州に依存していたということが推定できるのですが、


そういうことになると、

帯方郡を通じて、魏に遣使した邪馬台国が、北部九州に依存するような形で交易を行っていた西日本のどこかにあるというよりは、北部九州そのものであったというのが自然ではないか……

という考えを呈示させていただきました。


さて、「日本書紀」では、

そんな時代に「四道将軍」として崇神天皇の周辺地域への派兵が語られるわけですが、

まずは四道将軍について原文(現代語訳)をあげておきますね。


10年7月24日、(天皇は)群臣らに

「民を導く根本は、道理を教えて従わせることにある。

今は既に神祇を敬って、災害は皆去った。けれども遠方にいる未開人らは、いまだに政治に従わない。これはまだ道理を教えていないからであろう。そこで群臣より選んで四方に遣わし、我が法を知らしめよう。」と仰せになった。

9月9日、大彦命をもって北陸に遣わし、武渟川別タケヌナカワワケを東海に遣わし、吉備津彦を西道に遣わし、丹波道主タニハノチヌシ命を丹波に遣わした。
そこで詔勅を出して
「もし朝廷の道理を受け入れないものがいれば、直ちに兵を挙げて討伐せよ。」と仰せになった。
そして一同に印綬(はんこと組紐)を授け將軍とした。

これで四道将軍が出立かというと、
このあと武埴安彦タケハニヤスヒコ(孝元皇子)の反乱がおき、

倭迹々日百襲姫命が三輪山の神と結婚し、亡くなって箸墓を建造したという話が続き、

10月22日にようやく出発します。
で、翌11年4月28日に復命して、地方を平定したと報告します。

ということは、倭迹々日百襲姫命が卑弥呼だという方はこの時代が邪馬台国だとされているわけですが、
ややこしくなるのでちょっと武埴安彦と箸墓を飛ばして、
四道将軍の部分を読んでおきます。

冬10月1日、(天皇は)詔ミコトノリして群臣に
「今反乱を起こした者(武埴安彦)はことごとく罰せられ、滅ぼされた。畿內ウチツクニは無事である。
ただし海外の荒ぶる人びとが、騷動を起こすことは未だ止まない。そなたたち四道將軍は、今こそ急いで出発せよ。」
と仰せになった。
22日、將軍らは共に出立した。

これはWikipediaの「四道将軍」の地図に地名を黒字で加筆したものです。



畿内というのは大和、山城、摂津、河内、和泉をいい、今の京阪神地域と奈良県、大阪府全域を指します。
海外というのは外国ではなくて、大阪人が四国や淡路島に行くのを「海外旅行」と言ってた感覚にちかいかな?と思います。今は車で行けるのであまり言わないかw

11年4月28日、四道將軍は、戎夷ヒナを平定した有り様を報告した。
是の歲は、異民族がたくさん従うようになり、国內は安寧でした。

戎夷とは辺境の異民族という意味ですが、この場合はそんなたいそうなものではないです。

ちなみに中国で辺境の異民族をいう場合、住んでる地域で呼び方が違って、
北狄ホクテキ、東夷トウイ、南蛮ナンバン、西戎サイジュウといいますが、
魏志倭人伝の正式名は「魏志東夷伝倭人条」というように、中国から見たら日本は東夷でした。

ここでは戎夷ということで、大和から見て東日本と西日本を指してるんでしょうね。(南蛮貿易はポルトガルの船が東南アジア経由で南から来てたので南蛮です。)

さて、結局何をしたかよくわからない四道将軍ですが(^^;)
「古事記」はちょっと書き方が違うので比較しておきましょう。

またこの御世(崇神朝)に大毘古オオビコ命を高志道コシノミチ=北陸に遣はし、
その子建沼河別タケヌナカワワケ命を東方十二道に遣して、そこの従わない人びとを服従させました。
また日子坐王ヒコイマスノミコを旦波タニワ国(当時は京都府・兵庫県北部全域)に遣して、玖賀耳之御笠クガミミノミカサ、を殺させなさいました。

大毘古オオビコ命は以前の命令通りに、高志コシ国(越=北陸地方)へと行かれました。
その時東より派遣された建沼河別タケヌナカワワケは、その父の大彦命と相津で会って合流しました。そのため、そこを「アイヅ」言います。

これでもって各々の将軍は、遣わされた各国の統治を穏やかに進め、復命しました。
ここに天下は太平となって、人民は富み栄えました。

このように「古事記」と「日本書紀」には差がありますが、時代的には同じ時代に征討が行われています。

また「古事記」では大吉備津日子命誕生の記事のところに

大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二柱相副アイソひて、針間ハリマ(兵庫県南西部)の氷河ヒノカワの前に忌瓮イワイヘを居スゑて、針間を道の口として、吉備国を言向コトムけ和ヤワしたまひき。

とあって、やはり征討のことは書いてあります。

ですからこの時代の越(北陸)、丹波(近畿北部)、吉備(山陽道)、東海道は三輪王権にとって、何か意味のある土地ということができるでしょう。

ここで三輪王権と関係の深そうな纒向マキムク遺跡に目を向けると、
その出土品のうち、土器に特色があるのがわかります。

纒向遺跡では25%ぐらいが地域外の土器で、かなり多いのですが、
地域も西は山口県、東は神奈川県と広範囲におよぶようです。

一つだけ鹿児島県の土器も発見されているのですが、半島系のものは少なく、大陸との交渉のようすが見られないのが、
鉄器が少ないのとならんで「邪馬台国纒向説」の弱点です。
それ以外はそうかも~と思えるほどの遺跡です。

これはWikipediaからお借りしましたが

意外に多いのが東海系、ついで北陸、山陰系となると、吉備、播磨の10%を合わせて、実に¾が四道将軍の範囲なのですね(o゚Д゚ノ)ノ

するとこの四道将軍の派遣先は、戦闘状態というよりは、交易をしていた地域ではないかと思えます。

少なくとも行き来のある地域と言えます。

とくに吉備に関しては、
攻略するべき異民族ではなく、纒向遺跡においては特殊器台の出土から考えてもかなり重要な協力者であり、
神武東征についても、船団を整える基地的存在なのですから、それを今さら平定するというのはすごくおかしいわけです。

若建吉備津日子は吉備氏の祖先ですから、本当は当時から吉備の支配者だったと思えます。

また大彦命は大豪族阿倍氏の祖ですが、
7世紀の斉明朝には阿倍比羅夫ヒラブが、日本海経由(つまりは北陸経由)で蝦夷征伐を行っています。

また子の武淳川別(東海に行った人)のヌナカワは、
大国主命の妃で、翡翠の産地である新潟県の糸魚川にいたヌナカワ姫の名にそっくりです。

この方は「日本書紀」には登場しませんが、ヌナカワとは「玉の川」を意味し、
今の姫川を指すと思われます。
翡翠の女神なのです✨💍✨

姫の子であるタケミナカタ神は、国譲りの際にタケミカヅチ神に敗れ、諏訪湖まで逃げたとされていますが、
地元では姫川を上って信濃(長野県)に行ったとされ、諏訪大社でもタケミナカタ神と共にヌナカワ姫が祀られているようです。
もしかすると武淳川別の名も、姫川とかかわるものかもしれません。

阿倍比羅夫も北陸に基盤があったということでしょうか?

また埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣銘(例のワカタケル大王の剣)にある、
ヲワケの臣の系図の初代がオオビコと読めるので、東国にも何らかの伝承があったことをうかがわせます。
安倍川もありますしね。

阿倍氏といえば、奥州安倍氏(前九年の役)がなぜ安倍氏なのかも謎で、
阿倍氏も安倍晴明の時は字を変えるので、無関係とは断言できません。
こんなことを調べだすと「日本書紀」どころでなくなるので、ちょっとおいておきますが(^^;)

全く適当に人を当てはめているようには見えないですよね。

丹波は以前にシリーズで書いているのですが、大和朝廷が鏡を使って懐柔したと考えられます。
これについては次回まとめるとして、日子坐王は「日本書紀」で抹殺された丹波の祖神だと検証しましたので、やはり丹波政権の主とも言えます。

ですから彼らは、それぞれの地域に基盤を持っていたり、祖神と崇められていたのを、大和朝廷の皇子に作り替えられたと考えられるのです。

また、不思議なことに
三人が三人とも皇后の父だという伝承があります。

崇神天皇はおそらくは大和の在地政権の御間城ミマキ姫に入婿して御間城入彦なのだと考えられるのですが、
系譜的には大彦命が父だとされています。

また垂仁天皇の最初の皇后沙穂サホ姫は日子坐王の娘、彼女の死後は丹波道主命の娘、日葉酢ヒバス媛です。

そしてヤマトタケルの母とされる
景行天皇の皇后、播磨稲日大郎姫ハリマノイナビノオオイラツメは、「播磨国風土記」に印南別嬢イナミノワキイラツメという名で、「大帯彦天皇」との伝承が数々残り、その出自は和迩ワニ氏の祖、彦汝茅ヒコナムチと吉備比売の子になっているにもかかわらず、
「古事記」で若建吉備津日子の娘とされています。吉備氏を姻戚に造作しているように思います。
※「日本書紀」では天皇を生まないと出自を書かない。

このように姻戚に作っているということは、
三輪王権にとっての重要な在地政権という意識がのちのちまで伝わって、万世一系化の過程で姻戚→皇族と変化しながら皇統譜に組み込まれたように思います。

ところで、ちょうどこの崇神朝は前方後円墳が出現する時期に当たっています。

中でも巨大古墳の最初であるという箸墓が遺跡内にあるので、ここを前方後円墳発祥の地と言っても過言ではないでしょう。

じつはこの箸墓の½の大きさで建造されたという出現期の古墳が3つあります。
これは纒向遺跡とめちゃくちゃ関係深い❗( ・∀・)と思われますよね。

それが
京都府木津川市の椿井大塚山古墳
岡山県岡山市の浦間茶臼山古墳
奈良県天理市の黒塚古墳
です。

この黒塚古墳は1997年に、1面の画文帯神獣鏡と33面の三角縁神獣鏡が、ほぼ埋葬時の配置で出土したことで知られた有名な古墳なのですが、

椿井大塚山古墳は、黒塚古墳の発掘前までは
当時最多の三角縁神獣鏡32面が出土したことで有名で、
それ以外にも三角縁神獣鏡より少し古い内行花文鏡2面、
方格規矩鏡1面、
画文帯神獣鏡1面
が出土し、総計36面以上の鏡と武具が出土しています。

この古墳のある場所は、
大和(奈良県)から山城(京都府南部)に入ったところで、

日子坐王の子、山代之大筒木真若ヤマシロノオオツツキマワカ王はこの辺りの綴喜ツヅキ郡の人のようですし、
姪の丹波能阿治佐波毘売タニワノアジサワビメを娶って生んだ迦邇米雷カニメイカヅチ王が主祭神の朱智神社もあります。
彼の妃も丹波之遠津臣の女の高材タカキ比売で息長宿禰オキナガスクネ王(神功皇后の父)を儲けます。

そういったことから、ここは日子坐王や丹波の政権と深い関係のある土地なのです。

すると岡山の浦間茶臼山古墳は吉備氏のものでしょうし、(残念ながら副葬品は盗掘されてなかったのですが)

黒塚古墳のある天理市の和珥ワニ坂は、飛ばした埴安彦の叛乱のところで、大彦命と関係のある地名です。

これらの古墳はなぜか、四道将軍……というより、
大彦命、日子坐王、吉備津彦の三人と結び付くのです。

四道将軍は、中国風の将軍派遣の物語として、さらっと流されることが多いのですが、はたして実態のない創作なのでしょうか?

次回はこの3人について、もう少し深掘りして行くつもりです。

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