ご訪問ありがとうございます。

少し間が空いたのですが、
前回は欠史八代を、磯城県主を後ろ楯に
(唐古・鍵遺跡から見ても、かなり経済力があったのでは?)、族長的地位を継承していた集団だという可能性を考えてみました。
なんといっても安寧天皇の和風諡号シキツヒコタマデミと同じく、兄磯城弟磯城の総称も「磯城津彦」なんですものねえ……

そこで順次「日本書紀」を見てみますと

大日本彦耜友オオヤマトヒコスキトモ(懿徳イトク)天皇は、磯城津彦玉手看シキツヒコタマデミ(安寧)天皇の第二子なり。
母を渟名底仲媛ヌナソコナカツヒメ命、事代主神の孫で、鴨王の娘なり。
安寧天皇の11年1月1日、立ちて皇太子となる。年16歳。
安寧天皇38年冬十二月、安寧天皇崩。

懿徳天皇元年春2月4日、皇太子(懿徳天皇)が天皇位につく。
秋8月1日、安寧天皇を畝傍山南御陰井上陵に葬る。
9月、皇后を尊んで皇太后と申す。
是年、太歲は辛卯カノトウ。

2年春正月5日、都を輕カルの地に遷す。是を曲峽マガリオの宮という。
2月11日、天豊津媛アマトヨツヒメ命を皇后となす。
一に云わく、磯城縣主葉江ハエの弟の猪手イデの娘、泉媛という。
一に云わく、磯城縣主太眞稚彦フトマワカヒコの娘飯日イイヒ媛という。
后は、觀松彦香殖稻ミマツヒコカシエネ(孝昭)天皇をお生みになった。
一に云わく、天皇の同母弟に武石彦奇友背タケシヒコアヤシトモセ命がいる。
22年春2月12日、觀松彦香殖稻尊を立てて、皇太子となす、年18歳。

34年秋9月8日、天皇は崩御された。

皇后の出自がありませんが、次の孝昭紀には従妹だと出ています。
「古事記」では

(懿徳)天皇は師木県主シキノアガタヌシの祖の賦登麻和訶比売フトマワカヒメ命、またの名を飯日比売イイヒ命を娶って、御真津日子訶恵志泥命ミマツヒコカシエネと多芸志比古タギシヒコ命を産みました。

と、第2の一云と同じです。弟がいるのも別伝に近い。オオヤマトヒコは大きく捉えると日本をさすのですが、この頃の発想では、まだ倭直氏の本拠の大和郷をさしているだけのように思います。


觀松彦香殖稻ミマツヒコカシエネ(孝昭)天皇は、大日本彦耜友オオヤマトヒコスキトモ(懿徳)天皇の太子なり。
母の皇后天豊津媛命は、息石耳オキソミミ命(懿徳天皇の弟)の娘なり。

ミマツというのはよくわからないのですが、第10代の「ハツクニシラス天皇」の崇神天皇はミマキイリヒコで、皇后がミマツヒメです。

ミマという地名もあったようにも思いますが、残ってないのです。

「孝昭天皇紀」
(孝昭)天皇、懿徳天皇22年春2月12日、立ちて皇太子となる。
34年秋9月、懿徳天皇崩。
明年冬10月13日、懿徳天皇を畝傍山南纎沙谿ミナミノマナゴノタニノ上カミノ陵に葬る。

孝昭天皇元年春正月9日、皇太子は天皇の位につく。
夏4月5日、皇后を尊んで皇太后と申す。
秋7月、都を掖上ワキガミに遷す。是を池心イケゴコロ宮という。是年、太歲丙寅ヒノエトラ。

29年春正月9日、世襲足媛ヨソタラシヒメを皇后となす。
一に云わく、磯城縣主葉江ハエの娘渟名城津媛ヌナキツヒメ。
一に云わく、倭国の豊秋狹太媛トヨアキサダヒメの娘大井媛オオイヒメなり。

ここは「古事記」に尾張連の祖オキツヨソの妹ヨソタホヒメとあり似ていますが、磯城県主の皇后の伝えもあるのが気になります。

尾張氏はもともと葛城の高尾張にいたとされる氏族です。神武天皇に制圧された土地ですが、そういえばこの孝昭天皇は都も御陵も葛城です。葛城に縁があるのですが、一方では磯城県主の后妃の別伝があります。



若井敏明さんの指摘では
欠史八代の各天皇は全員が父子であるが、一見して明らかなように数代にわたって同世代の后妃と婚姻を結んでいるとされます。

実際に「日本書紀」一云によれば、
第3代安寧天皇の后妃川津媛、
第5代孝昭天皇の后妃渟名城津媛、
第6代孝安天皇の后妃長媛は、
いずれも磯城県主葉江の娘とされ、
第4代懿徳天皇の后妃泉媛は葉江の孫とされています。

けれども、これは父子継承している3-4世代離れた天皇がほぼ同じ世代の女性を后妃としたことを意味し、

即ちこの系譜の姫たちの夫である安寧、孝昭、孝安天皇の世代も実際にはそれほど隔たってはいなかったであろうことを意味するといわれているのです。

つまり、初期の天皇についてはまず天皇名や后妃の出自のみが伝わった時期が存在し、後にこれを一系で繋ぎ合わせたことで、現在見られるような「記紀」の系譜情報が形成されたと見られるといわれるのです。
これは、欠史八代の系譜が
義江明子さんのいう「祖オヤの子」をつないだ系譜であったということをうかがわせるものです。

ということは、実在なのか、祖先伝承として伝わっていたものか、とりあえず全く無から創作したわけでもなく、何らかの言い伝えや金石文があったようにも思えますね。

后は天足彦国押人アメタラシヒコクニオシヒト命・日本足彦国押人ヤマトタラシヒコクニオシヒト天皇をお生みになった。
68年春正月14日、日本足彦国押人尊を立てて皇太子となす、年20歳。
天足彦国押人命は、此れ和珥ワニ臣等オミラの始祖なり。
83年秋8月5日、孝昭天皇崩。

続いて第6代孝安天皇紀です。

「孝安天皇紀」
日本足彦国押人(孝安)天皇は、觀松彦香殖稻(孝昭)天皇の第2子なり。
母を世襲足媛ヨソタラシヒメといい、尾張連遠祖瀛津世襲オキツヨソの妹なり。
(孝安)天皇は、孝昭天皇の68年春正月、立ちて皇太子となる。
83年秋8月、孝昭天皇崩。

(孝安天皇)の元年春正月27日、皇太子は天皇の位につく。
秋8月1日、皇后を尊んで皇太后とする。是年、太歲己丑ツチノトウシ。

2年冬10月、都を室ムロの地に遷す。是れを秋津嶋宮という。
26年春2月14日、姪の押媛を皇后とする。
一に云わく、磯城縣主葉江の娘、長媛。
一に云わく、十市トオチ縣主五十坂彦イサカヒコの娘、五十坂媛イサカヒメ。
后は大日本根子彦太瓊オオヤマトネコヒコフトニ天皇をお生みになった。
38年秋8月14日、孝昭天皇を掖上ワキノカミノ博多山ハカタノヤマノ上カミノ陵。

いくら殯が長くても38年はないと(;^_^A
年代の引き延ばす場所を間違えたかな?

76年春正月5日、大日本根子彦太瓊尊を立てて、皇太子とする、年26。

これも結婚24年目に生まれたことになります(*´艸`*)
年次については、二倍暦説もあるのですが、やっぱり伸ばされているのだと感じます。

102年春正月9日、天皇崩。
👆️だもんなあ(^^;)

同じような記述の繰り返しですが、次は少し印象が変わります。
あの卑弥呼かも⁉️というヤマトトトビモモソヒメが出てきます(*^▽^*)

それで、こんな調子でお退屈でしょうし、ここからは次回に回すとして
ここでこれまでの天皇の宮と御陵の場所を示してみます。



こうして見ると、御陵はともかく、宮はせっかく制圧した磯城郡から遠く、葛城に集中しています。

葛城というのは、大国主命の子の事代主神が名を変えたとみられる一言主神社、同じく大国主命の子アジスキタカヒコネの鴨都波神社など国津神の土地です。

奈良盆地北西部の登美までを制圧した神武天皇の末裔にしては南部に引きこもり過ぎていはしまいか?

いや、磯城津彦であった弟磯城も臣従したのなら、もっと中原に覇を唱えてもよいではありませんか?

この地図を見ると、
神武天皇以外の天皇は、おそらく葛城地方を中心に勢力をもった一統であろうと考えられます。

そして、その時代には磯城県主が勢力を保っていて、天皇とされる一統は、
磯城県主と共存していたのではないか?

とくに②綏靖⑤孝昭⑥孝安の各天皇の宮に近い御所ゴセ市名柄ナガラからは銅鐸が出土しています。

ここから考えて、
これらの天皇は磯城津彦の本拠と考えられる磯城郡の唐古・鍵遺跡の全盛期(ここには銅鐸の工房がありました。)、つまり纒向マキムク遺跡の出現直前にいたのではないか?
という推測を成り立たせることができるわけです。

一方、神武天皇の物語は、吉備の援助を受け、兄磯城を滅ぼし、弟磯城を臣従させているのですから、纒向遺跡の出現とリンクしているようです。

ですから欠史八代は部分的には違うとはいえ、
系譜や宮、陵墓などは何らかの古い王統の伝承を、神武天皇のあとに挿入したのではないか?
と考えられるのです。

ところが、欠史八代といっても第7代の孝霊天皇からは、少し雰囲気が変わります。
ここからは次回になりますが、

最後に……
なぜこういう作為が行われたか?ということは、第10代の崇神天皇を読んでみないと答えが出ません(^^;)

次々回になりますが、しばしお待ちくださいませ((*_ _)ペコリ

それでは、次回もまた
ご訪問をお待ちしております。