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さあ‼️神武東征もいよいよ大詰め❗

ナガスネヒコとの決戦になりました

ヽ( `皿´ )ノ☆ (`へ´*)ノ


12月4日、皇軍は長髄彦ナガスネヒコを攻撃した。何度も戦ったが勝つ事はできなかった。そのとき急に空が暗くなって、氷雨ヒサメ(霰混じりの雨)が降った。

そこに金色のオーラのある鵄トビが一羽飛んで来て、天皇(ホホデミ)の弓の弭ハズ(先端)に止まった。その鵄は光り照り輝き、まるで雷光のようだった。

これによって長髄彦の兵士たちは目が眩んで、もはや力を入れて戦わなかった。


これはけっこう有名なシーンで、よく絵になっています。神武天皇と言えばこのシーンなのですが、「古事記」にはありません。なんででしょ⁉️( ´△`)残念

戦前は「金鵄」というタバコや、軍人に授与される金鵄勲章などがありました。

でも「古事記」にないので、後付けか、そうでなければあんまり有名ではない話だったのでしょうか?
葵祭で有名な京都の上賀茂神社、下鴨神社では、
金鵄および八咫烏ともに、祭神の賀茂建角身カモノタケツヌミ命の化身とされていますが、じゃあ八咫烏かというと、そこは「日本書紀」には書いてありません。

長髄ナガスネはそこの邑ムラのもともとの名であった。それによってその人の名にしたのである。

皇軍が鵄トビの瑞兆を得たので、その頃の人々はここをを「鵄トビの邑」と名付けた。今、「鳥見トミ」というのはこれ(鵄の邑)が訛ったのである。


奈良市西部から生駒市東部には「富雄トミオ」とか、最近のニュータウンでも「登美ヶ丘」などがあります。もとの「添下郡鳥見郷」が由来ですが、この鳥見トミの起源が、金鵄だというのです。


ところが「古事記」では長髄彦を「登美能那賀須泥毘古トミノナガスネビコ」といい、「登美毘古トミビコ」と呼ぶことも多く、

妹の名前も「古事記」では登美夜毘売トミヤビメ、「日本書紀」でも三炊屋媛ミカシキヤヒメ以外に鳥見屋媛トミヤビメとも伝えているので、もともとここはトミであったと思えます。

もし鵄トビ→鳥見トミならば、この話はナガスネヒコ以前の地名起源説話で、

「古事記」は無視したけど、

「日本書紀」の編者は神武天皇の話として入れ込んだ、ということになります。



かつて孔舍衞クサカでの戦いで、五瀬命イツセノミコトは矢に当たってみまかられた。天皇(ホホデミ)は、そのことを忘れずにおられて、常に憤怒の思いを抱いていた。それでこの戦いでは、心中に必ず長髄が彦を討ち取ろうと思っておられた。

それで歌を歌われた。


みつみつし  力に満ちた

来目の子らが  来目の兵らの

(垣本に)粟生アワフには (垣根の)粟畑には

臭韮カミラ一本ヒトモト  匂いの強いニラが一本

其のが本 その根元や

其の芽つなぎて その芽を抜くように

撃ちて止まむ  やっつけてしまおう


また歌われるに


みつみつし 力に満ちた

来目の子らが 来目の兵らが

垣本に 垣のもとに

植えし椒ハジカミ    植えた山椒は

口ひびく 口の中でピリピリする

我は忘れず 同じような辛さを私は忘れない

撃ちてし止まむ  やっつけてしまおう


それで再び兵士を送って速攻した。これら全ての歌はみな「来目歌クメウタ」という。これは歌った人=来目部を指して名付けたものである。


('_'?)これらの歌は来目の兵が歌ったってことですね。ホホデミが歌ったわけではなく?

「日本書紀」のここの担当者は、ホホデミが歌ったことにしたのですが、

例によって「久米歌」として伝承されていたものをうっかりコピペしたんですかね?


「古事記」のほうはもっと歌以外の描写が少ないので、もとは歌物語だったのでしょう。



そのとき、長髄彦は使者を派遣して天皇(ホホデミ)に

「以前、天つ神の御子がおられて、天磐船アマノイワフネに乗り、天より降りて来られました。

その名を櫛玉饒速日命クシタマニギハヤヒノミコトと申し上げます。


この人物は私(長髄彦)の妹の三炊屋媛ミカシキヤヒメ亦の名は長髄媛、亦の名は鳥見屋媛トミヤビメを娶って、ついには子供も生まれました。その子供の名前を可美眞手ウマシマデノ命といいます。

私は饒速日命を君主として仕えています。天つ神の子とあろうお方が、どうしてお二人もあるのでしょうか?

どういうわけで(あなたは)更に天つ神の子と名乗って、他人の国を奪おうとするのでしょうか? 

私が推し量るに、あなた偽物ではないでしょうか?」と言ってきた。


天皇(ホホデミ)は

「天つ神の子はたくさんいるものなのだ。そなたが君主と仰ぐ方が本物の天つ神の子ならば、必ず表物シルシ(証拠の品)があるはずだ。それを見せなさい。」とおっしゃった。


長髄彦はすぐに饒速日命の

天羽々矢アメノハハヤの矢を一本と

步靫カチユキ(携帯用の矢入れ)を天皇(ホホデミ)に見せました。

天皇(ホホデミ)はそれをご覧になり

「本物だ」と仰せになり、こちらからも

天羽々矢アメノハハヤと步靫カチユキを示された。

長髄彦はその表物シルシを見て、ますます恐れ畏まる気持ちを抱いたものの、

だからといってすでに武器を準備して、その機運を、いまさら途中で止めてしまうわけにはいかなかった。

こうしてなお戦いに固執して、改心することはなかった。


う~ん(´-ω-`)、ここまで読むとナガスネヒコの言い分にも理がありますよね。


ナガスネヒコ自身はむしろ天つ神を敬って仕えていたのが、そこにまた天つ神をなのるヤツがきて、自分の国に攻めかかってきたのです。


ところが天つ神はたくさんいる。高天原の支配層はみんな天つ神なのです。

ナガスネヒコは単にそれを知らなかっただけで、自分はニギハヤヒを君主と仰いで天つ神に仕えていたので、振り上げた拳が下ろせなくなってしまったのです。

ニギハヤヒがその事をちゃんと言わずに、自分は天つ神だと言って威張ってたんじゃなかろうか?と思っちゃいますよね。


饒速日ニギハヤヒ命は、初めから天つ神が大切にしているのは天孫、つまり天照大神の子孫であると知っていた。

それに長髄彦はその性格が素直でないのでので、天と人との関係を教えても、理解できないと見て、殺してしまい、家臣らを率いて帰順した。

天皇(ホホデミ)は以前から饒速日命が天から降りたと聞いていたので、今こうして忠誠を示したことで、さっそく褒めて可愛がった。この饒速日命が物部氏の遠い祖先です。


出雲の国譲りでは天穂日命や天稚彦命が先発隊として交渉に行っていましたが、どちらも敵に籠絡されて失敗に終わっています。


出雲の服属は古墳時代になってからというのが本当のようですが、葦原中津国の平定の方法として、もしかすると先に行われた大和の平定の方法が投影されているようにも見えます。あるいは高天原にとっては、どこかを平定するときは、

先発隊を送ることから始めているのかもしれません。


ですから、ニギハヤヒも先発隊として大和に行ったものの、ナガスネヒコが有り難がってくれるので、天つ神として良い思いをしていたものの、

天孫が来たためにしれっとナガスネヒコを裏切ったようにもみえます。


なんだかな~( ̄▽ ̄;)

まあ、史実かどうかはわからないんですがw

ここは「古事記」では、「撃ちてしやまむ」の歌が、兄猾エウカシ討伐も一緒に語られて、ニギハヤヒが降参してきます。


ナガスネヒコの去就は分かりません。

しかもニギハヤヒ「天つ神の御子、天降りましぬと聞きしかば、追ひて参降り来つ」と言います。ということは、後を追って降りたっているんですよね?

どうも神武東征はリアルなのは宇陀のあたりの磯城彦のところぐらいで、

久米歌の起源を語ることと、

ニギハヤヒが天皇に仕え、物部氏になるというだけで、

それは久米部を率いる大伴氏と、

石上神宮で神宝を守る物部氏の伝承がもとになっているように思います。


もしかすると神武東征は、磯城の地を落とすことだけであったのかもしれませんが、たとえそうであっても纒向遺跡の出現とは無関係とは言えないでしょう。


中世になってナガスネヒコには安日彦アビヒコという兄がおり、東北に逃げて奥州安倍氏や安東氏、秋田氏になるという伝承が生まれますが、

ナガスネヒコとの決戦が本当にあったのかどうかも、この時代としては疑わしい以上、そこに史実性を認めるのは行きすぎな気がします。


己未ツチノトヒツジの年の2月20日、

天皇(ホホデミ)は将軍らに命じて、兵卒を選んだ。


このとき層富縣ソオノアガタ(生駒市、奈良市西部)の波哆丘岬ハタノオカサキ(奈良市赤膚町)には新城戸畔者ニイキトベという者がいた。

また和珥坂下ワニノサカモトには居勢祝コセノハフリという者がいた。

臍見ホソミの長柄丘岬ナガラノオカサキ(奈良県御所ゴセ市名柄)に猪祝イノハフリという人物がいた。

この三ヶ所の土蜘蛛(先住民?)は、どれも武力に頼んで、従わなかった。

天皇(ホホデミ)はそこで、軍の一部を派遣して、皆殺しにした。


また、高尾張邑タカオワリノムラ(御所市森脇)にも土蜘蛛がいた。その人の様子は、胴が短く、手足は長い。侏儒ヒキヒトと似ている。

皇軍は葛カズラ(蔓草)の網を編んで、一網打尽にして殺した。それで改めてその邑を葛城カズラキといった。


名柄には銅鐸が出ています。

赤膚も赤膚焼という陶器があるので、金属鋳造の歴史があった可能性も……

そして高尾張は熱田神宮(名古屋市)で三種の神器の草薙剣を奉斎してきた尾張氏の発祥の地です。

こういった場所が神武軍によって征服されたというのは、どういう意味があるのか?

これは次の欠史八代とも関わるので、またの機会に考えるつもりです。



磐余イワレの土地の古い名前は片居カタイといい、或いは片立カタタチといいます。

我が皇軍が敵を滅ぼすに至って、大軍が集まって満ちた。(=満めりイハメリ)

それで磐余イワレと改名しました。

(注;これは前段では兄磯城軍が満めり→磐余となっていて矛盾)

ある人がいうには

「天皇は昔、嚴瓮イツヘ(お供え用の皿)に乗せた粮オモノ(食べ物)を神に供え、軍を出して西の敵を征伐しました。

このときに磯城シキの八十梟帥ヤソタケルがそこにいわみ(集まり)いた。

果たしてかれらは天皇と激しく戦い、ついに皇軍のために滅ぼされた。

それで、そこを名付けて磐余邑と言うようになった。」ということである。


また皇軍が立って雄叫びをした場所を猛田タケダ(橿原市東竹田)という。城キを造った所を城田キダという。

また敵が戦死し倒れた屍体が肘を枕にしていた所を頰枕田ツラマキダ(未詳)という。


天皇(ホホデミ)は前年の秋九月をもって、密かに天香山の埴土ハニツチを取って、八十の平瓮ヒラカ(皿)を作り、自ら齋戒して諸々の神を祀り、ついには天下を平定した。そこで土を取った場所を埴安ハニヤスという。


ここからは勝利宣言です。中国の古典からの引用が多いんですけどね(^^;)


3月7日、天皇は

「わたしが東征に発ってから、6年になる。天つ神の霊威を被ることを頼り、敵は殺された。

辺境はまだ静まらず、残党はまだ力を持っているが、大和の内は静まった。まことに皇都を設けて、宮殿を造作することにしよう。


このように世はまさに芽吹く時であり、民の心は素直であるが、穴の中に住んで、古い習慣が残っている。だが賢明な法を立てれば、道理が広まるのは時間の問題であろう。民の利益になることならば、どんなことでも聖人の行うことに妨げはない。


まさに私は山林を開き、宮殿を造って、天皇の地位について、民を静めよう。上は天つ神が国を授けてくださった徳に答え、下々には皇孫の正しい道を育ててくださった御心を広めよう。


こうして後に六合クニ(東西南北と天地)を一つにして都を開き、八紘ハッコウ(北、北東、東…の全方位)を覆って「宇イエ」にすることは、良いことではないか。

見ればその畝傍ウネビ山の東南の橿原カシハラはまさに国の中央ではないか。ここに都をおくことにしよう。」とおっしゃった。


この月に直ちに役所に命じて、宮殿を作り始めた。


戦前のスローガンであった「八紘一宇」は、まさにここからの引用です。


こうして橿原に都を作ったホホデミは着々と統治を進めて行きます。


次回はいよいよ即位ですね。

それでは、またのご訪問をお待ちしております。