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歌の検証に入る前に、白鳥伝承のモデルの可能性として、最初に来目皇子に注目しましたが、
今回は来目皇子の周りに目を向けて、白鳥伝承の成立を考えてみようと思います。
ヤマトタケルの死に際して、大和から后たちと御子たちが能褒野ノボノ(三重県亀山市)に下り、
「大御葬の歌」となる4首の歌を歌うわけですが、
筑紫で亡くなった来目皇子の殯が周防スオウの娑婆サバ(山口県防府市)で行われたことに似ていること、
この4首の歌が詠まれた後に陵墓のことが出てくること、
などから、ここの場面は「殯」の儀礼を示しているということを検証しまいりました。
そして、そこに詠みこまれた田から磯への移動は、もっと古い時代の実際に共同体の中から海の彼方へ死者の魂を送っていた様子が再現されていると思われることから、
それは天若日子の葬儀の例から推測するに、
4首の歌は「神人」によって演じられた歌舞の儀礼の「地謡」であり、
天皇の大御葬でも歌われていたものが、ヤマトタケルの葬送の歌に取り入れられたものではなかったか。
と、前回まではこのように考えてみました。
この葬礼で行われる「歌舞」=「遊び」の存在は、吉井巌氏や前川明久氏によって
来目皇子の葬礼をつかさどり、来目皇子やヤマトタケルの陵墓のある古市に本拠地を持つ土師ハジ氏を通じて、より明確なものとなると指摘されています。
そこで土師氏について見ておくと、
Wikipediaからの引用ですが
土師氏は野見宿祢を祖先とする氏族で、野見宿祢については、『日本書紀』垂仁7年7月7日条にその伝承が見える。それによると、大和の当麻邑に力自慢の当麻蹶速という人物がおり、天皇は出雲国から野見宿祢を召し、当麻蹶速と相撲を取らせた。野見宿祢は当麻蹶速を殺して、その結果、天皇は当麻蹶速の土地を野見宿祢に与えた。そして、野見宿祢はそのままそこに留まって、天皇に仕えた、とある。(中略)
野見宿祢に関する2つ目の伝承として『日本書紀』垂仁32年7月6日条があり、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命が亡くなった。それまで垂仁天皇は、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していた為、群臣にその葬儀をいかにするかを相談したところ、野見宿祢が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人のかわりに埋めることを天皇に奏上し天皇はこれを非常に喜び、その功績を称えて「土師」の姓を野見宿祢に与えたとある。
というように、出雲国出身と伝わる氏族で、始祖の野見宿禰ノミノスクネは相撲発祥の人物であるばかりか、
倭彦考で出てきた、埴輪の創案者です。
埴輪の方は前にもお話ししましたが、吉備の特殊器台と呼ばれる土器がもっとも初期のものと考えられていますが、
出雲の弥生時代の四隅突出墓からも吉備の特殊器台が出土しています。
また桜井市の三輪山の南東に「出雲」という地名があり、そこの十二柱神社には野見宿禰の顕彰碑があるらしいのですが、
吉備の特殊器台と出雲王権、大和の三輪王権を結ぶ何かがあるのは確かです。
垂仁朝の出雲フルネの討伐を行ったのは吉備氏の大吉備津日子ですが、野見宿禰は早くに大和側についた出雲系の氏族と思われます。
というのは、野見宿禰の祖先神が天穂日命といい、天照大神の子供なのです。
今の出雲国造家と同祖で、高円宮家の典子女王が嫁がれた千家国麿さんが出雲国造家の末裔に当たりますが、
ここは大国主を祀るために高天原から遣わされた氏族で、
角川源義さんによると出雲東部の意宇地方には早くから大和の影響があるようで、ここにいた意宇オウ臣というべき氏族が早くに大和に恭順して、
出雲平定ののちに大国主命の祭祀を任されて出雲国造家になったと思われるのです。
野見宿禰もここと同系統になりますので、早くに三輪王権に恭順して大和に出てきたのでしょう。
三輪付近には「出雲」という地名も残っています。
宿禰はこの時埴輪を提案したことで、末裔であるこの土師氏も葬礼を担当する氏族になったのですが、
その本拠地(本貫)は大阪府の南部、藤井寺市の「土師ノ里ハジノサト」(まんま地名で残っております。)だとされていてここにあるのが、藤井寺市と南側の羽曳野市にまたがる古墳群が古市古墳群なのです。(世界遺産)
そこの道明寺天満宮はもともと土師氏の神社で、天穂日命と菅原道真を祀っていて、実は菅原氏も土師氏の末裔なのです。
平安時代には土師氏系の氏族は学者の家になっていて、菅原氏もそうですがもう一系統の大江氏は、百人一首の大江千里(ミュージシャンじゃないですよ)、中納言匡房、赤染衛門、和泉式部と有名歌人も輩出したうえ、
昨年「鎌倉殿の13人」で、注目された大江広元は、鎌倉幕府の創始に力を発揮しています。(ちなみに戦国大名の毛利元就も大江氏系です。)
さて「日本書紀」では天武天皇の殯の記録が、結構詳しく残っているのですが、
持統2年11月に天武天皇の殯宮で楯臥舞タテフシノマイが行われています。
この舞は土師氏と文アヤ氏が行うものですが、こうした舞に土師氏が参加し、かつそれが殯宮で行われているのは気になります。
また古来、天皇の葬礼を行っていた部を遊部アソベと言い、これも神祀りの歌舞を行っていたと考えてよさそうですが、
この遊部が古市にいたことが「令集解」という律令の注釈書に見え、土師氏の葬礼の歌舞に遊部が参加したことも想像できます。
そういう事実を踏まえると、ヤマトタケルの白鳥陵が、来目皇子と同様に、古市にあると伝わるのも理解できますね(^^)
特に最後が「礒」まで追いかけるというところは、「脳の磯」が出雲にあることと土師氏が出雲出身であることととに強い関係が見いだせるように思います。
出雲神話では海の彼方に「常世」や「妣ハハの国」があるので、磯がこの世とあの世の境界になるわけです。
また出雲をめぐっては「丹波」の日子坐王の孫に当たるホムツワケ(垂仁天皇皇子)に
出雲まで白鳥を追っていく伝承があり、
それが「日子坐王系譜」ともふかくかかわるばかりか、出雲神宮の創建に繋がります。
白鳥を追うという発想は、もしかするとここから湧きだしたものかもしれません。もともと白鳥伝承が小碓命に関して語られていたときは、小碓命は伊吹山か琵琶湖畔で白鳥になっていたと思われます。
それは穀霊からの変身でした。
ところが
◇モデルの来目皇子が聖徳太子の同母弟
である。
◇ヤマトヲグナと聖徳太子に新羅花郎
のイメージが共通する。
◇餅が白鳥になり、稲荷山に降り立つと稲になったという伝承は、聖徳太子の側近の秦河勝の秦氏のものである。
◇白鳥=穀霊は大碓、小碓の物語、新羅花郎はヤマトヲグナの物語で、
もとは西征の英雄で景行天皇の皇子であった小碓命の伝承を作るために取り入れられもので、
持統朝以降に合体した景行天皇の4代前の東征の英雄「原ヤマトタケル」は反映されていない。
ということから、推古朝の「天皇記」「国記」の編纂の時には、白鳥がヤマトタケルの死霊として古市に飛んできたということになったのだと思います。
ところが大御葬歌との関係でいうと、
「日本書紀」にはこの歌のことは一切でないので、
これは「古事記」の作者が、古市と土師氏の関係に着想を得て、
ヤマトタケルの物語を美しく締めくくるのに大御葬歌を効果的に使ったといえます。
ではこのような殯の呪術的な歌舞を、白鳥になって飛び行くヤマトタケルの魂を妃や皇子が追うというクライマックスのBGMに変えてしまったのは誰かというと、
やはりわたしは柿本人麻呂であると考えてしまいます。
西郷信綱氏は、人麻呂を挽歌詩人といわれましたが、
人麻呂の挽歌は残された舎人や家族に目が向けられています。
松本洋子さんによると、
人麻呂以前、挽歌とは身近な人が自分の個人的な感情を歌うものだった。逆に言えば、人々は自分の悲しみに立ってしか挽歌を歌うことはできなかった。
だが人麻呂の時、それは他人の立場を考えて作ることが可能になった。この人の妻はこう思っているだろう。夫はこう嘆くだろうと彼は見通すことができた。人麻呂は多面的に<死>を知り得た初めての歌人だ。それは殯宮挽歌を繰り返し作ることで磨かれ、旅を通して見聞を広めたことで完成したのだろう。後宮や家の中だけで生活していた女性には、決して到ることができなかった世界だ。その点天智の夫人で、宮廷の公儀の歌人でもあった額田王が、天智挽歌群に多人数の視点で歌った挽歌を残しているのは暗示的である。家の中で生活していた女性が巡り会える死とは夫や子供のみだ。人麻呂は男であり、様々な死と出会える外で生きていた為に<死>を多面的に知り、歌い上げることができたのだ。
と、客観的な目で遺族や家来の悲しみについて歌える歌人であったことです。
しかも殯宮で挽歌を歌うことは、天智天皇の崩御の時の后妃たちの挽歌群に始まり、持統天皇では草壁皇子、高市皇子と続きますが、
持統天皇が火葬を望んで以降は、甦りを期待するような死生観が薄まり、死の絶対性が認識されてきます。
こうして殯宮の必要性自体が縮小の方向に向かうのです。
ですから時代的にも人麻呂は、ただひとりの殯宮歌人でありました。
この人の視点であったからこそ、この白鳥飛翔のシーンは、残されたものがヤマトタケルの魂をしたって追いかけるという美しいクライマックスになったのだと思います。
武勇の皇子が、それゆえに天皇に恐れられ、次々と非情な任務に赴かされ、
叔母に天皇への不信を打ち明けても救われず、
愛する后を犠牲にしながらも、帰還目前で命を落とす。
それを知った妃や皇子が駆けつけた目の前で、白鳥になって飛び行く(しかもいつも天翔る気持ちでいたという伏線まであります。)ヤマトタケルとそれを追う妃たち、
「日本書紀」の編纂者には決して作れなかったドラマがここに幕を閉じます。
ヤマトタケルの物語は「古事記」ではかなりの比重を占め、その構成も群を抜いて緻密です。
「古事記」の作者は、この物語を完成させるために、正史を作り上げる任務から離れたのではないでしょうか?
天皇は日の女神の子である、という神話を草壁皇子の殯宮で歌い上げた歌人、
「朝臣」という高位の姓カバネを与えられ、「高照らす」や「高光る」などの天皇中心のイデオロギーや歴史づくりにも参画していたと思われる柿本人麻呂が、
亡くなったときは六位以下の「死」でしか表現されなかったのは、
彼自らが朝廷を辞したのではないかと思っております。
次回はシリーズ最終になる予定です。
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