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ヤマトタケルの死後、訃報を聞いて駆けつけた妃たちや王子たちが歌ったという大御葬歌オオミハフリノウタは
なぜ今でも天皇の大喪の礼で歌われているのか❓️
あの難解な歌は何を歌っているのか❓️
今回からはこの謎を解いていこうと思います。
さて、ヤマトタケルの伝承では、いわゆる「白鳥陵」は
亡くなった地の能褒野ノボノと、
今の大阪府羽曳野ハビキノ市(これはヤマトタケルの白鳥の羽が長く伸びていたことにちなむ地名です。)の古市、
そして「日本書紀」ではそれに大和琴弾原が加わっています。
その他にも伝承地は数々ありますが、ヤマトタケルには縁のない河内に陵墓が営まれて、そちらの方が「古事記」「日本書紀」の両書に書かれているというのも、気になります。
明治期になって、政府が皇子墓の治定を推進すると、もっぱら高宮村白鳥塚と長沢村(現鈴鹿市)双子塚がその候補として取り上げられた。前者は神戸藩、後者は亀山藩が願い出て、それぞれの古墳の整備を進めた。廃藩置県後、政府は職員を派遣し現地調査を行い、1876(明治9)年1月ようやく高宮村白鳥塚を能褒野墓と治定した。
なづきの田の 稲幹イナガラに 稲幹に
匍匐ハひ廻モトろふ 野老蔓トコロヅラ
「なづき」の田の稲の茎に、這い巡っている山芋のつる
うーん(´-ω-`)訳を見たらそういう歌なんですが、お葬式の歌といわれると、ちょっとピンと来ないですね。
まず、よくわからないのが「なづきの田」なのですが、
ここはまず「田」という言葉に注目してみましょう(*´・ω・`)b
「田」という場所では毎年種籾から発芽し、成長して稲が実り、そして刈り取られて生命を終えた稲が、ふたたび発芽し、また実っていくという生命の循環が繰り返されています。
ですから、ここに宿る穀霊も同じように生命の再生を繰り返していたとすれば、
田というのは古代人にとって、一度死んだ穀霊を甦らせる霊力を持った場であったかもしれません。
要約すると
田は刈り取られた稲の穀霊の再生の場所ではないかと思ってもいいかということですが、検証のため一例として「古事記」「日本書紀」の神話で、
出雲に降伏を勧めに行った天若日子アメノワカヒコという神様について見てみましょう。
この神様は高天原から遣わされたのに、出雲側と仲良くなって、殺されちゃうのですが(´゚ω゚`)
亡くなった時の喪屋(殯宮)の役割分担で、雀を「碓女ウスメ」とする記述があります。
そう、碓は大碓・小碓命のところでお話ししたように穀霊の象徴でした。
雀が碓女というのも想像すると可愛いですが(o´艸`o)♪「田」にいそうですよね。
やはり「田」での儀礼は穀霊を再生させる儀礼で、「碓女」はそういう再生の呪術を行う巫女であったと言えます。
そういった呪術が死者の再生にも通じて、喪屋にも「碓女」がいるのだという可能性があります。
もう一つ傍証としてあげておくと、
天照大神の岩戸隠れは、日食を表しているとか、卑弥呼死後の霊力が台与として復活したことを言ってるのだという意見がありますが、
天照大神に岩戸から少し顔を出させたのは「アメノウズメ」の舞によってでした。
もしかしたら、このアメノウズメも、もとは「天の碓女」であったのではないでしょうか?
日食というのはごくごく簡単な天体現象ですが、古代の人々にとっては昼間なのに太陽の光が失われるというショッキングなできごとだったでしょう。
それを一度死んだ太陽がよみがえったと考えて、岩戸隠れの神話が生まれた時考えられます。
神話としては、高天原に来た弟のスサノオノミコトの乱暴狼藉で、怒り心頭の天照大神が岩戸の中にこもってしまわれたので、この世は光を失い、災いが満ち満ちたのですが、
このときに高天原の神々が相談して、アメノウズメが岩戸の前で神楽を舞います。
これはなかなかエロティックな踊りで(よく日本最古のストリップだといわれていました)神々がやんややんや♪と喜んだものでw岩戸の中の天照大神がちょっと覗いて見られたところを、手力雄タヂカラオの神が岩戸を開けて天照大神を引っ張り出したと伝わります💪
そういう再生をつかさどる巫女が「碓女」なら、アメノウズメも「天の碓女」だったと考えてよいのではないでしょうか。
このように碓が死者の再生とかかわり、また一方で穀霊の象徴であるのなら、やはり「田」と再生の儀式には深いかかわりがあるはずです。
そこで伝承に沿って見てみますと、原文では后たちが「匍匐ハひ廻マワりて、哭為ナキマして」と書かれています。
この描写は「古事記」でイザナミノミコトの死に際して、夫のイザナギノミコトが
「乃スナワち御枕方ミマクラベに匍匐ハひて哭ナきし時」と書かれているのと同じです。
実は古代の殯宮においては、「哭ナく」ことは大変重要視されていました。
先ほどの天若日子が亡くなったとき、妻の哭く声が天に至ったこと、また喪屋(殯宮)において雉を「哭き女ナキメ」としたことが載っています。
また「日本書紀」でも、大化の改新の際に殺された蘇我蝦夷・蘇我入鹿の屍を墓に葬り、「哭泣」することを許したことが載っています。これはちゃんとしたお葬式が許可されたということなのですが、
他にも天武9年舎人王の薨去の時も
「殯を臨して哭したまふ」とあり、「哭」が葬儀の中で重要視されていたことが分かります。
「泣く」っていうことはめちゃくちゃ大事なことだったと分かりますね。
韓国では20世紀でもこのような風習があり、人が死ぬと近所の人や、場合によっては泣き屋さんを雇って泣いてもらっていたそうなので、半島とのつながりも感じさせます。
その頃は「跪く」ことと「匍匐ふ」ことは日本式の古い作法として続いていたことが分かります。
7世紀でも、お葬式では「匍匐ふ」と「哭く」はセットで続く儀礼であると言えるでしょう。
では、「なづき」とは何でしょう?
「出雲国風土記」には「なづきの田」ではなく、「脳ナヅキの礒イソ」というのが出てきます。
「出雲国風土記」には、
そこの西隣に「黄泉ヨミの穴・黄泉の坂」があるそうで、
黄泉とは「あの世」ですから、「脳の礒」は黄泉の一歩手前という事になりますが、
ちなみに「なづき」に「脳」を当てるのはけっこうポピュラーで、古語では脳髄や頭蓋骨を指します。
「平家物語」や、もっと新しいところでは江戸時代の「東海道中膝栗毛」、あの弥次さん喜多さんの話でも使われています。今でも東北地方の方言で「額」を指すこともあるようです。
守屋俊彦氏は「難渋する」の「なづむ」から「なづき」を考えておられますが、
わたしはここは違う意見でして(;^_^A
「なづむ」はマ行四段活用なので、名詞にすると「なづみ」になります。
では「なづき」はどうかというと、
「なづく」という動詞からでないと変化しないのです。
「ナがつく」=「なづく」と考えて、それが頭脳を表すなら
「ナ」は霊とか、魂とか、精神などその人の実体や自我を表す言葉のようなイメージができますよね。
古語にさえそれは残っていないのですが、今残っている言葉では「名ナ」でしょうか。
実際それを、古代人は大変重要視していたと推測できます。
皆さんが平安時代の女性と言われてイメージする清少納言や紫式部、こういった名前は本名ではありません。
「古事記」「日本書紀」の時代から、女性に名を聞くという行為はプロポーズでした。
今でいえばメアドを聞くより、ずっと重い意味、強いていえばマイナンバーみたいなものです。
ですから正史でもないと本名を書かないので、后妃のような高位の女性でないと、本名が伝わらなかったのです。
また正史に名を残す后妃でも、親元にいる時代は「大い君」「中の君」「三の君」、入内すれば「藤壷女御」「弘徽殿女御」と御殿名で呼ばれました。
男性の場合もそうです。大河ドラマでは徳川家康なんかは「内府殿」「大御所様」と呼ばれていますね。
人前で実名を呼ぶことはありません。
もし、この「名」をもっと古い時代にさかのぼらせれば、このアイデンティティを指して「ナ」と言った可能性もありはしないでしょうか?
わたしは「なづき」とは「魂のつくところ」であり、それだから脳髄のことを「なづき」と言ったのだと考えています。
そうすれば「なづきの田」「なづきの礒」は、「(死者の)魂がいる田」「(死者の)魂がいる礒」となり、殯の場や黄泉に近接する場所の名前にふさわしくなると思うのです。
そうした解釈でこの歌を見ると
「あなたの魂がいるこの田で、残っている稲幹(遺体)の周りを私たちはヤマノイモのつるのように這いまわっていることです。」
という意味になります。
そしてこれこそが殯宮で行われた「匍匐ふ」「哭く」という行為を歌っている歌であるといえるのです。
また「脳の礒」と通じる「脳の田」が歌われる時点で、この歌を民謡や童謡とすることも無理があると考えてよいと思います。
まさにこれは「匍匐ふ礼」を行っている巫女や遺族の姿を表している歌なのです。
これで、第1首目の歌の意味が明らかになりました。
次回は第2首以降の意味を解き明かしていこうと思います。
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