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前々回には「日本書紀」のヤマトタケルの行程が、実は「古事記」や「常陸国風土記」とそう変わらない範囲だという事を検証しました。


けっきょく東征範囲を東北地方まで範囲を広げたのは、間違いなく「日本書紀」の編集者たちであったのですが


それにしても現在、東北地方にもヤマトタケルの伝承地がしっかりと残っていますよね(^^;)


単純に「古事記」「日本書紀」の影響だと言えばそれまでですが、
できることならその理由を明らかにした方がいいだろうと思いますし、ちょっと考えてみましょう。

それで、いきなり結論になってしまいますが(^^;)

これは北上川流域の「餅鉄」などこの地方に良質の鉄鉱が産出することなどから、やはり製鉄の民をなかだちに考えるとよいと思います。

かつて、大和朝廷は軍事集団の建部に各地の製鉄集団を組み入れていました。たとえば鍛冶部のない吉備の製鉄集団や、出雲斐伊川の製鉄集団、伊吹山のふもとの製鉄集団など、古代有数の製鉄技術者たちが建部を形成していたと思われます。


こういった建部の分布がヤマトタケルの足跡と一致することを指摘されたのが上田正昭先生で、

わたしも出雲や吉備については建部が関わっていたことを本稿の「建部考」で検証いたしました。


そして建部が製鉄の地を後背にして置かれ、武器の供給を受けていたということも呈示させていただきました。


ところが7世紀になって律令制が整い部民制が崩壊するころ、


それに平行するように、朝廷の東北地方への征討が進むと、

建部は解体させられ、一部は東北へ移住させられたこともあったかもしれません。


そういった元建部に従属していた製鉄の民が祖神を祀ったのであれば、建部の祖神ヤマトタケルが最もそれにふさわしいと言えるでしょう。

宮城県石越町に遠流志別石神社があり、
かつてここにヤマトタケルが創建した神社を
和銅2年の蝦夷征討の官軍に従ってきた「建部」氏が再興し、
宮司となったという話が伝えられているそうです。

この話は、大和朝廷が征討後の治安維持と製鉄を、建部を使って行っていることの傍証となるでしょう。

また東北には坂上田村麻呂の創建と伝えられ、祭神にヤマトタケルを祀る神社が多いのも、東北遠征軍と建部の関係を表しているように思います。


では最後に酒折宮のことを検証してこの章を終わりましょう。
酒折宮は現在、甲府市酒折に酒折宮があり、そこに比定されているようです。

この物語は、「古事記」「日本書紀」の両方に和歌と共に伝えられ、とくに「日本書紀」では「王」主語で語られていますから、「古事記」「日本書紀」より前の古い伝承であると言えるでしょう。

ここでヤマトタケルが読んだ
「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」の歌に
火焚きの翁(これは聖火を守る神人と思われます。)が

「日日カガ並べて 夜には九夜ココノヨ 日には十日を」

と続けたことから「連歌」の発祥とされ、

後世の「菟玖波ツクバ集」(1356年成立の准勅撰連歌集)や「新撰菟玖波集」(1495年成立の准勅撰連歌集)の名前は「筑波を過ぎて」からとられています。

そのようなことで、ここは連歌の発祥の故地として人々の崇拝を受けてきました。

祭神はヤマトタケルその人であります。



連歌発祥を記念する酒折宮の石碑
(Wikipediaより)


なお、本来連歌というのは、

短歌の5・7・5と7・7を別の人が詠み、一つの和歌として成立するようにするもので、

正式なものは何句目に何の季節とか、細かい決まりがあり、ウィットも必要で、とーっても難しいものです(^^;)


それを何人かで、

「5・7・5」、「7・7」、「5・7・5」、「7・7」···

と、それぞれが一つの和歌として成り立つように、いわば鎖みたいに繋げていかなければいけないのです。


それで最初が下手だと後が大変なので、最初の発句ホックが重要視され、やがてそれが独立して、俳句になっていくのです。

いやはや、ヤマトタケルも大変なものを始めたものですね( ̄▽ ̄;)


ただし本当の「5・7・5」「7・7」の連歌は、「万葉集」で大伴家持と尼が行ったのが最初のようで、


このヤマトタケルと火焚きの翁の場合は5・7・7の形を持つ「片歌」の問答歌だと言われています。

この「片歌」二首をセットにした「5・7・7・5・7・7」が「旋頭歌(せどうか)」ですが、

一人で歌う歌体は柿本人麻呂が創始したようで、それ以前はすべて問答歌ですから、

ヤマトタケルの場合は連歌に当たらないという見解もあります。


そう言われるとちょっと困りますがw

一応ヤマトタケルが連歌の祖神ということで( `・ω・´)ノ ヨロシクー


ではそこの物語をのせておきましょう。

(この現代語訳は「古事記」です。「日本書紀」で「日本武尊」が主語になっていた信濃入りの部分がなく、足柄峠の話になっています。「日本書紀」の信濃入りは「日本武尊」が主語ですが、鹿と対決するところは「王」主語で内容も似ています。それは「古事記」も「王」主語で書かれた同じ原典を参考にしているからと推測できます。)

(倭建命は、)そこから入っていかれて、ことごとく反抗する蝦夷どもを説得し、また山や川の荒々しい神々と和平して、大和にお帰りになるときに、
足柄山の坂の下に到着して乾飯カレイイをお召し上がりになられていたところに、
足柄の坂の神が白い鹿になってやって来て立った。
そこで、食べ残された蒜ヒル(ニンニクの茎)の片端を、待ちうけて鹿に打ちつけられると、その目に当たって、たちまち鹿は打ち殺された。

そして(倭建命)は、その坂の上に登り立って、三度嘆いて
「あづまはや」(我が妻はなあ)
と仰せになった。
それでその国を名づけてあずま(吾妻=東)というのである。

そこから、その国より越えて甲斐カイ国に出られて、酒折宮サカオリノミヤにいらっしゃった時に、歌を

新治ニイハリ 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
(常陸の新治や筑波の地を過ぎてから、幾夜旅寝をしたことだろうか。)

と歌われた。

すると、篝火カガリビを焚いている老人が、御歌に続けて、

日々カガ並ナべて 夜には九夜ココノヨ 日には十日を
(日数を重ねて、夜は九夜、日では十日になります。)

と歌った。
これをもって(倭建命は)その老人を褒めて、東アヅマの国造の地位を与えた。


さて(; ̄ー ̄A

ずいぶん長くかかった東国編の「弟橘媛考」ですが、これで終わります。


前シリーズの「ヤマトタケル」では物語の順を無視して話をしまして、

やっぱり物語をきちんと順序よくのせようと思って始めた本稿は、今度は検証の順番が前後してしまって、ややこしいところもあるのですが、


ついに東国から尾張(愛知県西部)に戻ったヤマトタケルの前に、最後のヒロインが現れます!


次回からはその美夜受比売ミヤズヒメに焦点を当てた「美夜受比売考」です。


引き続きよろしくお願いいたします。