ご訪問ありがとうございます。


これまでお話ししましたように

もともとヤマトタケルの原型は景行天皇の妃カグロヒメの曾祖父として3代前におかれており、

小碓命が景行天皇の子としておかれた背景には、5世紀末以降天皇家の後背氏族として力を持ち、ついには景行天皇を輩出したオホホド王家(原息長オキナガ氏)が湖東周辺の氏族の伝承を取り込んだことがあるのだろうと推測しました。


そして景行天皇を形作る核となった「大帯日子伝承」の相手役(ヒロイン)が播磨の印南別嬢イナミノワキイラツメであったために


印南別嬢を稲日大郎女として景行天皇の皇后に、そしてその子に大碓、小碓兄弟を配したのだろうと、

そこまでは想像がつきます(*´・ω・`)b


今回は「播磨国風土記」で、丸部ワニベ臣ヒコナムチと吉備比売の娘とされた印南別嬢が若日子建吉備津彦命の娘に造形された事情をみていきましょう( ^ω^ )


大吉備津彦命は吉備の英雄神で、

岡山県の備中国一之宮吉備津神社、

備前国一之宮吉備津彦神社、

広島県の備後国一之宮吉備津神社、

香川県の讃岐国一之宮田村神社など

土着神として崇敬を受けている様が見てとれます(‐人‐)


現地の「温羅ウラ」という鬼を退治した話も伝わっていて「桃太郎」の原型とされています🍑👹


若日子建吉備津日子命はその弟で、欠史八代の第7代孝霊天皇の子とされています。

兄とともに吉備を平定したということと

吉備氏の祖先ということが伝わっています。大吉備津彦命には子孫はいず、この若日子建吉備津日子(稚武彦)命が、

吉備氏の祖先です。


一般には、天皇の皇子が吉備にいた政権を倒したのが「温羅」の退治だといわれています。
吉備氏の祖神が、先住民を倒して吉備を平定した物語であろうとされるのです。

しかし楯築遺跡は大吉備津彦命が「四道将軍」として派遣された崇神朝より前、弥生時代の墳丘墓です。しかもその頃に吉備で使われていた特殊器台を崇神天皇は三輪王権の新しいシンボルというべき前方後円墳に取り入れています。


その関係を考えれば、

大和朝廷と吉備は協力関係になければならず、

しかも吉備の風習を大和側が受け入れないとならないほど吉備が強力!!そんな関係が見えてきます。


はたして彼らは征服者なのか?


吉備氏は5世紀末にはたいへん強力になって、何度も反乱を起こし、鎮圧後は上道カミツミチ臣、下道シモツミチ臣、笠臣に分けられます。(吉備真備はもともと下道臣真備だったのを、功績を認められて吉備朝臣を賜姓されました。それでガリレオガリレイみたいになっちゃったのですね。)


4世紀ではかなり強大であったことでしょう。


同じように「四道将軍」として派遣された丹波の方は

「日本書紀」では丹波道主命、「古事記」では日子坐王が、丹波を平定しに行くのですが、(「丹後国の神さまの話」)

彼らはおそらく丹後国(京都府北部の丹後半島=もともとの丹波政権の中心)で古くから信仰されていた祖先神であり、

それがその勢力拡大とともに古代丹波国(丹波、丹後、但馬)に信仰圏を広げ

そこに浦島太郎など、いろいろな伝承が上塗りされて、現在(···というか奈良時代にすでにorz)ではよくわからなくなっているのではないかと考えるにいたりました。

つまり、日子坐王やその子の丹波道主命は大和朝廷の皇子というより、もっと古層の、丹波の土着の祖先神であり、

大和朝廷が派遣した日子坐王たちが丹後を平定したのではなく、
すでに丹後を平定し支配していた日子坐王や丹波道主命を中心とした丹後政権の伝承を大和朝廷の皇統譜と伝承に組み入れたのではないかと考えたわけです。

同様に越に派遣された大彦命、東方十二道に遣わされた息子の武淳川別タケヌナカワワケ命、この親子についてみていきますと


埼玉県の行田市で出土した稲荷山鉄剣のヲワケノオミ系譜の初代はオホビコです(*´・ω・`)b


大彦命の父は第8代孝元天皇ですが、そのことは鉄剣には書かれていません。

あくまで初代がオホビコなのです。


これも、かつて越や東国に分布していた氏族の祖先伝承を、のちに大和朝廷が皇統譜に取り込んだと考えられます。


「四道将軍」は以前「丹後国の神様のはなし」でも触れているのですが、

少し引用をしますと、(「コトバンク」より)

崇神(すじん)天皇の代に北陸、東海、西道、丹波(たんば)に派遣されたと伝える将軍。ただし『古事記』では、孝霊(こうれい)天皇の代に、まず大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と若建(わかたけ)吉備津日子命を吉備へ派遣し、ついで崇神天皇の代に大毘古命(おおひこのみこと)を高志(こし)道へ、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を東方十二道へ、日子坐王(ひこいますのみこ)を丹波へ遣わしたとしており、崇神朝では三道派遣の説話になっている。また『日本書紀』が吉備津彦を西道に、丹波道主命(みちぬしのみこと)を丹波に遣わしたとするのとも、将軍名が異なっている。倭(やまと)王権の勢威拡張を物語る将軍派遣説話の一種。[上田正昭]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

ということで、ヤマトタケルに先立って各地の平定に遣わされた皇族将軍ということになっています。

しかも四道将軍というのは後世の中国風の名付け方で、おそらく7世紀以降に作り出されたという指摘も通説になっているのに、大和朝廷が平定した話だと、素直に受けるのもおかしい。

まあ、越は7世紀に蝦夷征討が行われるのでいいとしても、丹波や吉備は7世紀には完全に朝廷の範囲内ですから、
そこまで待って創作されたというのも不自然(´-ω-`)

むしろ
崇神天皇の皇后ミマツヒメは大彦命の娘で建沼河別命の姉妹
垂仁天皇の皇后は日子坐王の娘サホビメ、
のちに死別し日子坐王の孫で丹波道主命の娘のヒバスヒメ
景行天皇の皇后は大吉備津彦命の姪稲日大郎女、
となると四道将軍はみんな皇后の実家🏚️
ということと

おそらく四道将軍はみんなもともと
土着の祖先神となると

これは平定しに派遣されたのは創作で
吉備も丹波も越も三輪王権の同盟国で、
婚姻政策なども実際あったことが反映されて、こういう展開になったと考える方が自然ではないでしょうか?

ここで考古学の成果を見ていきますと、

弥生時代の末期、邪馬台国の壱與のころは博多湾中心に大陸や半島との交易が行われていました。(前回リンク参照)

久住猛雄氏(九州考古学)のご研究では
その時代、北部九州や山陰の土器が半島南端や壱岐から出土するらしいのですが、
島根県古代文化センターの吉松大志氏は

本州西部の土器は壱岐以北からはほぼ出土せず、北部九州に依存していたと考えられています。

つまり北部九州のライバルは大和ではなく出雲ということになり、
大和は北部九州に交易の面では依存していたと考えられるそうです。

その直前の時代には福岡県糸島郡に交易の中心があり、伊都国に邪馬台国の一大率という役所があったのは知られていますが、
その後博多湾に交易の中心が移ったのであれば、やはりこの北部九州の勢力は邪馬台国と考えられ、
そのライバルが出雲(島根県)であったということになります。

するとこの邪馬台国は、出雲から国譲りをさせた高天原ではないか?

主催神は天照大神という女神で、
三種の神器の八咫鏡がご神体です。
卑弥呼も鏡を100枚も魏にねだったようですし、
福岡県の「平原遺跡一号墓」からは1965年に三種の神器の八咫鏡と同型ではないかという大型の「変形内行花文八葉鏡」がしています。

意外や意外❗出雲VS高天原は出雲VS邪馬台国かもしれない(゚Д゚;)
「古事記」「日本書紀」もまったく机上の物語を書いているわけではないのでしょうね( ̄▽ ̄;)
というのがわたしの邪馬台国論です。

そこで邪馬台国の気持ちになってwかんがえると(´・ω・`)

出雲の交易ができなくなる→邪馬台国が交易独占(*`艸´)
    ↓
そのために出雲を経済封鎖!(-o-)/

となって(まあ、対ロシアでも武力が無理なら経済封鎖ですもんね)その方策を考えたのでしょう。
    
当時、越の新潟県糸魚川市は翡翠の大生産地で、出雲の大国主命は越の沼河比売ヌナカワヒメを妻にしました。

沼河比売は糸魚川に奴奈川姫として伝承が残っています。
その子は建御名方タケミナカタ神で、国譲りの時に出雲から逃亡し、長野県諏訪市の諏訪大社に鎮座されたといわれています。(その前に大国主命から平定を命じられたという伝承もあります。)

出雲には玉造という地名もあり(玉造温泉)、翡翠も出土しています。
出雲はそれで潤っていたのです。

そこで越もですし、日本海交易の中継点として栄えていた丹波(丹後半島)、
出雲の南隣の吉備これを味方にして「出雲包囲網」を作ろうとしますが、

丹波や越は北部九州から遠く、
そこで交易を邪馬台国に依存していた大和の銅鐸政権と手を結ぶために、吉備と同盟して送り出されたのが神武=崇神天皇であるとすれば、

三輪王権における葬礼での吉備の優位性の説明もつき、
三輪王権の成立とともに鏡を祭器とするようになり、纒向遺跡での銅鐸破壊、崇神天皇に三輪山の大物主神が祟るなども
理解できます。

神武東征では兄磯城エシキ、弟磯城オトシキという抵抗勢力が出てきますが、
欠史八代で皇后を輩出していた「磯城県主」、この氏族は後裔が見当たらないのですが、銅鐸を製造していた「唐古·鍵遺跡」が磯城郡なので、これが兄磯城、弟磯城の正体ではないかというのも見えてきます。

そして吉備は4世紀の三輪王権において、同盟国以上の地位を保つことになったのでしょう。

こののち、三輪王権は丹波政権に卑弥呼が魏からもらった前漢鏡、後漢鏡を贈ったのか、元伊勢の最初も天橋立の籠神社に神宝とされて伝わっています。
伊勢の内宮は天照大神ですが、
外宮は籠神社の奥の院真名井神社からこられた豊受大神なのです。

ではそれほど丹波が重要視されたのは何故かというと
丹後半島が、出雲と越コシ(新潟県)を結ぶ位置にあり、ここを押さえることがすなわち、出雲の交易網を断ち、引いては出雲の国力をそぐ第一の拠点
であったことに他ならないからでしょう。

そして丹波政権の血を引くサホビメやヒバスヒメを垂仁天皇の皇后に迎えた。つまり婚姻による同盟関係を築いたとすれば、
最初の皇后サホビメが反乱で亡くなってから、またもや同じ丹後からの皇后を迎えるという展開も納得できると思います。



さて吉備に話を戻しますと(^_^)
楯築遺跡というか楯築墳丘墓、
これが吉備の首長のお墓だとするとかなりの権力です。

しかも箸墓古墳とは特殊器台を通じて大変密接なつながりを持ち
その箸墓の被葬者が「ヤマトトトビモモソビメ」
吉備津彦命の同母姉妹であるということも不思議です。

出雲と陸続きの吉備(実際に特殊器台は出雲でも使用されています。)と三輪王権は邪馬台国の勢力を大きく広げたことでしょう。

こういった地域を押さえられると、出雲は交易での利益を生み出すことができなくなり、やがて衰退の時を迎えます。

崇神天皇の時に出雲フルネが討たれますが、フルネを討ったのはまさに大吉備津彦その人でありました。

ところが博多湾交易は、高句麗の南下にともなう中国の帯方郡、楽浪郡の滅亡で衰退し、北部九州の遺跡や纒向遺跡も衰退に向かいます。

邪馬台国もまた滅亡の時を迎えたのです。

大和では景行天皇のあとは実在性のうすい成務、仲哀天皇が続き、神功皇后の伝承の世界になります。

王権の姿は曖昧になり、5世紀になって九州までを傘下に入れた倭の五王が出現するまで、その姿は霧の向こうに霞んでしまいます。

機会があればこの間の謎解きもしたいのですが、
ここで吉備のお話しは終わって、次回からは東征のヤマトタケルに移ることにいたします。

続けてのご訪問、よろしくお願い申し上げます。