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前回からの続きで、今回は「播磨国風土記」の印南別嬢イナミノワキイラツメに的を絞って考えてみたいと思います。


「古事記」「日本書紀」では、彼女はイナビノオオイラツメとして

景行天皇と結婚して、異同はあるものの何人かの子供をもうけ、皇后の地位にあった事が記されていますが、


あの悲劇の英雄のヤマトタケルの母であるにもかかわらず、

また自分が生んだ双子の大碓命と小碓命の間で殺人事件があったにもかかわらず、

物語としてはなにひとつ足跡を残していないのです。


ところが、「播磨国風土記」では、彼女のイメージがより鮮明に描かれていて、
その伝承からは、彼女が播磨国の巫女王であり、景行天皇との結婚は外の世界から来訪する神との聖婚

がベースになっていることがうかがわれるのです。


そういう点では、彼女はヤマトタケルより、むしろ景行天皇の后ということが第一義にあって、

小碓命が景行天皇の皇子とされる過程で、その母だという系譜が作られたのだと考えられます。


「播磨国風土記」はもともと1冊の本でした。


ところが、長い間書き写されたり、読まれたりしたせいで、表紙に近い部分と、裏表紙に近い部分がちぎれてしまったらしく、


そのために一番東の明石のところと、最後の方が欠けていて、内容としては三木市辺りで終わっています。

その残ったページの冒頭に印南別嬢の話があるのは、奇跡的な残り方です(ノ≧∀≦)ノ


ヤマトタケルを考える上で、「古事記」「日本書紀」と同時期の「風土記」、あるいは先行する「上宮記逸文」があるのはとても助かるのですが、


現存する五「風土記」のうち「出雲国風土記」に建部の起源、「播磨国風土記」には母の伝承が載っているのも驚きです。



兵庫県南西部を占める播磨国

では、「播磨国風土記」を見てみましょう。
冒頭の部分はちぎれた部分にあたるので、主語が欠損しています。

(賀古の郡)加古郡


四方を望んでおっしゃるには「この土地は丘と野原が大変広く、この丘を見ると鹿子カコのようだ。」それゆえ、この地を名付けて賀古の郡コオリと言います


狩りをなさったときには、一匹の鹿がこの丘に走り上ってきて鳴きました。その声がヒヒーンと言ったので、そこを日岡と名づけました。


この岡に「比禮ヒレ墓」があります。ヒレ墓と名づけたわけは、昔大帯日子命=景行天皇印南別嬢を妻問いされたとき、御佩刀ミハカシの八咫の剣の下げ緒に八咫の勾玉、下側の緒に「まふつの鏡」(八咫鏡の別称)をかけて、賀毛の郡の山直ヤマノアタイの祖、息長命オキナガノミコト

(伊志治)をなかだち(仲人)にして、妻問いに都から下ってこられたときに、摂津国の高瀬の渡りに来られて、淀川を渡ろうとされました。


すると渡し守の紀伊国(和歌山県)の人のオダマは、「わしは天皇の家来ではないでしょう。」と言いました。天皇は「朕公アギ(=お前さん)、たしかにそうだが、それでも渡してくれよ。」とおっしゃったので、渡し守は「渡ろうと思うなら船賃を下さい。」と言いました。そこで天皇は旅装用の髪飾りを取って、船の中に投げ入れられたところ、髪飾りの蘰の光が輝いて船に満ちました。渡し守は船賃をもらったので、天皇をお渡し申しました。それでそこを名付けて「朕君アギの渡り」(大阪市中津)と言います。


なかなか話がひれ墓になりませんね(ノ∀≦。)ノほとんど尾ひれでwww

しかもなぜか大阪の話です。


この大阪で働いている和歌山のオダマさんは、「天皇の家来ではない」と言い切っています。まだ大阪には天皇の威光はとどいてないのでしょうか(・・?


船賃をせびられて、なんだか立派なものをあげています。けっこうその辺にいる人のいい社長さんみたいな感じですね。


けれど、ここにひとつのヒントがあって、
天皇は妻問い(求婚)に行くのに、三種の神器を身につけて出発します。これは自らを神としていると考えられます。
そのわりに、あまり威光があるようには思えないのが可笑しいのですが(^o^;)

続きを見ましょう。

ついに赤石(あかし)の郡、膳夫カシワデ

の御井に来られたので、お食事を差し上げました。それでそこを膳夫の御井と言います。


やっと播磨にw


そのとき、印南別嬢はその話を聞いて、驚き畏れ多く思って、すぐ「なびつま」島に逃げ渡りました。

そこで天皇は賀古カコの松原に探しに行かれました。すると白い犬が海に向かって、長々と吠えました。天皇は「これは誰の犬か」と問われると、スズムラノオビトが「これは印南別嬢のペットですよ。」と答えました。天皇は「よくぞ教えてくれた。と、彼を「告首ツゲノオビト」と名づけました。


そうして天皇は彼女がこの小島にいるのをお知りになり、渡って行きたいと思われました。(中略···延々と地名説話です💦)


とうとう天皇は島に渡って印南別嬢に逢われ、「この隠愛妻ナビハシヅマめ❗♥️

」と言われました。よってそこを「なびつま」と名づけました

こういう説話の内容から彼女の名は「否み」の別嬢だと推測できます。
古代の天皇や神の結婚において、妻が一度姿を隠す「いなみ(び)つま」という形態があるのですが、こういうことからもこれが一種の聖婚であることがわかります。

そこで、天皇の舟と別嬢の舟をつなぎ合わせて海を渡り、船頭の伊志治に大中の伊志治とお名づけになり、帰ってきて印南の六継ムツギの村に至って、初めて密事ムツビゴトをなさいました。それゆえ、六継の村と言います。


ということで、ようやく2人は結婚されるわけですが、この結婚は先ほども述べたように「聖婚」すなわち外から来た神への「服属儀礼」だと思われるのです。

古来、卑弥呼のような巫女王は、人間としては処女王なのですが、それは神と結婚しているために人間とは結婚しないという「神の妻」でした。
ですから後世になっても賀茂斎院や伊勢斎宮は未婚の皇女(今は違います)がなっていました。

それが、自らの神を捨てて新たな神の妻になるということは、巫女王のいる集団が、新たな神を奉じる集団に服属するという事でした。


こういった時は、ホイホイ結婚するのは気が引けるので、たぶん「否み妻」のような形をとるように思うのですが、

かぐや姫なども一種の「否み妻」で古代の伝承ではよくあるパターンです。


ですからこの結婚は、播磨国が大和朝廷へ服属したことを示しています。

このあと城宮で結婚式を行ったようで、また少し飛びますが(いちいち地名起源説話が出てきて長い💦)


年を経て、別嬢はこの宮でお亡くなりになりましたので、お墓を日岡に作って葬り申し上げることになりました。

その御遺骸を奉じて、印南川を渡るとき、たいへんなつむじ風が川下より起きて、その御遺骸を川の中へ巻き込んでしまいました。

御遺骸を探しましたが見つからず、ただ匣クシゲ(=櫛入れ)と褶ヒレ(=肩に掛けるショール状の長い布)だけが見つかりましたので、この二つのものを入れて葬りました。

それでこのお墓を「褶墓」と名づけました。


このあと大帯日子天皇が悲しんで、そこの川のアユは食べなかったとか、御病気になられたとかあるのですが、

古代では巫女を象徴する櫛を入れる箱や、振ることで呪力があるとされる褶(領巾)が墓に収められているのも、この話は彼女が巫女王であったことを示唆しています。


「播磨国風土記」においては、そもそも彼女の母は姫彦制をとって、吉備比古とともに在地を治めていた吉備比売でした。

その巫女王が大和からの「まれびと」(来訪者)である比古汝茅ヒコナムチと結婚して産まれた子が印南別嬢です。


この比古汝茅は和邇ワニ氏という琵琶湖西岸の豪族の祖先ですが、滋賀の高穴穂宮の成務天皇に派遣されたと伝えられています。
成務天皇は景行天皇の皇子ですから、世代的におかしいのですが、

もしかしたらこのあたりの皇統譜が造作されたころの混乱が残っているのかもしれません。


いずれにしても印南別嬢は巫女王としての性格が強く、また大帯日子天皇の妻として有名であって、そちらが第一次的なものであったと思われます。


現地の説話からは大碓・小碓の母という面影はなく、

大和にさえ来ていないという事がわかります。


それだからこそ「古事記」「日本書紀」では、二次的な結びつきの大碓・小碓の物語への参加は全くなくなってしまったと考えられます。

(ただし現在は播磨地方伝承地があります。)


そして「古事記」「日本書紀」は、印南別嬢をイナビノオオイラツメとし、

その説話は全く載せず、

ただ大帯日子天皇(景行天皇)の皇后として、印南郡を勢力下に収めていた吉備氏の娘として変形しました。


これは伝承的な帝王であった大帯日子天皇と印南別嬢を

三輪王権と吉備の結びつきに変形しないとならない理由があったからだと思われます。


そこは三輪王権が吉備に依存していた可能性とあわせて、次回の父景行天皇の検証に譲りたいと思います。


ただ印南を稲日(稲霊)としたことについては、大碓・小碓のイメージの反映かもしれないということはできるのかもしれません。


最後にヤマトタケルの妃として伝えられる吉備建日子(武彦)の妹建日売(武媛)とその王子について述べておきます


「建日売」「武媛」とはほかに類のない勇ましい名前であり、おそらく兄の名前から考えられたのだと思いますが


王子のタケカイコノミコ(建貝児王「記」武卵王「紀」)については、いわゆる卵生説話の主人公であると金井清一氏によって指摘されています。

卵生の英雄は例えば中国の孫悟空などは典型的なものですが、桃から生まれた桃太郎も卵生の一種です。(竹から生まれたかぐや姫もそうです。)
吉備の姫君から生まれているだけに、桃太郎の原型の可能性がこっちということもありますね(*´▽`)

彼は四国に巨大な悪魚を退治したという伝承が残っており、吉備の中心部から瀬戸内海を挟んで、ちょうど向かい側になる讃岐綾君の祖先です。

吉備の勢力範囲になることから、彼もまた吉備氏とともにヤマトタケルの系譜に参加したと思われます。


次回は父景行天皇です。


ヤマトタケルだけでなく、さまざまな伝承を残す天皇ですし、それだけに謎の多い人物です。


邪馬台国からの流れを踏まえて検証することになると思います。


次回もご訪問をお待ちしております。