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先日来ヤマトヲグナの女装についての新羅花郎との関係、また弥勒菩薩半跏思惟像のことをお話ししたのですが、


弥勒菩薩が花郎と関係が深いということから、新羅における弥勒信仰についてもう少し掘り下げたいと思います。


さて、弥勒菩薩は釈迦の死後56億7000万年後にこの世に現れて衆生を救うという未来仏なのですが、


4世紀頃から中国に広まったものは、

今の世に生きる私たちも、弥勒菩薩がいる兜率天に往生したいという「上生信仰」が主なものでした。

半跏思惟像はまさに兜率天で救済について考えている修行中の弥勒菩薩の姿を表したものだったのです。


一方、「弥勒下生経」によって

56億7000万年後を待たずに弥勒菩薩がこの世に現れるので、人々は心してそれを迎えるべきだという、一種のメシア信仰が広まってきます。これを「下生信仰」といい、現世が弥勒菩薩の兜率天に変わるということから、反体制の傾向を持ち、中国の北魏では大乗の乱などがおきるのです。


ところが新羅は、国家主導で弥勒下生の姿である弥勒仙花を国仙あるいは花郎として、青年貴族をその下に組織化します。576年のことでした。


花郎の登場については、

最初に女性二人を巫女としていただいたけれど、それで揉め事が起きたと言う伝承もあり、本来は女性であったと思われます。それが仏教伝来と共に、巫女の姿を残して男性がその役割を担うことになって、


「三国史記」には美貌の男子を選び出し、これに化粧をさせ、美しく装わせた とあります。


「三国遺事」には


新羅の首都興輪寺の僧真慈は、常に本尊の弥勒像の前で、弥勒が花郎として下生することを祈っていた。するとある夜の夢に一人の僧侶が現れて

「熊川の水源寺に行けば、あなたは

弥勒仙花を観れるであろう」という。

真慈がいくとお寺の外で、秀麗な少年がいて話をしたが、埒が明かない。 山の奥に進むと山神が老人に変化し迎え、

「ここに来て、何をしようとするのか」と聞く。

真慈は

「弥勒仙花にお会いしたいのです。」というと老人は

「水源寺の外で、すでに弥勒仙花を見たはずだ。」という。

真慈は急いで水源寺に戻ってみたが、少年はもういない。都の者だと言っていたので慶州に戻って探すことにした。

しばらく探しまわるうちに、やっと少年に出会えた。名を聞くと「未尸郞」ミシランという。

さっそく新羅王のところへ連れていくと、王はたいへん喜び、未尸郞を花郎としたところ、青年たちが慕い集まて、結束するようになった。けれども7年ほどたって、未尸郞はどこかへ姿を消した。


韓国の金剛大学の崔琮錫氏は


以上の弥勒仙花説話にしたがえば、弥勒菩薩は新羅において弥勒仙花国仙として、すなわち、花郎として誕生した。弥勒仏の化身が即ち花郎なのである。ここで国仙が「国の弥勒さま」を意味するのであれば、その国仙制度を作った真興王は確かに弥勒信仰を、興国および国のための制度である風月道に応用したと言える 。すなわち、真興王は貴族子弟たちの中、端正な顔だちの者を花郎として選び、国仙を中心とする数百数千の郎徒で構成された団体を創設した。この花郞徒は集団訓練を通して国家が必要とする理想的な人物を養成する修養団体だったのである。(下線 水無瀬)

と、花郎制度を説明した上で


このように新羅の弥勒信仰は、国家的次元で専制王権を強化する形で受容・展開されたことが分かる。


と指摘されます。


この「弥勒仙花」や「未尸郞」ということばは聞かれたことがあるでしょうか?

わたしが最初に知ったのは

山岸凉子さんの漫画「日出る処の天子」でして(^^;


作中聖徳太子に付き従う「淡海」が花郎の出身です。彼は厩戸王子=聖徳太子の事を弥勒菩薩がこの世に姿を現した「弥勒仙花」だと思っています。

この「弥勒仙花」こそ花郎が戴く少年なのです。


山岸凉子「日出る処の天子」 白泉社


じつは山岸凉子さんのお話では、花郎のことは本屋で見かけて初めて知ったということで、ここに花郎が登場するのは偶然の産物だとおっしゃっています。


それなのになぜか、聖徳太子は弥勒信仰と関係が深いのです。


田村円澄さん以来、聖徳太子は弥勒信仰とつながりが深いと指摘される人物でもあるのです(*´・ω・`)b


それはいわゆる丁未の乱(578)、

継体天皇の時代(6世紀初め)から重用されてきた物部氏と、

継体天皇の子の欽明天皇に娘を嫁がせていた新興の蘇我氏が、軍事的に激突しました。


一般には仏教をめぐって起きたとされる有名な争いですが、実質は聖徳太子の父用明天皇が天然痘で亡くなり、その後継者をめぐる争いでもありました。


この時蘇我軍の頭領であった蘇我馬子は用明天皇の伯父でした。そこで14歳であった厩戸皇子、すなわち後の聖徳太子も戦に参加したのです。


この状況を「日本書紀」には次のように書かれています。


是の時に、厩戸皇子、束髪於額ヒサゴハナして、軍の後に随シタガへり。自ら忖度ハカりて曰く、「将、敗らるること無からむや。願に非ずは成し難けむ」とのたまふ。乃ち白膠木ヌリデを斬り取りて疾く四天王の像に作りて、頂髪タブサギに置きて、誓を發てて言わく、「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為タメに、寺塔を起立てむ」とのたまふ。



これは、蘇我軍の後方で従軍していた厩戸皇子が、戦況不利に陥った際にヌリデの木を斬り、仏法を守る四天王の像を作り、戦に勝てたら寺を建てましょうと祈ったという話で、

実際ここから蘇我軍の勢いが増して逆転勝利❗

四天王のために寺が建てられました(ノ^∇^)ノ


それが大阪市にある四天王寺なのです。


けれども四天王はわかりやすく言うと仏さまのガードマンで、本尊にはできない(^^;)


記録に残る四天王寺の本尊はというと、これが如意輪観音とも救世観音とも言われますが、思惟像ではないものの半跏像であったといわれます。


川崎滋子さんによると、平安時代中期に成立した「聖徳太子伝暦」以来、聖徳太子を救世観音の化身と見る信仰が広まり、鎌倉時代には「半跏思惟像」は救世観音や如意輪観音とされて行くのですが


ここで又、四天王寺にたちかえって考えてみょう。四天王寺は聖徳太子信仰のメッカであり、金堂に安置され聖徳太子に似ているという伝承の救世観音は半跏像であったこと。その上、それを伝える文献が一 〇〇七年のものであり、この年は「 聖徳太子伝暦」で藤原兼輔が聖徳太子は救世観音であると述べた九十年後であること等々。これらを並べて考えてみると、四天王寺像は救世観音であると共に聖徳太子像でもあったかもしれないという想像が頭に浮かぶ。
初め聖徳太子像として造仏された半跏思惟像が「 聖徳太子伝暦」以降、聖徳太子=救世観音という思想が広まり、その後約一世紀を経て聖徳太子像という名称が消え、ただ伝承の中にのみ残され救世観音像という名だけが残っていったと考えたのである。

とおっしゃるように、本来は聖徳太子もしくはそこからイメージされる出家前の釈迦である悉達太子半跏思惟像が四天王寺の本尊であったと推論されるのですが

しかしながら、丁未の乱後に建立が決まった四天王寺が、まだ一介の少年皇子であった厩戸皇子をイメージして本尊としたとは考えにくいところもあります。

四天王寺式の伽藍配置(五重塔を手前、金堂を奥に配置する)は、太子生前に建立された原法隆寺の若草伽藍と同じで、
塔を中心にする飛鳥寺式より新しく、
塔と金堂が並列する法隆寺式より古いとされていますから、推古朝のはじめにあっても矛盾はありませんし
考古学的にも前期難波宮の下層から若草伽藍の同范瓦が出土し、今の大阪城の南側に当初四天王寺が建立されたと見られるのです。(森之宮の位置からもその方が合点が行きます。)

また四天王寺の宝物館には
白鳳時代とされていますが、わずか22.5cmの銅製の弥勒菩薩半跏思惟像が伝わり、
聖徳太子が四天王寺を建立するときの試作品だという言い伝えがあり、
やはり本尊は弥勒菩薩半跏思惟像であったと思えるのです。

聖徳太子の聖人化は天智、天武朝以降であろうと思われますから、桼達太子が本尊であった可能性はやはり低いような気がします。

それでは聖徳太子ゆかりの他のお寺はどうでしょう?

「上宮聖徳法王帝説」によると、太子七大寺は四天皇(王)寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂岡(太秦広隆)寺、池後(斑鳩法起)寺、葛木寺といいますが、

そのうち京都太秦にある広隆寺の宝冠弥勒像は日本では例を見ないアカマツ製ということで


日本書紀推古11年(603)の条に
十一月己亥朔ツイタチ、皇太子、諸モロモロの大夫マヘツキミタチに謂カタりて日ノタマはく、「我、尊き仏像を有タモてり。誰か是の像を得て恭ウヤマひ拝マツらむ。」時に秦造ハタノミヤツコ河勝カワカツ進みて日モウさく、「臣、拝みまつらむ。」便スデに仏像を受く。因ヨりて蜂岡寺を造る。
とある仏像だとも

推古31年(623)、新羅から贈られた弥勒菩薩像を葛野カドノの秦寺ハタデラ(京都市太秦の広隆寺)に入れた時の仏像
だともいわれています。

秦河勝は推古17年の新羅使来訪に際して導者を務めたりしていて、新羅系渡来人いわれている人ですが、
由緒から考えても(本尊が薬師如来になる)平安初期までは、この弥勒菩薩がここの本尊であったと推論されます。

また斑鳩にあり、世界遺産の一部である法起寺は池後寺、岡本寺と呼ばれ、太子の死後に山背大兄王の創建になるものですが、
「法起寺塔露盤銘文」に「 聖徳御分敬 造弥勒像一躯。 」とあって、太子のために弥勒像を造ったと書かれています。

同じく斑鳩で法隆寺に隣接する中宮寺も
有名な国宝の半跏思惟像があり、
ここも「伝暦」以降如意輪観音という自伝が成立しますが、本来は弥勒菩薩の半跏思惟像であったとされ、現在収納されている東京国立博物館の説明も弥勒菩薩像とされているのです。


続いて飛鳥の橘寺ですが
野中寺というお寺が大阪府羽曳野市にあります。
ここは聖徳太子の墓所である叡福寺の「上ノ太子」や、丁未の乱の交戦地である大聖勝軍寺の「下の太子」とならんで「中の太子」と呼ばれるお寺です。
ここの小さな弥勒菩薩半跏思惟像
(高さ18.5cm)に銘文があり、「栢寺」由来のもので天智5年(666)の作というのは確実です。
この「栢寺」はおそらく太子の誕生地の、飛鳥にある橘寺だとされています。

法隆寺の四十八体仏は記録上1078年に四十九仏が橘寺から納入されたとあり、残りのひとつがこれではないかという見方もあるのですが、実際は49件の仏像があって、すべてがこれかはいえません。
けれども、橘寺にも弥勒信仰はあったといえますし、

納入された法隆寺にも
秘仏で明治時代まで誰も見たことがなかった夢殿の救世観音(聖徳太子等身像とされている)が半跏思惟像だという言い伝えがあったということですので
(ほんとは立像)

聖徳太子には半跏思惟像ひいては弥勒菩薩との関わりが見えるわけです。

また今はとだえた葛木寺にも「日本霊異記」によって弥勒菩薩像があったことがわかります。

このように古い時代の聖徳太子ゆかりのお寺には弥勒菩薩像や半跏思惟像が祀られていくのです。

弥勒菩薩は来るべき終末(56億7000万年後)に人類を救済するための修行中の仏様なので、出家していない聖徳太子にふさわしくもあるのですが、

それだけでしょうか?

次回はヤマトタケルに戻って、ヤマトヲグナと聖徳太子の関係を検証したいと思います。

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