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今日は称徳天皇の崩御の際と

その後の永手の動向をまとめて、永手編の最終章にしたいと思います。


さて、前回お話ししたように

称徳天皇の病中は、吉備由利だけがお側につき、道鏡は天皇にあうことすら叶いませんでした。


そして崩御の際には白壁王の立太子が遺詔として発表されるのですが

鎌倉時代に書かれた「水鏡」という歴史物語が


吉備真備は文屋淨三(長親王の子、78歳)、文屋大市(長親王の子、67歳)を推したといい

それに対抗して永手と式家の百川モモカワが遺詔をでっち上げ、

敗れた吉備真備が右大臣を致仕(引退)したと書いています。


これによって本やサイトによってはそのように記述しているものもありますが


◎「水鏡」が後世の成立であること、

◎百川がこの頃はまだ議政官ではなく発言力がないこと、

◎吉備真備は造東大寺長官として平城京に召喚される前に致仕を願い出たことがあったこと、

◎光仁朝において、一度慰留されて右大臣を続けていること(翌年致仕)

◎吉備由利は真備の賜姓された「吉備朝臣」を名乗り、かなりの近親者(娘か妹)と考えられること、

◎文屋淨三、大市はともに老齢であるばかりか、草壁皇子系との接点がないこと、


などから、

近年は永手も吉備真備も、ともに聖武天皇の孫である他戸王への皇位継承をはかって

父の白壁王の擁立に動いたといわれます。


8月17日には、称徳天皇は奈良の高野陵に葬られ、道鏡は山陵のもとに廬イオリして留まったと「続日本紀」に書かれています。


そこには天皇が由義宮で体調を崩し、平城宮に戻ったあと、崩御までの100日あまりを誰とも会わず、

典蔵(くらのすけ、後宮で神璽=八尺瓊勾玉、三関の関契=割り府などを管理する女官の次官)であった吉備由利だけが病床に仕えて、上奏していたと書かれています。


そのあとは道鏡が権力をほしいままにしたということが書かれ

(まあ、これは追い出した側から見た記録なのでこんなもんですw)


21日に、先帝の厚恩をかんがみて

法によって刑罰を与えるのもなんだということで

下野国(栃木県)の薬師寺の別当に任じられます。(要は体よく島流し)


宇佐八幡宮の阿曾麻呂は種子島の守カミに···ってこっちはマジに島流しですが(^_^;)


道鏡の弟淨人は三人の息子とともに土佐国(高知県)に流罪になります。


こうして10月に史上最年長62歳の光仁天皇(白壁王)が即位し、永手は正一位の極位に上りました。


長男家依は従四位上、次男雄依も正五位下に昇叙し、正室大野仲仟も従三位になり、このころ尚侍(ないしのかみ、後宮において八咫鏡の管理と秘書官を務める)に任じられたと考えられます。


同じ頃吉備由利も尚蔵に昇進し、

後宮も左右大臣の縁者に抑えられるという、仲麻呂、袁比良夫妻と同じような形になったのでした。


奈良時代は権力者の妻や娘は、ワーキングウーマンでした。


その後吉備真備は老齢のため致仕を願い出たため

政治は永手の主導で行われるようになります。


永手はついに政権を確立したのです。


11月6日には井上内親王が皇后になり、翌年(771年)1月には他戸親王が立太子して、永手の仕事はようやく終わります。


光仁天皇の即位については

よく天智系に皇位が移ったと言われますが、

これはあくまでも聖武天皇の娘婿としての即位であり、井上内親王の生んだ他戸親王の立太子こそが、永手たちの目標でした。


藤原氏の血を引く聖武天皇の血こそ、当時の藤原氏にとって守るべきものだったのです。


ようやく安堵したのもつかの間、

翌月難波宮行幸中の2月16日に永手は発病し、22日に帰らぬ人となってしまいます。享年58歳でした。


突然の功臣の薨去に光仁天皇も驚き、

長々とした宣命と一緒に太政大臣を贈りますが、


この後天皇の側近として台頭するのが

式家の良継(宿奈麻呂)でした。


良継は房前以来の内臣となり、

天皇の信頼を一身に受けるようになります。


一方、永手の死はようやく落ち着いた皇位継承問題に激震をもたらします。


翌年(772)3月、井上内親王は天皇を呪詛したという疑いをかけられ、皇后を廃されます。

続いて5月には連座で他戸親王も皇太子を廃されて、11月には井上内親王の娘で他戸親王の姉酒人内親王が斎宮に卜定されて、奈良の地を離れます。


この時他戸親王は15歳、井上内親王がまだ未成年の息子のために老齢の天皇を呪詛することは普通考えられず、

(息子が成人する頃にはかなりの老齢)

この事件が永手の急死直後であることを考えても

陰謀説が出るのはやむを得ないことです。


それどころか、永手の死すら怪しいと言えなくもありません。


彼の死の直前に息子の家依が、永手が連れ去られる夢を見たことが「日本霊異記」に記されています。


高市皇子とか安積親王のように絶妙のタイミングで亡くなった人には、暗殺説が付きまとうのに、

なんで永手の死には❓がつかないのか、わたしは不思議なんですが···


やっぱり地味なのね~永手···( ̄▽ ̄;)


どちらにしても永手が亡くなったことで

歴史が転回してしまったのでした。


その後井上内親王と他戸親王は

光仁天皇の姉妹の難波内親王を呪詛したとさらに庶人に落とされ、

大和国宇智郡(奈良県五條市)に幽閉されたあげく、

775年4月27日、母子ともに急死します。これはもうふつうに暗殺されたと考えられています。


酒人内親王は近親の死によって斎宮の任を解かれますが、「水鏡」にも光仁天皇が酒人内親王の立太子を考えてたという伝もあり、女帝が多かったこの頃としては彼女も警戒される存在であったようです。


さて、他戸親王の代わりに立太子したのは誰か?

それは光仁天皇の長男の山部親王でした。彼は光仁天皇の子ではありますが、聖武天皇との接点はなく、母も高野新笠という渡来人系の女性でしたので、皇位継承より有能な官僚になるべく育てられていたようです。


ところが良継を中心とする藤原式家が、彼を強力に推し、山部親王は773年に立太子、

数年後には伊勢から戻った酒人内親王を妃とします。酒人内親王は母と弟を追い落とした山部親王のことをどう思っていたのか、知るよしもないことですが


山部親王はやはり聖武天皇の孫娘の婿という形式をとらざるをえなかったと遠山美津男氏や岩下紀之氏は指摘されています。


そして781年、山部親王は即位します。

これが桓武天皇です。


あの1000年の都、平安京を作ったひとです。


皇太子は同母弟の早良サワラ親王が立ち、

皇后には良継の娘、藤原乙牟漏オトムロが立ちました。


他戸親王の死後、打ち続く天変地異や他戸親王を名乗る人物の登場など、

他戸親王の影は光仁、桓武天皇を悩ませていました。


それなのに桓武天皇は我が子安殿親王への皇位継承を望んで、早良親王をも死に追いやります。

この早良親王が怨霊として大暴れし、

逃れるように遷都した平安京には御霊神社が建てられ、桓武天皇ばかりか、都の人びとは怨霊を怖れました。


1000年の都は怨霊に魅入られた都になってしまったのです。


永手が長生きしていれば、他戸親王が即位し、聖武天皇の建立した東大寺は皇統のシンボルとなり、奈良の都はもっと続いたかもしれません。


他戸親王は天智、天武という偉大な嫡流の天皇双方の血を引く存在として重んじられたでしょう。


永手の死は、本人が常識的で目立たなかったわりには、日本史上に大きな影を落とすことになったのでした。


これにて永手編は終わりです。


なんだか何をやってるのか、いまいちはっきりしない永手ですが、

仲麻呂を破り、道鏡を追い出し、

そしてその死後の展開を見ると、

奈良時代後期のキーパーソンであることがお分かりいただけると思います。


藤原氏全体の隆盛を願った永手に対し

式家の良継らは北家との対決色を強め

ついに武力衝突を引き起こします。


それが「薬子の乱」なのです。

この時勝利した北家が本当の権力を手にするまで、

簡単ながらこの稿も続けたいと思います。


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万燈会で有名な春日大社の回廊

朱塗りの社殿は永手の創建になるもの


春日大社の藤

奈良の鹿は春日大社の神鹿