お母さんは吉備氏の出で、皇后であったイナビノオオイラツメです。
これからヤマトタケルの謎を解いていくのですが、ご覧のように「古事記」「日本書紀」での表記や名前の細かいところが違うのと、読めない名前も多いので
古代史を論じるときはカタカナ表記するときが多いです。
ところが読みにくいと言うご意見もあったので、今回は漢字にできるものは漢字にしますね。
イナビノオオイラツメは
「古事記」では針間之伊奈毘能大郎女、
「日本書紀」は稲日大郎姫ですので
稲日大郎女で···よろしくお願いします。(変換の都合  ̄▽ ̄;)
さて、景行天皇(和風諡号オオタラシヒコ オシロワケ)や母のイナビノ オオイラツメについてはのちのち取り上げるとして、
「古事記」「日本書紀」ともにヤマトタケルは初めは小碓命ヲウスノミコトという名であったと伝えています。
ヤマトタケルは「古事記」では他にも同母の兄弟がいるのですが、
「日本書紀」本文では大碓皇子だけです。(小碓の方は準天皇扱いで「小碓尊」と書かれます。尊ミコトは天皇にのみ与えられる表記なのです)
かなりつながりの深い名前ですね。
しかも「日本書紀」には
このふたりは双子であったと伝え、
双子で驚いた景行天皇が碓に向かって叫んだから大碓・小碓になったのだというのですが···なんで碓に向かって叫ぶかというとw
何でも出産のときに妊婦が石臼を抱いたり、ご主人が臼を背負って家のまわりをまわったりする風習があちこちであるそうなので、
金関丈夫氏は臼を背負って家のまわり(宮殿ですから大変です)を回っていた景行天皇が、
生まれたゾやれやれ😥と思ったら双子で、「もう1回お回りください」ということになったので「ちきしょー」とおっしゃったのだと解釈されておられます。
(原本の補注によります(^_^;)、コウメ太夫氏は無関係ですw)
これは説話としてはおもしろいのですが···それでは本質に迫れないので視点を変えてみましょう( ̄▽ ̄;)
碓という言葉から連想するのは何でしょう?
現代社会ではお餅つきですよね。
(クールポコも無関係ですw)
このお餅が、なんと古代ではけっこう白鳥になるんです。
皆さんは日本史の授業で「古事記」「日本書紀」「風土記」って覚えた記憶があると思います。
「風土記」は全国の国司(知事みたいな官職)にその地方の地勢や特産、伝承などを提出させた書物です。
ほとんど散逸してしまったのですが、
中には大部分が残っている国やどこかに引用されて一部だけ残っている逸文が存在します。
その大部分が残っている国の一つが豊後の国です。今の大分県のあたりです。
「豊後国風土記」に
そこの田野(湯布院町田野?)に、お米がたくさんとれたので餅を的にしようとしたところ、餅が白鳥になって飛んでいき、そこから土地が荒れてしまった
という話があります。
おそらくお米で作られる餅には稲の神様がいて、それを遊びで的にするということで神様が怒って飛んで行ったということでしょうね。食べ物は粗末にしちゃいけませんヽ(`Д´)ノ
同じような話は今の京都の「山城国風土記」の逸文で、有名な伏見稲荷の起源が、やはり
的にしようとした餅が白鳥に変わって、稲荷山の山頂で稲になった
と伝えています。
古代では白鳥は稲の神様=穀霊だったのです。
たぶん田んぼに鷺がいたからじゃないかと思いますが( *´艸`)
大碓と小碓が双子で生まれたとして、驚いた景行天皇が
「碓に向かって叫ばれた」というのは後付けで、彼らが穀霊だとすると、
小碓命が死後白鳥となったと考えられます。「碓だけに〰️」ということですね😃
実はわたしがしょっちゅう行っている「建部大社」ですが、
全国のヤマトタケルを祀る神社の総本社で、近江国一之宮です。
この神社を創建したのは
ヤマトタケルの長男の稲依別王イナヨリワケノミコというひとです。
名前を見るとめっちゃ穀霊です。稲にとり憑いてるみたいな意味です。
この人が小碓命の本来の子供ではないでしょうか?
それを解決するカギが大碓命の伝承です。
ではその物語から載せますので、読んでみてくださいまし(●´ω`●)
例によってなんちゃって現代語訳ですが、ニュアンスを伝えるためなのでごめんなさいです。
「古事記」景行天皇の条
さて景行天皇は、美濃国造(みののくにのみやつこ)の祖先の大根王の娘で、名は兄比売・弟比売(えひめ・おとひめ)という二人の乙女が、その容姿が美しいと聞いて確かめ、その御子の大碓命を(美濃に)遣わして宮廷に召し出されました。
ところが遣わされた大碓命は、天皇のもとに召し上げずに、そのまま自分自身でその二人の乙女に求婚して、さらに別の女性を捜し求め、その女性を偽って天皇の所望する乙女と言って献上しました。
しかし天皇は献上されたのが別の女性であることにお気づきになり、その二人の(偽の)乙女にはいつもわびしく物思いする日々を送らせ(長眼ナガメを経ヘしめ)、また夜の訪れもなく、つらい思いをさせられました。
一方、あの大碓命が二人姉妹の兄比売エヒメと結婚して産んだ子は押黒之兄日子エヒコ王です。{これは美濃の宇泥須和気ウジスワケの祖先}。
また弟比売オトヒメと結婚して産んだ子は押黒の弟日子王です。{これは牟宜都ムゲツ君らの祖先}
「日本書紀」でも内容は同じですが
両書とも景行天皇には3人の太子ヒツギノミコがいたとされ、
ヤマトタケルと
その母稲日大郎女の崩後に皇后になる八坂入姫ヤサカノイリビメの子のワカタラシヒコ(成務天皇)と
その同母弟五百木入彦イホキノイリヒコの名があげられるのですが、
大碓命は入ってないので、この事件が原因で、太子から外れたと考えられます。
しかも
あの藤原仲麻呂が編纂した「家伝」に父武智麻呂の事蹟をまとめた「武智麻呂伝」があるのですが、
その中に武智麻呂が近江守(滋賀県知事)だった時に坂田郡(米原市や長浜市のあたりです)に来て、その時に土地の人が伊福山(伊吹山)について語ったとして
昔倭武皇子。調伏東國麁悪鬼神。帰到此界。仍即登也。登欲半。爲神所害。變爲白鳥。飛空而去也。
(昔、ヤマトタケルの皇子が、東国の荒々しい悪い鬼神を征伐され、この界隈に帰ってこられて、すぐに伊吹山に登った。上る途中で神によって害を受け、白鳥になって、空を飛んで去った)
と書かれています。
彼が近江守になったのは712年、まさに「古事記」成立の年の事です。
まだ「古事記」「日本書紀」が公開されている前の、土地の人間が語ったヤマトタケル伝承がかかれているということなのです。
伊吹山は滋賀、岐阜県境にある山で、新幹線で米原を出て、関ケ原のあたりから北側を見ると見える大きな山です。(関ケ原の戦いで負けた石田三成が逃げ込みます)
新幹線が雪のためにしょっちゅう止まるところです。
ここでは詳しい検証はしませんが、「古事記」「日本書紀」では伊吹山の神に敗れたヤマトタケルは、岐阜県側に下山し、なぜか三重県側から鈴鹿山地を越えて奈良に入ろうとして亀山市で亡くなります。
地図で見るとこのルートは大変遠回りで不自然です。
伊吹山で白鳥になる方が話としては自然です。
もし伊吹山の白鳥伝承が小碓命の本来の伝承なら、その伝承を伝えたのが大碓命、小碓命を祖先とする人びとと考えられますから
地域的にもなっとくできるのです。
この問題については、まだまだ補強できる伝承があります。
しばらくは「小碓命物語」の復元におつきあいくださいませ(^^)
次回は「大碓命殺人事件」のお話ですヽ(;゚;Д;゚;; )ギャァァァ