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さていよいよ道鏡の登場です。
皇位を狙ったということで、戦前では
「日本三悪人」だったそうで···( ̄▽ ̄;)
ぜんぜん関係ないですが、大分県の高崎山自然動物園で、メスのボスが誕生した話を取り上げていました(TBS「ひるおび」)
なんでもヤケイという名の9歳のメスが、「メス頭」だった母のビケイに勝ったあげく
ボスザルにも戦いを挑み勝利したとか···
サルの群れではメス頭に認められてボスになるという話や、
メスがボスになると発情期の三角関係が問題で、そこで認められたオスザルが次にボスになるかもしれないとか、
聞いてると脳裏にブログの話が浮かんできましてw
考えてみるとメス頭の光明皇后に認められていた仲麻呂はまさしくボスであったわけですが、
一方で光明皇后は、愛情が過ぎるあまり過干渉になるタイプの毒親だったのかも···と思えます。
彼女の存命中は、孝謙天皇は玉璽も奪われた状態だったのが、
光明皇后が亡くなって呪縛が解けた時、
孝謙上皇は自分が何者か再認識し、
(この場合はサルみたいに喧嘩したワケじゃないですがw)母と仲麻呂が構築した政治体制を壊すにいたった、というのが仲麻呂の乱の意味なのだろうと思います。
そして、母を否定した彼女が拠り所にしたのが、父、聖武天皇の姿だったのではないでしょうか?
彼女は自分が「ボスを決める権利がある」のだと、父から聞かされていました。
天皇を奴(賤民)とするのも、奴をを天皇にするのもお前の自由
帝となったものがお前に無礼を行うなら、そんな者を帝位に置くことはない。
という宣命に引用された言葉でした。
遠山氏は孝謙上皇は、道鏡に聖武天皇の面影を重ねていたと指摘されますが、
たしかにそれは可能性が高いと思われます。やはり単なる恋愛とは違うような気がするのです。
遠山氏によると、塩焼王は仲麻呂の乱の前に臣籍降下して氷上ヒカミ真人塩焼と名乗っていましたが、彼と聖武皇女の不破内親王との間には男児が二人いて
聖武天皇が女官たちと遊んでたせいで塩焼王を見限ったあと、
塩焼王の弟道祖王を皇太子にたてたのは、孫への譲位を踏まえて、道祖王を中継ぎにという心づもりであったようです。
道祖王は廃太子の理由で、
先帝(聖武天皇)の喪中に侍童と戯れたということで、同性愛者であったと思われ
聖武天皇から見ると中継ぎには適任だったろうと考えられるのですが、
結局、彼も廃太子→獄死(杖下に死す)という道を歩み
不破内親王の子どもたちは、皇位継承がむずかしくなり、
ついに塩焼王も臣籍降下にいたったのであろうと思われます。
余談ですがこれに先だって、長親王の子の智努チヌ王が文屋真人の氏姓を賜り、臣籍降下しました。
長親王は親王位最高位の一品イッポンで、
天武天皇と大江皇女(天智皇女)の長子、
文武天皇が皇太子に決まる会議で、同母弟弓削皇子が反対したのは、長皇子を推薦しようとしたのでは?と言われている
血統的にも最高位にふさわしい親王でした。
その子供が60歳という高齢で臣籍降下した裏には、奈良麻呂たちの策動を警戒し、仲麻呂の疑惑の眼を免れるためといわれますが
塩焼王も実際に永手や豊成も推していたわけで、道祖王が奈良麻呂の変に巻き込まれて獄死したあと、臣籍降下するにいたったのでしょう。
ところがここで思わぬ伏兵が登場します。
それは5歳で伊勢斎宮として赴任し、同母弟安積親王の死によって、伊勢斎宮を退任した、聖武天皇の皇女井上内親王です。
彼女は安積親王、不破内親王の姉で
帰京ののち、天智皇子の志貴皇子の子である白壁王に嫁ぎました。
そして37歳で酒人女王、そして45歳という高齢で他戸オサベ王を出産します。
聖武天皇の血を引く男児の誕生でした。
そもそも聖武天皇の思いは不破内親王の生んだ男児二人にありました。
孝謙上皇はこの甥を得たことで、仲麻呂の後押しする淳仁天皇が不要だという判断をしたのでしょう。
ついに自ら玉璽を奪いに行き、淳仁天皇を廃し、皇位についたのです。(ここから通例上、彼女のことを称徳天皇と呼ぶことにします。)
ここで天武天皇の男性の子孫をみると
草壁皇子系は不破内親王の臣籍降下した子どもたちと赤ん坊の他戸王のみ、
高市皇子の子長屋王の子は長屋王の変と奈良麻呂の変で自刃もしくは獄死し、一族に継承権はなくなっていました。
舎人親王系は淳仁天皇が廃位され、淡路島に流罪になったために連座して流罪、
新田部親王系は塩焼王、道祖王ともに亡くなり、
長親王系は臣籍降下しました。
そこで称徳天皇は、自分にもしものことがあれば、他戸王に位を譲る中継ぎを選ぶにも困ってしまいます。
普通に考えると候補は他戸王の父白壁王が妥当であったのですが、
天武直系を自負する天皇にはそれは難しかったのでしょうか?
それとも疑惑の眼を逃れるために、酒におぼれるふりをしていた白壁王ですから、あんなアル中には皇位は譲れんと思っていたかもしれません。
天皇は
天皇を奴(賤民)とするのも、奴をを天皇にするのもお前の自由
という父の言葉に従って、
「沙彌勝満」として仏弟子の道に入った父の面影と重なる道鏡を天皇にしようと思い立ったというのが遠山氏の見解です。
この辺がついついサル山の話に重なってしまいます<(_ _*)>💦
孝謙時代は母にスポイルされ、お嬢様天皇だった彼女は、ビッグボス称徳天皇として再生したのでした。
さて、永手に話を戻すと
仲麻呂の乱ののちに正三位大納言になった永手は、翌年吉備真備とともに勲二等を叙勲され、從二位に昇叙、
続いて17日には、称徳天皇が永手邸に行幸されて
永手に正二位、
正室の大野仲仟ナカチに從四位下を下されるのですが、
仲麻呂のあとを受けたのは太政大臣禅師となった道鏡でした( ̄□ ̄;)!!閏10月のことでした。
今までの後押しはなんだったのか···
叙勲も昇進も行幸も
すべて称徳天皇のご機嫌取りのサービスに見えてきます。
さらに翌766年正月、
永手は右大臣に就任し
白壁王と並んで真楯も大納言に昇進、吉備真備が中納言となりますが、
真楯が3月になくなってしまい、永手はひとり政府を主導しなくてはならなくなったのです。
7月の参議の人事にあたって、永手は
正四位下と從四位下にいた弟の魚名ウオナと楓麻呂の登用を見送り、
從四位下の南家の藤原継縄と式家の藤原田麻呂を就任させます。
これは藤原氏の氏長者としての自覚がそうさせたのかもしれませんが、
すでに道鏡の勢力が太政官に進出し、バランス感覚に優れ、仲麻呂の独裁政権に反発した永手は、
北家の強大化よりむしろ藤原氏が団結して、道鏡の政権に対抗する道を選んだのだと思われます。
なお、吉備真備は阿倍内親王の頃から称徳天皇の学士であったことから、天皇側近ともいわれますが、
称徳天皇の後宮での側近で尚蔵(クラノカミ=玉璽の管理)を務めることになる吉備由利ユリという真備の近親者(娘か妹)が、のちに永手と暗躍?するので
吉備真備も永手と同調していたと考えてよいと思います。
そして10月20日、法華寺の毘沙門天像から仏舎利(仏陀の遺骨)が出現したのを機に
道鏡はついに法王に上ります。
その宣命の中で、
永手はすでに引退していた南家の藤原豊成に代わり左大臣に、
吉備真備も地方豪族出身の初めての大臣として右大臣に叙任されます。
しかし同じ宣命で道鏡派の法師円興が法臣に、基真が法参議に任命され、
続いての叙位では道鏡の弟参議弓削浄人が正三位に昇進しました。
翌年3月には「法王宮職」が置かれ、
法王が中宮職チュウグウシキを持つ皇后や
春宮職トウグウシキを持つ皇太子(東宮)と
同等の存在、つまり皇位継承権があるということを知らしめたのです。
「日本霊異記」などは道鏡が皇后(称徳天皇)と枕を交わしたと書かれていますが、
こういった世間の目は、道鏡を聖武天皇の娘婿として認識させることになるので
称徳天皇には好都合だったと、遠山氏は指摘されています。
当時の仏教界の戒律や、すでに出家した称徳天皇の仏教への傾倒を考えると、
果たして俗説にあるように、二人に男女関係があったかははなはだ疑問ですが、
少なくとも二人は君臣ではなく、夫婦のような対等な関係になったのだろうと推察できます。
しかし永手は釈然としませんでした。
彼は幼い時から阿倍内親王と近しい存在でした。そのために誤解を受けて逼塞したり、仲麻呂に隠れて孝謙上皇の勢力拡大に努めてきました。
わたしは永手は絶えず聖武天皇の「嫡子(皇后の子)」である阿倍内親王を守れと周囲から期待され、そう育てられたように思います。だからこそ12年間も謹慎のようにして過ごしていたのだと思うのです。
それなのに孝謙上皇が称徳天皇として君臨した時、他戸王成長までの中継ぎに選んだのが、皇統とは無関係の一介の坊主であるとは···
それも道鏡は僧侶ですから、戦闘もしなかったことでしょう。
(奈良時代の仏教は戒律が重要でしたから)
仲麻呂の乱の死闘をくぐり抜け、勝利を得たのは誰のおかげだ(`Д´≡`Д´)??
と、いくら温厚でも思ったでしょう。
こうして永手は皇室と藤原氏双方を守るために太政官の掌握を進めます。
さあ永手くん(もう53歳ですがw)❗
今度はプリンセス(47歳ですが)阿倍内親王が相手です。
絶対権力者とタッグを組んだラスボスに
永手はどう対抗するのでしょう❗
次回道鏡事件と呼ばれる大事件が勃発❗
またのご訪問を<(_ _*)>