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予告どおり入門編で(^_^;)
とりあえずこの時期の皇位継承がややこしいので、ざっくり整理しておきましょう。
さて継体天皇が北近畿よりヤマト入りすると、大和の大王の皇女であった手白香皇女が大后になり、嫡子の欽明天皇が成長するまで、庶兄の安閑、宣化天皇が中継ぎとして即位しました。その間、大后の手白香皇女も中継ぎの傍系天皇を後見したと思われます。
それが顕著になるのが、欽明天皇の嫡子(大后の子)敏達天皇の崩後に
大后額田部皇女が影響力を持ち、兄の用明天皇崩後に崇峻天皇を後継指名し、さらに崇峻天皇弑逆後は自ら即位して推古天皇になったときでした。
この頃から皇后所生の「嫡子」が皇位を継ぎ、嫡子が若いうちは嫡子の母の大后(皇族出身)が、
中継ぎに立った叔父などの傍流天皇を後見するという「嫡流至上主義」が成立します。
そこで一時的に蘇我系の天皇が出現しても、皇位は
欽明―敏達―(推古)―舒明敏達嫡孫―(皇極·斉明)―天智&天武―(持統)―文武天武嫡孫
と、嫡流天皇の皇后=大后もしくはそれが即位した女帝赤字が間をつなぎ、
推古即位までは用明―崇峻、
皇極·斉明の間を孝徳の各傍流天皇が即位しました。
ところがこの頃になると嫡流そのものの皇族数が減り、天智天皇には皇后所生の皇子がなく、弟天武天皇と皇后で天智天皇の皇女持統天皇の子孫だけが嫡流ということになってしまいます。
ところがそのひとり子の草壁皇子は早世し、
嫡孫文武天皇には皇族出身の皇后がいませんでした。
そこで藤原氏の夫人宮子の生んだ聖武天皇が即位しますが、聖武天皇は皇族の母所生の嫡流ではないために、その皇位継承は藤原氏の血統重視に変わったようです。
最後の嫡流天皇の文武天皇の母である元明天皇は、藤原氏所生の聖武天皇と
皇族の血統との間で葛藤したようで、
聖武天皇に譲位する前に娘の元正天皇に譲位し、さらに傍流天皇の候補であった高市皇子の子、長屋王を親王にして
娘(嫡流)吉備内親王とのあいだの孫を嫡孫扱いにしました。
ところが元明天皇の崩後、聖武天皇の即位を狙う藤原氏は
長屋王、吉備内親王、その子供たちを政変で葬り去ります。(長屋王の変)
ここで元正天皇以外に嫡流はいなくなってしまいます。
元正天皇は皇后のない弟文武天皇に何かあれば、大后の役割を引き継ぐよう予定されていました。
ですから結婚をするわけにはいかない立場になり、美貌の女帝と言われながらい生涯独身でした。
嫡流もいなくなり、彼女の望みは聖武天皇の男子安積親王の即位にあったと思われますが、
安積親王は17歳でなくなります。
そして聖武天皇と藤原氏の光明皇后の娘、
阿倍内親王を皇太子に認めざるを得ませんでした。
つまり藤原氏の血をひく聖武天皇が
文武天皇と同じように嫡孫扱いになったため、聖武天皇は皇后に藤原氏の光明皇后を選び、阿倍内親王もまた元正天皇と同じ地位を得ることができたのです。
聖武天皇にとっては自分の母の藤原氏は身内です。彼にとっての嫡流は藤原氏と皇族の血を受けるものに変容したと言えます。
こういう考え方で歴史を見ておられるのが遠山美津男さんなのですが、
一方では遠山氏の指摘にあるように、
平安時代初期に奈良の薬師寺の僧景戒によって成立した「日本霊異記」では
聖武天皇が仲麻呂に「阿倍内親王と道祖親王の二人をもって天の下をおさめさせようと思う」というシーンが描かれています。
また孝謙上皇を「皇后」と表現し、淳仁天皇が皇后の為に討たれたとか、道鏡が皇后と同じ枕に交通しとか書いていて、
つまり女性が天皇の位につくのは、あくまで皇后としてであるという考えが、こういった仏教説話の享受層に根強かったといえます。
それでもこの聖武天皇の思いは上位の官人層には周知されていたのは疑えません。
なによりそれに沿って見ると奈良麻呂、仲麻呂ばかりか永手の行動も納得が行くのです。
そこで氏のお説をもとに事件の復習をしておきましょう。
まず聖武天皇が娘不破内親王を嫁がせ、
折に触れて引き立てたのは塩焼王でした。彼の父は天武天皇皇子の新田部親王、不比等の異母妹五百重娘の所生でした。
聖武天皇は娘阿倍内親王はあくまで天皇として君臨し、皇太子には次代の天皇を自分の娘に生ませるという役目を与えたのです。
ところが彼は女官たちと問題を起こし流罪になります😨
事情が事情だし、お父さん大激怒💢😠💢
せっかくのチャンス、もったいない。
そこで、天皇は阿倍内親王に譲位し(孝謙天皇)とりあえず塩焼王の弟道祖王を皇太子にと遺言しますが、
こんどは仲麻呂の差し金で廃太子になります。
この時豊成と永手が推薦したのが塩焼王です。落ち度はあったものの聖武天皇が望んでいた皇太子候補だったからというわけです。
しかしここでは仲麻呂の養子のようになっていた舎人親王の子大炊王が立太子、
仲麻呂にとっては藤原系より自分の言うことを聞いてくれることが優先したようですね。
しかし、これが反発を招いて
奈良麻呂の変では天皇候補にと誘われたのが
長屋親王と不比等の娘長娥子の間に生まれた安宿王、黄文王、
そして塩焼王、道祖王でした。
橘奈良麻呂の企みでありながら、見事に藤原氏の系統ですね❗
これくらい聖武天皇の遺志は官人層に浸透していたんですね。
逆に舎人親王の子を立てた仲麻呂は、孤立への道を歩んでいたと思います。
そのあと大炊王が淳仁天皇となるものの
孝謙上皇と道鏡の関係を邪推したため孝謙上皇が大激怒💢😠💢
その後対立が激化すると
孝謙上皇は淳仁天皇を幽閉し、仲麻呂の乱が終わると次のように宣命します。
かけまくもかしこき朕が天の先帝(聖武天皇)の御命もちて、朕に勅ノリタマヒしく
「天下は朕が子いまし(そなた)に授けたまうことしを、
云わば王を奴と為すとも、奴を王と云うとも、汝イマシの為セむまにまに、
たとひ後に帝と立ちて
ある人、い立ちし後に汝のために無礼して従わずなめくあらむ人(無作法者)をも帝の位に置くことも得ず。
また君臣の理に従いて、貞タダしく浄き心をもちて助け奉えまつらしむ帝とあることも得むと勅しき。
然して今、帝として侍る人をこの年ごろ見るに其の位にも堪えず、是のみにあらず」(「続日本紀」)
つまり聖武天皇は娘孝謙天皇に
天皇を奴(賤民)とするのも、奴をを天皇にするのもお前の自由
そして
帝となったものがお前に無礼を行うなら、そんな者を帝位に置くことはない。
とも伝えていたというのです。
皇位を継がせる存在のない女帝は、もはや以前の嫡流を守る存在ではなく、
彼女自身が彼女のための天皇を決める存在になっていた、そう育てられたのだということになります。
かつて道祖王が廃太子された時も、群臣たちも聖武天皇の遺詔を尊重し、反対するものはいませんでしたが、
それはこの遺詔が周知の事実であったことを推測されます。
そして仲麻呂の乱が終わった時、淳仁天皇を廃して淡路島に追いやった後、孝謙上皇は僧体で重祚します。
これより孝謙上皇を通例にしたがって称徳天皇と呼ぶことにしますが、これは異例中の異例。
大嘗祭にお坊さんも加わったようです。
かつて母に実権を握られ、政治に関わることを禁じられ、結婚も恋愛も望めなかった女帝は、
ここで強大な権力を持つ存在に転生します。
史上かつてない、「天皇を選べる」女帝による波乱がついに幕を開けました。
次回からは道鏡政権下の永手を追っていきましょう。
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