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さて、今までは歴史の動きをざっと見て行ったわけですが、


いよいよここから永手の暗躍?が始まります❗って言っても「続日本紀」にはなにも書いてないんですよね(^_^;)


そもそも「続日本紀」というのも非常に簡潔な記録しか書いていないこともあるのですが、

大炊王の立太子やら奈良麻呂の変のあった757年の「天平宝字元年紀」は

奈良時代最後の天皇、光仁天皇の時代の「続日本紀」の編纂の際に、

紛失してしまったということで

まあ、どこまで信用できるかも分かりません。


あの奈良麻呂をやり込めた「勅使」も

その直前に永手が遣わされたと載っているので、永手と言われていますが、

逆にそれを「勅使」というのもへんな話で、後世の脚色かもしれないのです。


大炊王立太子のくだりもなんか芝居がかっているので、脚色っぽい気もします。


といっても同時代の史料が他にないので困りますね。



興福寺東金堂(国宝)

さて仲麻呂は目の上のこぶだった兄の右大臣豊成を奈良麻呂の変に乗じて左遷し、(息子が奈良麻呂の友達だった)

大納言ながら自ら太政官の最上位になるのです。


758年、孝謙天皇は病気の母光明皇后に仕えたいと退位します。


この時、天皇の命令権を表す駅鈴と玉璽が皇太后宮から移されたという話を前回しましたが、

これによってわかるのは孝謙天皇のもとには権力を行使するすべが全く与えられていなかったという事実です。


病身の母に仕えたいという理由にも母子一体感が表れていますが、政治の権限を母に握られていた女帝としては母に頼れないとなると不安感が強かったでしょうし、行使したことのない権力などさして欲しくもなかったのかもしれません。


こうして大炊王が即位し淳仁天皇になると仲麻呂は儒教の徳治政策を実行するので、税の負担などは軽減されます。

今ならけっこう世論の支持はあったかもですね。


やっていることは間違っていないので政権内での反発も少なかったのでしょうか、

一時期仲麻呂に目をつけられた八束も、

仲麻呂の正室が姉の袁比良ヲヒラで

その長女児従コヨリと同母弟千尋チヒロが結婚したのもあって、仲麻呂に従っていきます。


この時、孝謙上皇には「宝字称徳孝謙皇帝」、光明皇太后には「天平応真仁正皇太后」の尊号が贈られ、上皇は唐で皇帝の機関を指した「上臺」、皇太后は「中臺」と呼ばれますが、

「続日本紀」では孝謙天皇、上皇も一貫して「高野天皇」と呼んでいます。


遠山美津男さんの指摘によると

平安時代初期に成立した「日本霊異記」(著者は薬師寺の僧景戒)は、

聖武天皇が阿倍内親王と道祖王を並立にして天下を治めさせるといい、

また淳仁天皇と孝謙上皇を天皇、皇后の関係に書いており、


それは宮廷外の人びとにとって、天皇の地位はあくまでも後継者孝謙天皇によって保証されるものに見えていたことの反映だと思われます。


ですから、孝謙天皇は退位したといえどもこの国の主権者であり続けた。結果「続日本紀」も彼女を生涯にわたって「高野天皇」と呼び習わしたのだと思われます。


ところが仲麻呂はこういう彼女の位置をだんだんと無視するようになっていきます。

淳仁天皇という旗印を戴いた仲麻呂は天皇の政治機関である太政官を押さえ、自分の思いどおりに権力をふるい始めたのです。


淳仁天皇即位後、ひと月に満たない8月25日、

仲麻呂は官号を唐風に改めます。


この時の改称は、例えば

太政官を乾政官、紫微中台を坤宮官、

以下

中務省→ 信部省、式部省→ 文部省

治部省→ 礼部省、民部省→ 仁部省
兵部省→ 武部省、刑部省→ 義部省
大蔵省→ 節部省、宮内省→ 智部省


などの他に

太政大臣を大師、左大臣を大傅、右大臣を大保、大納言を御史大夫としものでした。


また仲麻呂の家には「恵美」という名が与えられ、藤原恵美家が成立します。

これは藤原氏全体より上位に仲麻呂家を置くということでした。


その上「恵美押勝」なんていう名前を賜り、鋳銭権や農民に稲を貸し出す出挙スイコの権利も得て

ついに大保(右大臣)になるのです。


これによって紫微中台は空洞化し、仲麻呂に権力が集中するのですが…


これは光明皇太后の、異父兄橘諸兄に権力が独占されるのを嫌って藤原氏全体を育てるという思いに反するものでした。落胆した皇太后は体調が戻らぬまま、聖武天皇に4年遅れて760年に崩御します。


この間も仲麻呂は仁政を進めると同時に権力を拡大していくのですが、

官号を唐風に改めるのと共に、永手の同母弟八束は真楯マタテと唐っぽい名前に改名し正四位上に

同じく同母弟千尋は御楯ミタテと改名し従四位下、続いて従四位上参議に昇進します。

これで北家の兄弟は唐から帰ってこられない清河を含め、真楯、清河、御楯が参議、

永手は一番上の中納言になるのですが


永手はすでに淳仁天皇即位の際の叙位にもあずからず、改名もせず、

官号の改称を決定した会議では、議政官では唯一欠席していました。


孤立していた永手は、もはや朝政に参加できる状態になかったのかもしれません。


一方、孝謙上皇も仲麻呂に裏切られたという思いはあったでしょう。


孝謙上皇が道鏡と出会うのは761年、

その間3年間、母や仲麻呂の言いなりだった孝謙上皇に近侍し、

そのあるべき姿を呼び覚まし

政治のノウハウを教え、彼女のまわりに人材を集めていった人物がいなくてはなりません。


孝謙上皇が仲麻呂を誅殺した仲麻呂の乱において、上皇軍の参謀となる吉備真備はいまだ九州の地におりました。彼が平城京へ呼び戻されるのは764年のことなのです。


やはり永手以外にこのような役割ができる人物がいたようには思えません。


永手の隠された12年間、わたしは阿倍内親王が永手に抱いたほのかな想いが原因で、何らかの出来事があり

母の牟婁女王が同母妹光明皇后へ詫びるために、

永手に一切の官位を返上させて、八束を北家の後継者に替えたのではないかと考えました。


それは彼の復帰が孝謙天皇即位の直前であり、橘三千代の顕彰のもとで行われたこと(孝謙天皇の母光明皇后も永手の母牟婁女王も三千代の娘)


そういう環境下でも、当時の橘諸兄政権内の大野東人の娘と結婚し

吉備真備に信頼を寄せていること(永手が復帰した翌年に吉備真備が九州へ下向したため、復帰以前から吉備真備を知っていたと思われる)から、

諸兄政権との対立は考えにくいこと


その後の永手の政治姿勢は聖武天皇の定めた原則にのっとっていること


から、その逼塞は聖武天皇、光明皇后に対する謹慎ではないかと思われ、


孝謙天皇は後の道鏡との時もそうであるように、特定の男性に好意を抱いているのがばれやすいのでは?ということから推測したのですが、


貴族層がみな仲麻呂に従うなか、永手の動きは慎重に慎重を重ねたものと思われ


それゆえに何の記録も残されなかったと考えられるのです。


そのような環境で孝謙上皇の側近勢力を固めたのは容易ではなかったでしょうが


760年に光明皇太后、

762年には高級女官で後宮を取りしきっていた仲麻呂の正室(永手の姉)袁比良が亡くなり、


本来阿倍内親王の護衛として置かれた授刀衛の長官であった藤原御楯(永手の同母弟千尋)も急死して、授刀衛が孝謙上皇の支配下に戻ったことから


ついに真楯(永手の同母妹八束)も仲麻呂から離反します。


そして764年、老齢のため致仕(引退)の願いを出そうとしていた吉備真備を

造東大寺司長官として平城京へ呼び戻すのです。


この造東大寺司長官は永手のアイデアでしょうか。実に絶妙な官職といえます。


まず、議政官でも省の長官でもなく武官でもありません。


しかし東大寺正倉院には武器も納められていて、それを仲麻呂の乱で使用したという記録があります。


写経生も多くいて動員されたようですが、そういう文化会系だけでなく、おそらく大工のような体育会系?もいたでしょうし、何より役所の規模としては省に匹敵する人数を擁していました。


権力を握った仲麻呂は、もはや聖武天皇や光明皇太后に気を遣うこともなく、東大寺のことはあまり興味がなかったのなら、老齢で過去の人である吉備真備が戻っても気にならなかったでしょう。


こうして永手は着々と孝謙上皇をもう一度、表舞台に戻す準備を進めました。


ただこのとき既に孝謙上皇の心は道鏡に傾き、そのために淳仁天皇との対立は先鋭化していました。


さあ、いよいよ次は仲麻呂の乱です!


恵美押勝の乱ともいわれる大乱が幕を開けます。そして弓削道鏡の登場に永手の運命はどうなるのでしょう?


次回もぜひご訪問をお願いいたします。