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さてこれからの永手を書く上で重要な人物、今回は吉備真備キビノマキビについてお話をしておこうと思います。
吉備真備はもとは下道朝臣シモツミチアソミ氏の出身で、この下道氏はもともとの吉備氏の勢力が5世紀頃に強くなり、
雄略天皇の時代に反乱を繰り返したため
吉備に対して大和朝廷が強硬な対策を取った結果、
律令制の確立過程で、吉備の国は備前、備中、備後、美作ミマサカに分割
吉備氏も上道臣、下道臣、笠臣などの氏族に分けられたと考えられます。
真備ももとの名前は眞吉備といい、おそらく遣唐使として渡唐したときに唐風に真備と変更したと思われます。
と、この前「日本人のおなまえ」(NHK)で視聴( *´艸`)
親としては古代の永光を伝えたいと思って名付けたような気もしますね。
ですから最初は下道朝臣眞吉備だったのですが、
後に朝廷から吉備朝臣の氏姓をたまわったために吉備真備キビノマキビというガリレオガリレイ的な名前になっちゃたワケです。
真備は持統9年(695)、現在の岡山県倉敷市真備町に生まれました。
真備町はまだ記憶に新しい、2018年7月6日の大水害があったところです。
ニュースなどでご存知だと思いますがマビ町と読みますが、
生誕地の箭田には吉備真備駅があり、こちらはキビノマキビ駅です。
彼が記録に現れるのは元正朝の716年、
第9次遣唐使の留学生としてでした。
翌年、阿倍仲麻呂(「百人一首」の「三笠の山にいでし月かも」の作者)や玄昉らと入唐します。
当時の唐は玄宗皇帝の治世で、その後宮で寵愛を一身に集めていたのは、あの楊貴妃でした💕
この時の留学生は超優秀で
20歳の阿倍仲麻呂は唐の太学に学び、あの難しいので有名な「科挙」に合格してたのち、国家公務員として採用されます。そして文官の道を歩むうち
李白や王維といった有名な唐詩人と交友関係を持ちます。
玄宗皇帝にも気に入られ高官に至りますが、ついに日本に帰ることなく唐の地で亡くなります。
「三笠の山にいでし月かも」は唐の長安で詠まれた望郷の歌です。
話が逸れますが、奈良には三笠山をかたどった「三笠」というお菓子があります。ホットケーキのような皮で餡をはさんでる、いわゆる「どら焼き」なのですが、関西では「三笠」と呼ぶのが主流で、ドラえもんの好物がいわゆる「三笠」だというのは大人になって初めて知ってびっくりしましたw
で、真備ですねー(*≧∀≦)
彼は寺院で学ぶことができた玄昉や太学で学べた仲麻呂と違って苦労をしたのでしょうが、
唐では才能を妬まれて難題をふっかけられ、その度に仲麻呂の生き霊に救われたり、空を飛んだり、蜘蛛の助けで「耶麻台詩」という暗号を解読したりするのですが、天文学と同時に陰陽道を習得し、
のちに唐で客死した阿倍仲麻呂の子供に陰陽師を伝えたといわれています。
かの安倍晴明は仲麻呂の子孫なのです。
「続日本紀」では
経書(儒教の教典)、史書、天文学、音楽、兵学などを学び735年に種子島漂着ののちに帰国とあり
帰朝時には、Wikipediaによると
経書(『唐礼』130巻)、
天文暦書(『大衍暦経』1巻・『大衍暦立成』12巻)、
日時計(測影鉄尺)、
楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、
音楽書(『楽書要録』10巻)、
弓(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)、
矢(射甲箭20隻・平射箭10隻)
などを献上し、
ほかにも史書『東観漢記』ももたらせた
ということで、最新の学問を多く輸入したということになります。
その後、橘諸兄のもとで学識を買われた真備は、従八位下から正六位下の大学助に任官し、
翌年 外従五位下(地方官に与えられる五位は外位ゲイと言い、地方官の最高位)
聖武天皇の母妃宮子の事務方である中宮亮に
そして翌年にはそれより高位に進むことのできる内位の従五位下に、
年末には宮子の精神疾患が落ち着き、
聖武天皇が初めて母親と会えたことで
従五位上に進みます。
その後武官である右衛士督なども兼任し
741年、立太子した阿倍内親王の東宮学士に、
743年には従四位下春宮大夫も兼任します。
よく橘諸兄が吉備真備を重用したと言いますが、当時の政治の主導者は聖武天皇ですから、
愛娘阿倍内親王の側近になったことは
聖武天皇の信頼がいかに篤かったかがうかがえます。
そして746年には下道朝臣から吉備朝臣の改姓が赦され、ここで吉備真備を名乗ることになります。
翌年には都知事にあたる右京大夫も兼任し、
孝謙天皇即位の749年、従四位上に昇るのです。
この時永手は、長い雌伏の時を経て従四位下に特進するのですが、真備はついに藤原北家の子息より上位にまで出世したのでした。
ところが政権が藤原仲麻呂に移ると
真備は中央から遠ざけられます。
750年には筑前守(福岡県)、ついで肥前守(佐賀県、長崎県)に転任、
751年には遣唐副使を追加で命ぜられます。
この時の大使は永手の弟、参議の清河キヨカワ、副使も先に決まっており
それが奈良麻呂の変で「杖下に死」んだ大伴古麻呂でした。
そこへもはや高官の真備が加わったので
清河は正四位下、大伴古麻呂は従四位上へ特進させるという異例の人事でした。
この顔ぶれを見ても、仲麻呂にとってこの遣唐使がどんな意味合いを持っていたかわかるでしょう。
しかし、この第12次遣唐使はなかなかの成果をあげています。
一行は高官に上っていた阿倍仲麻呂の尽力で、かなりの厚遇を得ますが
謁見した玄宗皇帝の前で、新羅が日本に朝貢していたことで、日本を上席にすべきだと堂々と主張し、席次を換えさせます。
そして、出国禁止を命じられていたため
大使の清河が乗船を断った、唐の高僧鑑真をひそかに自分の第2船に乗せたのも大伴古麻呂でした。
これが鑑真には幸いし、帰路の途中嵐にあった一行の内、第2船と真備の第3船は屋久島に漂着し、無事日本につくのですが、
清河と阿倍仲麻呂の第1船はベトナム北部に漂着後、唐に戻り、
ついに唐の地で高官として一生を終えることになります。
こうして帰国した真備は再び九州の大宰府の大弐(副官)に任じられ、
都から遠ざけられます。
しかしさすがに真備!対新羅のための数々の献策を行います。
こうして真備の兵学への造詣が都でしれわたったころ、
孝謙天皇のそばにいたひとりの男が
真備を都に呼び戻すように進言します。
その男こそが藤原永手、
彼はあくまで孝謙天皇(この頃は上皇でした)の側近として
大炊王を傀儡に独裁を進める仲麻呂に対峙していたのです。
次回はいよいよ永手のお仕事を検証するつもりです。
本年もおつきあいいただきありがとうございました。
来年は隠された永手の活躍を解き明かしていく予定です。
またこの前お話した古代史ブログのヤマトタケルの再編も行いたいと思っております。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
それでは皆さま、良いお年をお迎えください。